第3話 百万円
アパートの夕方の廊下は薄暗かった。
鍵を回す。
ドアの内側から、室内の匂いがわずかに漏れた。
シャンプーと甘い柔軟剤の匂い。
部屋は散らかってはいない。
リビングのローテーブルにリモコンが並んで置いてあった。
ソファには朝脱いだままのグレーのスウェット。
彼女はいない。出勤日だ。
茂はスマホを見た。
帰ってくるまでの時間は十分にある。
慌てなくていい。
冷蔵庫を開けて半分残ったペットボトルのコーラを飲んだ。
冷えてはいる。炭酸が緩い。
一口だけ残った。
キャップを締め、ペットボトルを戻す。
冷蔵庫の扉を閉じると、廊下を奥へ歩き出す。
アパートの廊下は長くはない。
寝室のドアは少しだけ空いていた。軽く押して開く。
室内は薄暗い。ベッドの上には、寝癖みたいな皺が残っている。
今朝出た時と同じ。
枕元にUSB-Cのケーブルが伸びていた。
軽く見て視線を移した。
クローゼット横の収納が並ぶ。
手前に背の低いチェストが三段。
上は下着、真ん中はTシャツ、下は雑多。毎日の生活に必要な物だけが詰まってる。
金はそこじゃない。
その横、壁際に置いた白い棚。
天板には小さな鏡と香水の瓶、アクセサリーケース。細い鎖が皿からはみ出ていた。
ブランドが印刷された香水の瓶が並んでいる。
CHANEL、HERMES、BVLGARI、色々。
それを一つずつ、順に床へ下ろす。
棚に手を掛ける。押すと少しだけ動いた。
壁にピタリと付いていないのは、後ろに隙間があるからだ。
一度耳を澄ませた。何故かはわからない。どれも遠い。大丈夫。
次に聞こえたのは、自分の呼吸だった。
棚を少しだけ前に引き出す。床と擦れて引きずる音がでた。
手の位置を変えてもう一度力を入れる。
壁と棚の間に隙間が出来た。
そこへ手を差し込む。
指先にぶ厚いビニールの手触りがあった。
掴み、引き出す。
出てきたのはビニール袋に入った札束だった。
輪ゴムでまとめた束がいくつも重なっている。
新しい札と古いのが混ざっていた。帯付のはない。
束を取り出し、迷いなく輪ゴムをほどいた。
数える。一枚ずつ。速くはない。
十万の束が積み重ねていく。
十万の束を十。これで百。
鼻から長く息を吐いた。
抜いたら後は戻すだけ。
減ったのが分からないように。
どうせ数えてない。バレはしない。たぶん。
適当に棚と壁の隙間に差し込んで奥に置く。
雑な方がこういうのはわかりにくい。
棚を戻し、小物や香水を元の位置に置く。
順が同じなら分からないだろ。
百万円を用意していた紙袋に入れ、ジャケットの内側へ差し込んだ。
重い。質量が。
盗った事を悪いとは思わない。
どうせ大手を振って使えない金だ。なら俺が使ってやる。
茂は玄関の方へ歩いた。
玄関の前で立ち止まり、スマホを取り出し指を滑らせる。さっきもらった名刺の番号。
三和通商の坂口。
呼び出し、十コール待つ。
出ない。
しつこいのは無しだ。欲しいが透けるとボッタクられる。
代わりにメッセージを打った。
「お金用意できました。今日払えます。」
送信。
既読が付かない。
大丈夫。あれは簡単には売れない。
マニアックすぎる。
茂は靴を履いてアパートをでる。
玄関の鍵を閉めた。
外の空気は冷たく、遠くでサイレンが鳴っていた。
スマホが震えた。
『店が入ってるビルの共有駐車場で』
画面を一度見て、短く返信する。
打ち終わるとスマホをポケットに戻した。心臓は速くならない。
危ない取引じゃない。
階段を下りながら、胸を押し、紙の束を確かめた。
百万円。
欲望の値段。




