第135話 第26章 孤独の番人 2 不退去の理由
タツオは、ぽつりぽつりと昔話を始めた。
かつての彼は、どこにでもいる真面目なサラリーマンだった。妻のアケミ、息子のマサヤと三人、幸せそのものの家庭。タツオは反対したが、妻の勧めでマサヤは中学受験のために進学塾へ通うことになった。
いつもは車で送迎していたが、その日に限って用事があり、マサヤも「大丈夫だ」と言うので、その時だけ電車で向かわせた。
駅へ向かう歩道――マサヤは、酒に酔ったトラックにはねられた。
しかし、裁判で「危険運転致死傷罪」は適用されず、下されたのは懲役11ヶ月というあまりにも軽い判決だった。
ネコ建設という大手の会社は秘密を徹底的に隠蔽し、お友達の上級国民様に忖度ももらった影響が大きかった。よって、組織的な堕落体質は無関係とされた。
モチオ:「世の中は理不尽だな。……まさか、そのトラックはネコ建設のものだったのか?」
タツオ:「ああ」
タツオは話を続ける。
そこから妻のアケミは、精神を病み、壊れ始めた。
アケミ:「お前のせいだ! お前のせいだ!! マサヤを返せ! お前が死ね!!! お前が死ねばマサヤが帰ってくる!!!」
アケミは包丁を振り回したかと思うと、急に憑き物が落ちたような顔になる。
アケミ:「あ、塾のお迎えの時間だわ……。早く迎えに行かないと」
そう言って、車で迎えに行く準備を始めるのだ。
タツオ:「アケミ、すまない……すまない……」
アケミ:「離してよ!! 遅れるでしょうが!!!! 離して!!! 離して!」
そんな日々が続いた。症状は日に日にエスカレートしていく。
アケミ:「マサヤ……食事をとってくれないの。マサヤ、早く食べなさい」
テーブルに置かれたぬいぐるみに問いかけるアケミ。
アケミ:「おいしくないのかしら……」
そう呟いては、号泣しだす。
タツオは自らの心の傷を隠しながら、アケミの治療のために奔走した。
タツオ:「なんとかならねーのかよ、先生! なあ、金ならいくらでも出すからよ!!!」
どこの医者へ行っても、彼らは首を横に振り、入院を勧めるだけだった。
アケミは日ごとに食事を拒み、骨が浮き出るほどに痩せこけていった。
タツオはどんな些細な噂でも、ガセネタでも構わなかった。必死に情報を探し回り、
ついに山奥の研究所へと辿り着く。
先生:「私は物理学者です。医学の免許もありますが、診るのはお付き合いのある近隣住民の方のみなのですが……」
タツオ:「何とかしてください!!!」
先生は、力なく座るアケミを診察した。
先生:「アケミさんは現在を受け入れられず、記憶が過去のどこかのタイミングをずっと彷徨っています。今は薬で落ち着いていますが……」
タツオ:「先生! 何とかしてください!!」
先生:「ここまで来ると、正直、私にどうにかできる状況ではありません。医者が匙を投げるのも分かります。食事も摂れない精神状態だ。あと数日、持つかどうか……。できれば入院を」
タツオ:「アケミをあんな、一生出られない檻に閉じ込めたくない! どうか! どうか先生! もう先生しかいないんです!」
先生:「いや、私に何をしろと言うのです?」
タツオは、急いでポケットをかき回した。
タツオ:「ほら! 先生!! 私、これを見て来たんです! これ!」
タツオが差し出したのは、ネットの記事だった。
『天才物理学者、山奥で孤独の研究。記憶喪失装置の開発に成功――その真の目的は?』
タツオ:「先生! これで! これで!! なんとか! アケミの記憶からマサヤの事故を消してください!!」
すると、先生の顔色がサッと変わり、不機嫌になった。
先生:「それはデマです。すみませんが、デマに振り回されてこっちは迷惑しているんです。お帰りください」
タツオとアケミは、半ば追い出されるように外へ出された。
それでも、タツオは藁をも掴む思いだった。車椅子のアケミは、ただぼーっと空を眺めている。
タツオは研究所の玄関前で、微動だにせず待ち続けた。
三時間が経過した頃。
雨が降り始めた。
それでもタツオは一歩も動かず、ただそこに立ち尽くしていた。
アケミが無邪気に話しかける。
アケミ:「タツオさん、また雨ですね。もう三回目! デートの時はいつも雨! 私たち、呪われてるのかしら! ね!」
タツオはもう、どこへも行けなかった。
行く場所も、帰る場所さえ、もう分からなくなっていた。
ただ、動けなかった。
その時。
ドアが、静かに開いた。
先生:「濡れるので、中に入ってください」
先生は、タツオとアケミを再び招き入れた。




