【第八話】喧嘩宣言
〈現世・某病院〉
「……愛璃」
純弥は、妻の名前を呼んだ。
病室の入口。
そこに立つ愛璃は、肩まで伸びた黒髪に整った顔立ち。
身につけている服も上品だった。
そして。
その隣には――璃玖。
八歳の息子がいた。
異世界にいた間も、忘れていたわけではない。
帰れば、この二人とも向き合わなければならない。
分かっていた。
それでも。
「……目、覚めたのね」
「ああ」
「そう」
それだけだった。
純弥の胸に抱きついていた結愛が、僅かに顔を上げる。
「お母さん……」
愛璃の視線が結愛へ向く。
「結愛は今日もここにいたのね」
「……うん」
「そう」
また、それだけだった。
純弥は、結愛の肩に回した腕へ少しだけ力を込めた。
異世界へ行く前なら。
この光景を見て、自分を責めていただろう。
自分がいるから。
この家族は壊れている。
自分がいなければ。
もっと違う形になれたのではないか。
――そんなことを考えていた。
でも。
今は違う。
「父さん?」
璃玖が小さな声で呼んだ。
「ん?」
「大丈夫?」
「……ああ」
純弥が手を伸ばす。
璃玖の頭を撫でる。
「心配かけたな」
「死ぬのかと思った」
「縁起でもないこと言うなよ」
「だって、先生もお母さんもおじいちゃんも……」
璃玖が俯く。
「璃玖」
「ん?」
「大丈夫だ」
「……うん」
璃玖は少しだけ笑った。
純弥も笑う。
その姿を、愛璃が黙って見ていた。
「純弥」
「ん?」
「少し、話があるの」
「今?」
「できれば」
純弥は結愛を見る。
目を泣き腫らし、明らかに離れたくなさそうな顔をしていた。
「明日にしてくれ」
「今は動けないし、二人がいないほうがいいんだろ?」
子供たちを見つめて、愛璃に視線を戻す純弥。
「……しばらく寝てたんだ」
「結愛とも話したい」
「分かったわ」
愛璃は頷いた。
「じゃあ、明日」
病室を出ようとする。
部屋を出る前に璃玖が振り返る。
「姉ちゃん」
「なに?」
「また明日来るから」
「うん」
「父さん」
「おう」
「死ぬなよ」
「だから縁起でもねえって」
璃玖が笑った。
純弥も笑う。
愛璃と璃玖が病室を出て、扉が閉じる。
「……」
「……」
沈黙が病室に広がる。
不意に、結愛が扉に近づく。
扉を開けて、廊下に誰もいないことを確認する。
「……帰ったね」
扉を改めて閉める。
そのまま、純弥のベッドに潜りこむ。
「……何してるの?」
「お父さん動けないから」
「大丈夫」
「看護師さんに、ここならいいって聞いてるから」
「……たくましいね」
「……お父さん」
「ん?」
「お母さん、怒ってる?」
「なんで?」
「なんとなく」
「いつもあんな感じだろ」
「そっか」
結愛はそう言ったものの。
納得しているようには見えなかった。
「結愛」
「なに?」
「お前は?」
「え?」
「大丈夫なのか?」
「うん」
「川に落ちただろ」
「落ちたんじゃないよ」
少し得意そうな顔。
「飛び込んだの」
「変わらないだろ」
「だって」
結愛が口を尖らせる。
「小さい子が落ちたんだよ?」
「知ってる」
「私が一番近くにいたから」
「それも知っている」
「見ていたからな」
「だったら――」
「結愛」
純弥の声が少しだけ低くなる。
結愛が黙った。
「助けたことを怒ってるんじゃない」
「……」
「お前が助けに行ったことも」
「怖かったのに飛び込んだことも」
「俺は、すごいと思ってる」
結愛が目を丸くした。
「怒らないの?」
「怒るよ」
「どっち?」
「助け方に怒ってる」
「?」
純弥は、小さく息を吐いた。
「思った以上に川の流れも速かっただろ?」
「……うん」
「あの子もパニックになって、暴れていただろ?」
「子供の力じゃどうにもならない時もある」
「次は大人を呼べ」
「あの時も、すぐ近くにいただろ?」
「でも間に合わなかったら?」
「叫べ」
「それでも――」
「……分かってる」
純弥は少しだけ言葉に詰まる。
「それでも間に合わない時は、ある」
「だからこそ、そうならないように準備するんだ」
「大人の数を増やしたり、天気予報を確認したり」
「事故は完全には防げないからこそ、危険予知や予防をやるしかない」
純弥は結愛を見る。
「とにかくだな」
純弥は一つ息を吐く。
「……困るんだよ」
「お前がいなくなると」
「お父さんが?」
「ああ」
「どのくらい?」
「めちゃくちゃ」
「そんなに?」
「仕事辞めるくらい」
「それは困ってなくない?」
「例えだよ」
結愛が笑う。
純弥も笑った。
「じゃあ」
結愛が小指を出した。
「次はちゃんと考える」
「絶対?」
「絶対」
「無茶するなよ」
「お父さんもね」
「お父さんが?」
「今回、一番無茶したのお父さんでしょ」
「……」
「親ってのはな、子供のためなら無茶するものなの」
「……お母さんも?」
純弥は、一瞬だけ黙る。
「ああ」
「結愛の見えないところで無茶してるんだよ」
「結愛のためにな」
「……見えるところでやってほしいのに」
「そうだな」
純弥は笑った。
それ以上は、何も言えなかった。
代わりに。
結愛の小指に、純弥は自分の小指を絡めた。
「約束だな」
「うん」
「お互いに無茶をしない」
「結愛は夏休みの宿題をちゃんとやる」
「……増えてるんだけど?」
「指切っちゃったからダメです」
病室に二人の笑い声が響いていた――
――翌日。
愛璃だけが病室を訪れていた。
「――養子縁組?」
純弥の声が病室に響く。
愛璃は椅子に座ったまま、表情を変えない。
「そう」
「……まだその話してたのか」
「まだ、じゃないわ」
「前から決まっていたことでしょう」
「決まってない」
純弥が即答する。
「俺が断ってる」
「あなたが断っていただけよ」
「父親が断ってるなら止まるだろ」
「だから止まっていたわ」
愛璃は淡々と言った。
「あなたが生きている間は」
「……」
純弥の目が細くなる。
「どういう意味だ」
「そのままよ」
愛璃は視線を逸らさない。
「あなたが意識を失った」
「医師からは、助からない可能性もあると言われた」
「だから、お父様たちが話を再開したの」
「……」
「仁科家も、以前から結愛を気に入ってくださっていたし」
「待て」
純弥が遮る。
「俺が死ぬのを待ってたってことか?」
「そんな言い方しないで」
「じゃあ、どう言えばいい?」
「あなたがいなくなった後のことを考えただけ」
「母親はお前だろ」
愛璃の表情が僅かに揺れた。
「……私には璃玖がいる」
「結愛もいるだろ」
「分かってるわ」
「分かってないだろ」
純弥が睨む。
「十歳だぞ」
「結愛はまだ十歳だ」
「その娘を」
「父親が死にそうだからって」
「勝手に別の家へ出す話を進めるのか?」
「勝手じゃない」
愛璃の声も少しだけ強くなる。
「仁科家なら、結愛は何不自由なく暮らせる」
「教育だって」
「将来だって」
「別所の人間として暮らすよりも――」
「もちろん」
「あなたと二人で暮らすより――」
「……なんだよ」
「最後まで言ってみろよ」
「……」
「俺と二人で暮らすより?」
愛璃が黙る。
純弥は鼻で笑った。
「相変わらずだな」
「何が?」
「全部」
「家が決めたことなら」
「本人がどう思うかなんてどうでもいい」
「そんなこと言ってない」
「同じだよ」
「違うわ」
愛璃が立ち上がった。
「私だって、そうしてきた!」
病室に声が響いた。
「家のために結婚して」
「家のために子供を産んで」
「家のために――」
言葉が止まる。
純弥は黙って愛璃を見る。
「……それが」
愛璃の声が小さくなる。
「別所に生まれた女の役目なのよ」
「結愛は違う」
「私の娘よ」
「俺の娘でもある」
「別所の人間なのよ!」
愛璃が純弥を見る。
「だから、私は結愛に一番いい道を――」
「結愛に聞いたのか?」
「……」
「仁科家の養女になりたいか」
「結愛本人に一回でも聞いたのか?」
「十歳の子供に何が分かるの?」
純弥の表情が止まった。
「……そうか」
「純弥」
「もういい」
「何が?」
「お前と話しても終わらない」
「……」
「慈臣さんと慧司さんに話す」
愛璃の顔が変わった。
「やめた方がいいわ」
「なんで?」
「あなた一人で、別所家をどうにかできると思ってるの?」
純弥は少しだけ笑った。
「思ってないよ」
「じゃあ――」
「だから逃げるのをやめる」
「……え?」
「一回、ちゃんと喧嘩する」
「別所家と」
愛璃は何も言えなかった。
純弥は窓の外を見る。
青い空。
その向こうに。
別の世界がある。
「逃げちゃダメなんだよな」
「……何?」
「ただの独り言」
純弥は少しだけ笑っていた――
【第九話へ続く】




