【第二十五話】人生はクーリングオフできない
〈現世〉
――それから、月日は流れた。
結愛は退院し、日常へ戻っていった。
純弥もまた、少しずつ厨房へ戻っていった。
結愛は走った。
笑った。
食べた。
時々、食べすぎて純弥に怒られた。
そして。
璃玖は――料理を続けた。
最初は、基本から。
次第にもっと本格的に。
包丁。
火。
出汁。
食材。
一つずつ覚えていった。
そして。
自分と純弥の間に、血の繋がりがないことも知った。
それでも、何も変わらなかった。
璃玖にとって、父親は最初から一人だった。
――さらに長い年月が流れた。
季節を、何度も何度も繰り返して。
かつて三十八歳だった男の髪には、白いものが増えた。
皺も増えた。
身体も昔のようには動かない。
それでも。
衛守純弥は。
長く生きた。
父親として。
料理人として。
一人の男として。
そして。
その頃には、璃玖ももう少年ではなかった。
純弥の実家で修業を重ねた。
何年も厨房に立った。
教えられる側から。
教える側へ。
一人前の料理人として。
自分の場所を作っていた。
「――璃玖さん」
ある日の厨房で、若い料理人が璃玖へ声をかけた。
「前に言ってましたよね」
「何を?」
「純弥さんとは、血が繋がってないって」
璃玖の手が止まった。
「ああ」
何でもないことのように答える。
若い料理人は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「……その」
「ずっと、気になってたんですけど」
「何が?」
「それでも……」
言いにくそうに言葉を選ぶ。
「純弥さんのことを、親父って呼ぶんですね」
「……」
璃玖が不思議そうに首を傾げた。
「当たり前だろ?」
「え?」
「俺の父親はあの人だけだよ」
「……」
「確かに、血は繋がってないけど」
璃玖は再び包丁を動かし始める。
「でも」
「親父は親父だろ」
一度だけ。
若い料理人を見る。
「繋がりなんて、血じゃなくてもいいんだよ」
「……」
それだけ言って。
璃玖は何事もなかったように、料理へ戻った。
〈現世・仁科総合病院〉
――さらに、年月が過ぎた。
白い部屋。
窓の外には穏やかな空。
ベッドの上で一人の老人が、横になっていた。
衛守純弥。
八十歳。
長い人生だった。
大きな病気を何年も患ったわけではない。
ただ。
身体が、少しずつ終わりへ向かっていた。
医師からも、“そう長くない”と告げられている。
「……」
純弥が薄く目を開ける。
「起きた?」
ベッドの横に、一人の女性が椅子に座っていた。
「……結愛か」
年齢を重ねた。
それでも。
笑った顔は昔と変わらない。
「何時?」
「三時」
「夜?」
「昼」
「……寝たな」
「ずっと寝てるよ」
「年寄りだからな」
「自分で言う?」
「八十だぞ」
「まだ若い」
「無茶言うな」
結愛が少しだけ笑う。
病室の扉が開く。
「親父」
璃玖。
こちらももういい年だった。
手には小さな紙袋を抱えていた。
「……なんだそれ」
「差し入れ」
「病人に?」
「医者には聞いた」
「何持ってきた」
「プリン」
「……」
純弥が笑った。
「……奇跡のプリンか」
「……うるさい」
璃玖が容器を取り出す。
「食える?」
「……少しなら」
「無理すんなよ」
「誰に言ってんだ」
「八十の爺さん」
「お前な……」
結愛がくすくすと笑う。
璃玖がスプーンですくう。
「ほら」
「自分で食える」
「手震えてるじゃん」
「うるせえ」
純弥がゆっくりと口にする。
「……」
璃玖が見る。
「どう?」
「……」
「父さん?」
純弥が少しだけ口元を歪める。
「昔より上手くなったな」
「当たり前だろ」
璃玖が笑う。
「何年修業したと思ってんの」
「まだまだだな」
「最後までそれ?」
「料理人に」
純弥がゆっくり息を吐く。
「――合格なんてねえんだよ」
「……」
璃玖の目が少しだけ揺れる。
「覚えてたんだ」
「……」
「昔言ったこと」
「……知らん」
「ボケた?」
「殴るぞ」
「力ないだろ」
「お前……奇跡のプリンの効果を舐めるなよ?」
「それやめろ!」
「恥ずかしいんだから!」
結愛が二人の間で笑っていた。
しばらく、穏やかな時間が流れた。
やがて。
純弥の呼吸が、少しずつ浅くなっていく。
「……親父」
璃玖がベッドへ近づく。
「ん?」
「俺さ」
「……」
璃玖は少しだけ言葉に迷った。
もう子供ではない。
ずっと前から、大人になっている。
それでも。
父親を前にすると、時々、昔の自分へ戻ってしまう。
「生まれ変わったら」
「……」
璃玖が笑う。
「次も父さんの子供がいいよ」
「……」
純弥の目が僅かに動く。
「いい年して、気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ」
「死にかけの親父に言われたくない」
「まだ死んでねえ」
「じゃあ今しか言えないじゃん」
「……」
純弥がゆっくり笑う。
「そうかよ」
「うん」
「……物好きだな」
璃玖が目元を拭う。
「親父に似たんだよ」
「血繋がってねえぞ」
「知ってる」
「……」
「だから何?」
純弥が何も言えなくなる。
そして。
ほんの少し笑った。
「……そうだな」
璃玖が純弥の手を握る。
「親父」
「ん?」
「ありがとう」
「……」
純弥は返事をしなかった。
ただ。
弱い力で、璃玖の手を握り返した。
「お父さん」
「……なんだ」
結愛がベッドへ近づく。
「お前も、生まれ変わっても娘がいいとか言うのか?」
「それは璃玖が言ったからいい」
「……なんだよ」
「私は」
結愛が、少しだけいたずらっぽく笑った。
まだ少女だった頃と変わらない笑顔。
「一個だけ言いたいことある」
「……なんだ」
「お父さん」
「うん」
「やっと……会えるんだから」
「……」
純弥の目が僅かに開く。
結愛が笑った。
「今度はクーリングオフしたらダメだよ」
「……」
純弥が止まる。
“クーリングオフ”
その言葉は、もう何十年も聞いていなかった。
でも――忘れるはずがない。
「……お前」
掠れた声。
「……知ってたのか」
「何を?」
「……」
結愛がとぼける。
「なんでもないよ」
「お前な……」
純弥が僅かに笑う。
「任せておいて」
結愛がそう言った。
「……だから」
結愛が父親の手を握る。
「今度は帰ってこなくていいよ」
「……」
「こっちは」
結愛が璃玖を見る。
璃玖も小さく頷く。
「もう大丈夫だから」
「……」
純弥は二人を見る。
娘。
息子。
長い。
長い時間。
父親として生きた。
泣いた。
怒った。
笑った。
間違えた。
失敗した。
離婚もした。
後悔も数え切れないほどあった。
それでも。
二人はここにいる。
ちゃんと大人になった。
それぞれの人生を、ちゃんと歩いている。
「……そっか」
純弥が小さく呟く。
「もう」
「大丈夫か」
「うん」
結愛が答える。
「大丈夫」
璃玖も答えた。
「俺たちは大丈夫だよ」
「……そうか」
純弥が天井を見る。
もう。
帰りたくないとは思わなかった。
帰りたいとも思わなかった。
この世界でやるべきことは――終わった。
父親として生きるべき時間を。
十分すぎるほど生きた。
「お父さん」
「ん?」
「覚えてる?」
「何を」
結愛が笑う。
「宝くじよりずっといいもの、当たったと思ってるよ」
「……」
純弥も笑った。
「そりゃよかったな」
目を閉じる。
暗くなる。
だが――怖くはない。
「お父さん」
「親父」
「……じゃあな」
純弥が小さく呟いた。
「うん……“またね”」
「親父……“またな”」
純弥の口元がほんの少し上がった。
“別れの言葉”
この八十年で様々な人と出会い。
様々な人と別れた。
言えた相手も言えなかった相手もいる。
そして。
また一つ、誰かとの別れが訪れる。
今度は自分が見送られる側だった。
でも。
ただの別れだとは思わなかった。
この先には待ってくれている人がいる。
ずっと。
ずっと。
待たせている人がいる。
だから。
今度は。
自分から会いに行けばいい。
衛守純弥は、静かに息を吐いた。
そして。
現世での、長い人生を終えた――
【エピローグに続く】




