【第二十三話】またね、またな
〈某異世界・湖畔の教会〉
――六日目。
結愛の身体に宝玉を宿してから五日が経った。
食欲は戻った。
自分の足で歩けるようになった。
湖畔を走っても。
もう、息を切らすこともない。
そして今日。
女神による最後の確認が行われていた。
『――問題ありません』
女神が結愛を見る。
その胸元では、宝玉の光はもう見えていない。
――結愛の身体の中へ定着していた。
『宝玉は完全に馴染みました』
「……」
純弥が息を止める。
「じゃあ」
聞くのが少しだけ怖かった。
それでも、聞かなければならない。
「――治った?」
『はい』
女神が迷うことなく頷く。
『結愛さんは治りました』
「……」
『現世へ戻った後も』
『宝玉が必要な魔素を供給し続けます』
『もう』
『魔素不足によって、彼女の身体が蝕まれることはありません』
「……治った」
結愛が自分の身体を見る。
手。
腕。
脚。
見た目は。
何も変わらない。
でも。
身体が軽い。
息が苦しくない。
胸が重くない。
「……本当に」
「うん」
唯依奈が笑う。
「治ったよ」
「……」
結愛の目から。
一粒、涙が落ちた。
「結愛」
純弥が近づく。
「どうした?」
「……分かんない」
「え?」
「嬉しい」
もう一粒、涙が落ちる。
「普通に歩ける」
「うん」
「走れる」
「ああ」
「ご飯も」
結愛が笑う。
泣きながら。
「いっぱい食べられる」
「……」
純弥は何も言わず、娘を抱き寄せた。
「……よかったな」
「うん」
「よく頑張ったな」
「……うん」
「もう大丈夫だからな」
「うん」
結愛が、純弥の胸へ顔を押しつける。
少し離れたところでは。
唯依奈が目元を拭っていた。
純弥が顔を上げる。
「唯依奈」
「ん?」
「お前も来い」
「え?」
「いいから」
純弥が腕を伸ばし。
唯依奈まで引き寄せる。
「わっ!」
三人一緒に抱き合う。
「狭い!」
「我慢しろ」
「お父さん力強い!」
「うるせえ」
唯依奈が笑う。
その目からも涙が落ちていた。
「……よかった」
「うん」
結愛が唯依奈を見る。
「ありがとう」
「……」
唯依奈は大きく頷いた。
「うん」
結愛を苦しめていた、闘病の日々は。
この日。
ようやく、終わった――。
――七日目。
純弥の手には、逢華から借りた宝玉が握られていた。
『準備は整っています』
女神が告げる。
『この宝玉を触媒として』
『純弥と結愛さんを現世へ戻します』
「……」
純弥が手の中を見る。
「これ、ちゃんと返せるんだよな?」
『はい』
『帰還後、唯依奈が逢華へ返却します』
「頼むぞ」
「任せて♪」
Vサインを作る唯依奈。
「絶対だからな!」
「……」
「傷つけるなよ」
「……」
「これ以上、問題起こすなよ?」
「――純弥?」
「なんだ」
「信用してなくない?」
『普段の行いのせいでしょ』
「なんでよ!」
結愛が吹き出す。
全員が笑っていた。
「それで」
純弥が女神を見る。
「今日で七日だよな?」
『はい』
「……よし」
「何が?」
唯依奈が聞く。
「愛璃との約束」
「……あぁ」
「七日」
純弥が胸を撫で下ろす。
「ギリギリ間に合った」
「殴られずに済む」
『どうでしょう』
「不吉なこと言うな!」
「殴られると思う」
「お前まで!?」
結愛も小さく手を上げた。
「私も」
「なんでだよ!」
「心配させた分」
「理不尽だろ!」
三人の笑い声が礼拝堂に響く。
やがて。
その笑い声も少しずつ静かになった。
結愛が唯依奈を見る。
「唯依奈さんは?」
「……」
「戻らないの?」
唯依奈は少しだけ笑った。
「私は、こっちに残る」
「……そっか」
「うん」
「私は、もうこっちの人だから」
結愛が少しだけ俯く。
「また会える?」
純弥の目が僅かに揺れた。
けれど。
唯依奈は迷わなかった。
「――会えるよ」
「本当?」
「うん」
胸を張る。
「だって、一回会えたから」
「……」
純弥が唯依奈を見る。
唯依奈も純弥を見る。
「ね?」
「……ああ」
純弥が少しだけ笑った。
「前例ができちまったからな」
「でしょ?」
結愛も安心したように笑った。
「結愛」
「ん?」
「ちょっと女神様のところ行ってろ」
「……」
結愛が純弥を見る。
唯依奈を見る。
そして。
何かを察したように少しだけ笑う。
「分かった」
「……お母さんには黙っててあげる」
「ちげぇよ!」
結愛は、ウインクしてから女神の方へ歩いていく。
あとには二人だけが残った。
「……」
「……」
先に笑ったのは唯依奈だった。
「また、帰っちゃうね」
「ああ」
「今回は」
「――ちゃんと帰る理由がある」
「うん」
「結愛を愛璃のところに返す」
「うん」
「璃玖も待ってる」
「うん」
純弥は唯依奈を見る。
「――待ってろとは言わねえからな」
「え?」
「前は二十年、待たせちまった」
「……」
「何年先かわからねぇのに、待ってろなんて言えるかよ」
唯依奈が少しだけ寂しそうに笑う。
「じゃあ、私が勝手に待つ」
「……」
「それなら純弥に止める権利ないでしょ?」
「……ないな」
「でしょ?」
唯依奈が笑う。
「今度は何年後かな」
「……そうだな」
「数か月かな」
「ああ」
「逆に、もっと長くなるかもね」
「……ああ」
「だから」
唯依奈が手を伸ばす。
「“またね”」
純弥はその手を見る。
そして。
握った。
「ああ」
「“またな”」
「……」
唯依奈が少しだけ不満そうな顔をした。
「……何だよ?」
「これだけ?」
「俺は既婚者だ」
「離婚してるくせに?」
「……」
「ハグで勘弁してくれ」
「結愛の前だしな」
遠くから、結愛がこちらを見る。
「キスはしないの?」
「結愛!!」
唯依奈が楽しそうに笑う。
「仕方がないなぁ」
「――ほら、早く」
「……」
純弥がため息を吐く。
そして。
唯依奈を抱き寄せた。
「……」
唯依奈の腕も純弥の背中へ回る。
少しだけ。
長く。
二人は抱きしめ合った。
「純弥」
「ん?」
「ありがとう」
「……」
「来てくれて」
「……」
「結愛ちゃんにも、会わせてくれて」
純弥は、少しだけ腕に力を込める。
「俺の方こそだよ」
「え?」
「結愛を助けてくれて」
「ありがとう」
「……うん」
「また会えてうれしかった」
やがて。
二人の身体が離れる。
「そうだ」
唯依奈が壁際を見る。
町で買った一本の弦琴が立てかけられていた。
「ギターどうするの?」
純弥はそれを見つめ、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……置いてく」
「いいの?」
「ああ」
「持って帰ったところで説明できねえだろ」
「……それもそっか」
「ペガサスの尻尾だもんね」
「税関で止まりそうだ」
「異世界から来た時点で税関どころじゃないよ」
「それに、密輸するわけにもいかないしな」
「密輸?」
「こっちの話だ」
純弥が唯依奈を見る。
「……とりあえず、練習しとけ」
「え?」
「次、会った時……」
「一緒に弾けるくらいには」
「……」
唯依奈の目が大きくなる。
「――次?」
「……」
唯依奈の口元が、ゆっくり上がっていく。
「次って言った」
「……言ったな」
「なんだかんだ言って、また来たいんでしょ」
「うるせえ!」
「約束ね!」
「勝手に決めんな!」
「女神様!」
唯依奈が振り返る。
「今の記録して!」
『既に記録しています』
「なんでだよ!」
『後々、必要になるかと思いまして』
「何にだよ!!」
結愛が声を上げて笑っていた。
『では』
女神が二人を見る。
『そろそろ時間です』
「……ああ」
純弥が結愛の隣へ戻る。
手を差し出す。
結愛が握った。
「準備いいか?」
「うん」
「身体は?」
「大丈夫」
「気持ち悪くない?」
「大丈夫」
「怖く――」
「お父さん」
「なんだ」
「過保護」
「……うるせえ」
二人の足元へ光が広がっていく。
『衛守結愛』
女神が告げる。
『異世界転生契約の解除手続きを開始します』
「待って!」
唯依奈が叫んだ。
『……』
女神が露骨に嫌そうな顔をする。
「ちゃんとクーリングオフで!」
『……』
「そこ大事だから!」
「まだそれやるの!?」
純弥が叫ぶ。
『唯依奈』
「なに?」
『制度上、その名称ではありません』
「でも」
唯依奈が胸を張る。
「クーリングオフしたいです!」
『……』
女神が、深い深いため息を吐いた。
『分かりました』
『衛守結愛』
『あなたとの異世界転生契約を』
一拍。
『――クーリングオフとして処理します』
「やった!」
「何に勝ったんだよ!」
『衛守純弥』
『あなたについては、同行契約を終了します』
「ああ」
光が強くなる。
結愛が純弥の手を強く握った。
「お父さん」
「ん?」
「帰ろ」
「ああ――帰ろう」
「みんなが……家族が待っているからな」
最後に振り返る。
唯依奈が笑っている。
手を振っている。
数か月前。
同じようにこの世界を去った。
あの時は、もう会えないと思っていた。
でも――会えた。
「またな!」
純弥が叫ぶ。
唯依奈も大きく手を振った。
「またね!」
光が二人を包む。
その直前。
結愛が女神を見る。
「……」
結愛は、目が合ったのを確認してから、にこりと笑った。
そして。
片目をぱちりと閉じる。
『……?』
女神が僅かに首を傾げた。
次の瞬間。
純弥と結愛の姿が光の中へ消えていった――。
〈現世・仁科総合病院・病室〉
――声が聞こえる。
「……弥」
遠い。
「純弥!」
身体が重い。
「純弥!!」
「……」
ゆっくり目を開ける。
白い天井。
見慣れた病室。
そして。
視界いっぱいに女性の顔。
「……愛璃」
「――っ!」
次の瞬間、顔に衝撃が走った。
「痛ってぇ!!」
「七日!」
「……え?」
「七日って言った!」
「……」
純弥が時計を見る。
窓を見る。
そして。
「今日、何日?」
「約束した日!」
「じゃあ間に合ってんじゃねえか!」
「心配した分!」
「理不尽だろ!!」
愛璃の目には涙が浮かんでいた。
「……馬鹿」
「……」
純弥の声が止まる。
「本当に起きなかったら」
声が震える。
「どうしようって……」
「……悪い」
「謝るなら最初からやらないで」
「それは無理だ」
「……」
「結愛のため……家族のためだ」
そこで、純弥の言葉が止まった。
隣を見るとベッドの上に結愛がいる。
まだ、目を閉じている。
「……結愛?」
返事がない。
「結愛」
もう一度呼ぶ。
それでも、反応はない。
「……」
純弥の顔から血の気が引いていく。
「結愛?」
身体を起こす。
「結愛!」
「ちょっと!」
愛璃が純弥の肩を掴む。
「落ち着いて!」
「でも!」
「純弥!」
「結愛!」
帰ってきた。
自分は確かに、帰ってきた。
なのに。
「……結愛」
握っていたはずの。
娘の手。
最後まで一緒だった。
「おい……結愛……」
「……うるさい」
「……」
純弥が止まる。
愛璃も止まった。
「……え?」
結愛の瞼がゆっくりと開いていく。
「……お父さん」
「結愛!」
「声大きい」
「大丈夫か!?」
「大丈夫」
「痛いところは!?」
「ない」
「苦しくない!?」
「ない」
「気持ち悪く――」
「お父さん」
「なんだ」
「過保護」
「……」
愛璃が口元を押さえた。
涙を流しながら笑っていた。
結愛が、ゆっくりと身体を起こす。
手を握る。
開く。
胸元へ。
そっと手を当てた。
「……」
「結愛?」
「ある」
結愛が純弥を見る。
少しだけ笑う。
「ちゃんとあるよ」
「……」
純弥には分かった。
胸の奥。
この世界には本来存在しないもの。
“魔王”逢忠から譲り受けた宝玉。
これから先。
娘の命をずっと支え続けるもの。
「……そっか」
純弥も笑う。
「ちゃんと持って帰ってきたか」
「角生えてないよね?」
「……結愛の角は折ることできないな」
「誰のでもダメでしょ?」
純弥と結愛が笑い合っていた。
愛璃が二人を見ている。
「……何の話?」
「……」
純弥と結愛が顔を見合わせる。
「「長い(よ)」」
二人の声が重なる。
「……」
愛璃の目が細くなる。
「説明して」
「……はい」
「最初から」
「……はい」
結愛が笑う。
窓の外には見慣れた空が広がっていた。
七日前と何も変わらない。
魔法も。
魔王も。
聖女もいない。
いつもの世界。
家族が待っているいつもの世界。
そこへ。
二人は帰ってきた。
娘の命と。
一つの宝玉。
そして。
“またね”という、新しい約束を持ち帰って――
【第二十四話へ続く】




