【第十四話】ぬるいコーラ
〈某異世界〉
――純弥が現世へ戻ってから。
唯依奈には一つだけ不満があった。
「女神様」
『なんですか』
「お願いがあります」
『嫌な予感がします』
「まだ何も言ってないよ?」
『あなたの場合は、言う前から分かります』
「失礼だなぁ」
礼拝堂で、唯依奈は祭壇の前に立っていた。
「純弥に連絡したい」
『できません』
「即答!?」
『世界が違います』
「知ってる」
『なら諦めてください』
「嫌」
『……』
「文字だけでいいから」
『駄目です』
「電話じゃなくていい」
『駄目です』
「手紙!」
『それも駄目です』
「メール!」
『手紙と変わらないでしょう……』
『そもそも、送り先すら分からないのに届けるつもりですか?』
唯依奈が祭壇へ身を乗り出す。
「純弥が持ってた携帯!」
『スマートフォン、でしたか』
「そう!」
『あれは純弥と共に、元の世界へ戻りました』
「だから」
唯依奈が笑う。
「そこに文字だけ送って」
『……』
「お願い」
『無理です』
「女神様」
『無理です』
「世界救ったよ?」
『知っています』
「二十年頑張った」
『知っています』
「福利厚生」
『ありません』
「聖女手当」
『ありません』
「有給」
『ありません』
「ブラック!」
『上が白と言えば白です』
女神を睨みつける唯依奈。
不意に、あることに気づく。
「そもそも……」
「魂に合わせて、携帯も召喚されたの、おかしくない?」
『……』
「電波も無いのに何で持ち込ませたの?」
『……』
「……いつだか、愚痴ってたよね?」
「上司から無茶ぶりされているって……」
『…………』
「わざとスマホを持ち込ませた……とか?」
『知りません』
「知ってる人の答えだよね?」
『世界を跨ぐ通信方法を検討させられているだけです』
「そのために」
「向こうの世界の通信機器を知りたかった、ってこと?」
『えぇ、そうです』
『誰もやりたくなかったのですが』
『始末書が多い人物に白羽の矢が立ったのです』
『……つまり』
『あなたのせいです』
「なら、方針は決まったね」
『……できません』
『いや――やりませんよ』
『今回は、おだてても駄目ですよ』
にやりと笑みを浮かべる唯依奈。
(……おだててくださいってことね)
『……』
「大丈夫だって!!」
「女神様ならやれるって!」
「美人!」
「天才!」
「世界一!」
長い沈黙。
やがて。
女神がため息をついた。
『……文字だけです』
「やった!」
『返事が届く保証もありません』
「大丈夫!」
『画像も送れません』
「いいよ!」
『頻繁に使うことも――』
「分かった!」
『最後まで聞きなさい』
唯依奈はすでに笑っていた。
『送り先はどうするのですか?』
「覚えているよ♪」
『二十年前でしょう?』
「忘れるわけないじゃん」
唯依奈は懐かしい文字列を口にした。
二人のイニシャル。
二人の誕生日。
そして。
付き合い始めた日の数字。
学生時代の二人が、二人だけの特別だと思って作ったメールアドレス。
『……長いですね』
「そう?」
『意味があるのですか?』
「秘密」
そして。
最初のメールを送った。
――件名。
『新生活どうですか?』
鼻歌を鳴らしながら返事を待つ唯依奈。
想い人からのメールを待つ。
――この感覚は、いつになっても心をときめかせていた。
……だが。
「……返事がない」
「何日経ったと思ってるの?」
『そうですか』
「新生活忙しいのかな」
『娘さんと暮らしているそうですから』
「だよね」
唯依奈は笑った。
「じゃあ、もう一通」
『頻繁な使用は控えるようにと言いましたよね?』
「数日経ってるよ?」
『あなたの数日は短いのです』
「女神様の時間感覚がおかしいんだよ」
二通目を送る。
――件名。
『娘との生活、満喫中?』
さらに数日後。
「……返事がない」
『そうですね』
「無視?」
『既婚者ですから』
「…………」
『恋文の一種なのですよね?』
『むしろ正しい対応では?』
「離婚するって言ってたもん」
『まだ成立したとは聞いていません』
「女神様って意外と細かいよね」
『女神ですから』
三通目を送る。
――件名。
『無視はよくないと思います』
さらに数日。
「……返事がない」
『……』
「……女神様」
『はい』
「純弥、元気なんだよね?」
『……』
「ねえ」
『本人は生きています』
唯依奈の眉が寄る。
「本人は?」
『……』
「その言い方、何?」
『あなたは心配しすぎです』
「女神様」
『はい』
「見に行ってくる」
『駄目です』
「なんで?」
『世界が違うからです』
「メール送れたじゃん」
『文字と魂を同列に扱わないでください』
「ちょっとだけ!」
『駄目です』
「一日!」
『駄目です』
「半日!」
『値切るものではありません』
「じゃあ八日!」
『増えています』
「クーリングオフと同じ!」
『違います』
「同じだよ!」
『どこがですか』
唯依奈が胸を張る。
「純弥を返品したでしょ?」
『転生契約を解除したのです』
「返品!」
『違います』
「返品した商品がちゃんと届いたか確認するのは」
人差し指を立てる。
「販売者の義務です!」
『あなたは販売者ではありません』
「じゃあ女神様の代理!」
『私を巻き込まないでください』
「クーリングオフしたんだから、アフターサービスが必要だよ!」
『解除済みの契約にアフターサービスという概念はありません』
「ある!」
『ありません』
「ある!」
『ありません』
「ある!!」
『……』
「……」
長い沈黙。
ただ。
女神が深く、深く、ため息を吐いていた。
〈現世・仁科総合病院〉
今日も変化がないまま、面会時間が終わった。
「また明日な」
「うん」
「何かあったら看護師さん呼べよ」
「分かってる」
「我慢するなよ」
「分かってるって」
「夜中でも――」
「お父さん」
「ん?」
「過保護」
「知ってる」
結愛が笑う。
「おやすみ」
「おやすみ」
病室を出る。
扉が閉まる。
その瞬間。
純弥の笑顔も消えた。
うなだれたまま病院を出るしかなかった。
今日も、すぐには家へ帰る気にはなれなかった。
歩いた。
いつものように海岸に向かって。
〈現世・仁科総合病院・近郊の海岸〉
――海岸のベンチに座りこむ純弥。
ただ。
結愛の病室を眺めていた。
波の音とうみねこの鳴き声だけが響いていた。
「……」
何もできない。
料理なら作れる。
娘が食べたいものなら。
何だって作る。
金なら、働けばいい。
足りなければ頭を下げる。
別所家にだって。
仁科にだって。
誰にだって。
でも。
治せない。
“治すための薬ではありません”
医師の言葉が頭から離れない。
「……なんだよ、それ」
誰に言ったわけでもない。
「時間を稼ぐって」
稼いだその先に、何があるのだろうか。
「……」
純弥は俯いた。
異世界から帰ってきた。
帰りたくないと、一度は思った。
それでも。
結愛を残しておけないからと、帰ってきた。
別所家とも戦った。
仕事も失った。
結婚も終わった。
それでも、後悔はしていなかった。
娘がいるから。
それだけで十分だった。
なのに。
「……何もできねえじゃん」
拳を握り締めることしかできなかった――
その時。
「――あぁ!!やっと見つけた!!」
騒がしい声がした。
聞き覚えのある声。
あり得ない声。
純弥は顔を上げなかった。
「……今、お前まで出てくるなよ」
疲れている。
そう思った。
幻聴くらい、聞こえてもおかしくない。
「ひどくない?」
「……」
「せっかく来たのに」
「……来れるわけないだろ」
「来たよ?」
頬に何かが触れた。
冷たくはなかった。
純弥が“何か”を受け取る。
見慣れた赤いラベルのアルミ缶。
「……コーラ?」
「うん」
「……ぬるい」
「仕方ないじゃん」
「コンビニですぐ買ったのに、純弥全然見つからないんだもん」
「……コンビニ使えたのか?」
「使えるよ!」
「金は?」
「女神様にもらった」
「……意外と準備いいな」
「レジの子が、見たことないって騒いでいたけど……」
「野口英世はそんなに古くないぞ?」
「……夏目漱石」
「……二世代前じゃねぇか」
純弥はゆっくりと顔を上げる。
そこには、二十年前に死んだはずの幼馴染が。
当時の面影のまま、当たり前みたいな顔で立っていた。
「……唯依奈?」
「うん」
唯依奈は笑う。
そして。
もう一本のコーラを掲げた。
「海岸沿いで飲むなら」
隣へ座る。
「やっぱり、ぬるい方がいいでしょ?」
「思い出はプライスレスだもんね」
純弥は何も言えなかった。
唯依奈が自分のコーラを開けていた。
炭酸の抜ける音。
一口飲んで顔をしかめた。
「……ぬるい」
「お前が持ってきたんだろ」
「もうちょっと喜んでよ」
「告白した時と同じシチュエーションなんだから」
「……」
「純弥?」
「……本物?」
「触ってみる?」
「いいのか?」
「変なところ触ったら殴るよ?」
「じゃあいい」
「なんで!?」
唯依奈が笑っていた。
つられて、純弥の口元がほんの少しだけ緩んでいた。
「それで」
「……ん?」
「メール」
「……は?」
「なんで返してくれないの?」
「……メール?」
「いっぱい送った!」
「どこに?」
「携帯しかないでしょ!」
「俺の?」
「他に誰がいるの!」
「いや、来てないぞ」
「嘘!」
「本当だよ」
「だって、あのアドレス!」
唯依奈が懐かしい文字列を口にする。
二人のイニシャル。
二人の誕生日。
付き合った日。
「――っ!」
純弥が勢いよく顔を上げた。
「言うな!」
「え?」
「声に出すな!」
「なんで?」
「なんでって……!」
三十八歳。
子供までいる。
そんな男が。
学生の頃。
彼女と二人で考えた。
カップル丸出しのメールアドレス。
「……忘れろ」
「なんで?」
「頼むから」
「二人で考えたじゃん」
「二十年以上前だぞ!」
「私には大事な思い出なんだけど」
「そういう問題じゃない!」
「純弥、照れてる?」
「照れてねえ!」
「顔赤いよ?」
「うるさい!」
「夕日のせい?」
「沈んでるだろ!」
唯依奈が楽しそうに笑う。
「でも送ったよ?」
「だから来てないって」
「二人の思い出のアドレスに」
「そんな昔の……」
純弥が止まる。
「……あ」
「なに?」
「それ」
「前の携帯だな」
「……え?」
「今使ってないぞ」
「…………」
「今はキャリアも変わっているし、Gmailがメインだし」
「そもそも、メールなんてほとんど使わないしな」
「え?」
「SNSとか――」
「えすえぬえす?」
「……」
純弥が唯依奈を見る。
唯依奈も純弥を見る。
「お前」
「なに?」
「本当に二十年前で止まってるんだな」
「馬鹿にした!?」
「してない」
「した!」
「世界を救った聖女がSNS知らないのか」
「異世界にSNSなんてないもん!」
「そりゃそうだ」
「あっちはSOSで溢れてるわよ!」
「なんの自慢にもならねぇよ!」
「純弥!」
気づけば。
久しぶりに、声を出して笑っていた。
純弥が笑った。
唯依奈も笑っていた。
でも。
やがて、唯依奈の笑顔が消えた。
純弥を見る。
じっと。
「……なに?」
「純弥」
「ん?」
「どうしたの?」
「何が」
「――そんな顔してなかったよ」
純弥の笑顔が止まる。
「……」
「何があったの?」
純弥は答えなかった。
海を見る。
暗い海。
波の音。
手の中にはぬるいコーラ。
「……結愛がさ」
唯依奈の表情が変わる。
純弥は、小さく息を吐いた。
「病気なんだ」
「……」
返事はなかった。
波の音だけが二人の間に響いていた。
手の中のコーラは。
やっぱり、少しも冷たくなかった――
【第十五話へ続く】




