【第十二話】宝くじならよかった
〈現世・某マンション〉
――翌朝。
純弥が目を覚まして、最初に確認したのは結愛の体調だった。
「……三十七度八分」
体温計を見つめながら、純弥が眉を寄せていた。
「……昨日より上がってるな」
「微妙じゃない?」
布団の中から結愛が顔だけを出す。
「微妙でも熱は熱だ」
「学校行けるよ?」
「ダメ」
「えぇ……」
「昨日言っただろ」
「まだしんどかったら病院行くって」
「しんどくはないもん」
「じゃあ起きろ」
「……」
「学校行けるくらい元気なんだろ?」
「病人です」
「都合よく使うな」
結愛が布団を頭まで被る。
純弥は小さく笑った。
いつもの結愛だった。
少し熱があって。
少し身体が怠い。
それだけ。
少なくとも。
この時は、そう思っていた。
「ほら、着替えろ」
「はーい……」
「返事だけはいいな」
「お父さんに似たんじゃない?」
「俺はちゃんとやる」
「ほんと?」
「……たぶん」
布団から結愛の笑い声が聞こえた。
純弥も笑っていた。
〈現世・某病院〉
――数時間後。
地元の病院の診察室で、医師はパソコン画面を見つめていた。
「……」
純弥は黙って待つ。
隣にいる結愛は、自分の鼻をティッシュで押さえていた。
最初は風邪だと思っていた。
診察を受けて、感染症の検査だけだと思っていた。
問診中に急に鼻血が出始めて、質問項目が増えていった。
念のため血液検査をして……
そこからの沈黙が長かった。
「――先生?」
堪えきれず問いかける純弥。
医師が画面から目を離した。
だが……なかなか喋りださない。
眼鏡を外し、目元を押さえていた。
一つ息を吐いて、眼鏡をかけ直す医師。
「……不安にさせるつもりはありませんが」
「もう少し詳しく検査をした方がいいですね」
「……何かあるんですか?」
「現時点では、まだ何とも言えません」
「でも」
純弥は医師の表情を見る。
「普通じゃないんですよね?」
僅かな沈黙。
「いくつか、気になる数値があります」
結愛が純弥を見る。
「お父さん?」
「大丈夫」
すぐに答えた。
「ちょっと詳しく調べるだけだ」
「うん」
医師が続ける。
「こちらでは、できる検査に限界があります」
「設備の整った病院への紹介状を用意しましょう」
「お願いします」
「いくつか候補がありますが、一番大きな病院はここですね」
示された病院名に、純弥の視線が止まった。
見覚えのある名前だった。
“仁科”。
数日前、自分が白紙にさせた養子縁組の相手。
「……」
「お父さん?」
「いや」
純弥は一つ息を吐いた。
「先生」
「はい」
「仁科の病院でお願いします」
「分かりました」
迷いはなかった。
設備。
医師。
実績。
知っているからこそ。
娘を任せるなら、そこがいいと思った。
ただ。
病院を出て、結愛を車へ乗せてから。
純弥はすぐには運転席へ乗らなかった。
スマートフォンを取り出し、連絡先を開く。
数秒、その名前を見つめた。
そして。
電話をかける。
『……どうした』
聞き慣れた低い声。
「慈臣さん」
『珍しいな……お前から電話とは』
「――お願いがあります」
僅かな間。
『……言ってみろ』
「結愛を、仁科の病院で診てもらうことになりました」
『何があった』
「まだ分かりません」
純弥は車内を見る。
助手席の結愛は、こちらには気づいていない。
出血も止まっているようで、スマートフォンを触っていた。
「地元の病院で検査をしたら、気になるところがあると言われて」
『……そうか』
「紹介状を出してもらいました」
『なら問題ないだろう』
「はい」
『では、なぜ私に電話をした』
「……」
純弥は少しだけ黙った。
「仁科との話を白紙にさせたのは俺です」
『そうだな』
「その直後に」
一度、言葉を選ぶ。
「何も言わずに仁科の世話になるのは、筋が違うと思ったので」
電話の向こうが静かになる。
『……そうか』
「お願いします」
純弥は頭を下げた。
見えるはずもない相手に。
『分かった』
それだけだった。
『こちらからも話を通しておく』
「ありがとうございます」
『今から行け』
「……今からですか?」
『仁科を紹介されるくらいだ』
『何かある可能性もあるだろう』
『万が一に備えるのが大事だ』
『――純弥』
「はい」
『子供を優先しろ』
「……」
『それだけだ』
通話が切れた。
純弥はしばらくスマートフォンを見つめる。
「……言われなくても」
小さく呟いた。
車へ乗り込むと、結愛が見つめてくる。
「誰と電話してたの?」
「じいちゃん」
「おじいちゃん?」
「うん」
「なんで?」
「今から行く病院が、おじいちゃんの知り合いのとこだったから」
「ちょっとお願いしてたの」
「ふーん」
結愛はそれ以上聞かなかった。
「じゃ、行くか」
「どこ?水族館?」
「……聞いてたよね?」
「今から行くって」
「えぇ……」
「病院嫌い」
「――お父さんもだよ」
〈現世・仁科総合病院〉
検査は。
――一日では終わらなかった。
簡易検査のあと、そのまま検査入院が決まる。
血液。
画像。
組織。
聞いたことのない検査を。
何度も。
何度も。
結愛は嫌そうな顔をしながらも受けた。
そして。
――数日後の夕方。
純弥と愛璃だけが、別室へ呼ばれていた。
「……結愛は?」
「看護師が一緒にいます」
医師が答える。
「お二人に先にお話ししておきたいことがあります」
その一言だけで純弥は理解した。
――良い話ではない。
愛璃が隣に座る。
二人の間には、以前と変わらず距離があった。
けれど今だけは、同じ方向を見ていた。
医師が検査結果を机に置く。
「結論から申し上げます」
純弥の手に力が入る。
「結愛さんの身体の複数の組織で」
「細胞の機能に異常が確認されています」
「……細胞?」
「はい」
「癌ですか?」
愛璃が尋ねた。
「いいえ」
医師は首を横に振る。
「腫瘍性の疾患ではありません」
「じゃあ何なんですか?」
純弥が聞く。
「現時点では、原因を特定できていません」
「……」
「類似した症例はあります」
「ただ、非常に稀です」
「どのくらいですか?」
医師が続ける。
「正確な発症率は分かっていません」
「ただ、類似した症例まで含めても――」
「数十万人に一人とも、それ以下とも言われています」
「数十万人……」
愛璃が呟いた。
純弥は検査結果を見る。
数字。
文字。
画像。
見ても、何も分からない。
「……臓器は?」
「はい?」
「悪くなってる場所があるなら」
純弥が医師を見る。
「移植とかはできないんですか?」
「一つの臓器に限局した異常ではありません」
「じゃあ――」
「複数の組織で、同じような異常が起きています」
純弥は黙った。
「原因は?」
「分かっていません」
「遺伝ですか?」
「現時点で遺伝性を示す所見もありません」
「じゃあ」
声が少し掠れる。
「……何が原因なんですか?」
「……分かりません」
同じ答えに純弥は俯いた。
「治療薬は?」
医師が黙る。
その沈黙で嫌な予感が重なる。
「先生」
「……はい」
「治るんですか?」
「現時点で」
慎重に、医師は言葉を選んだ。
「異常そのものを根治する治療法は、確立されていません」
愛璃が息を呑んだ。
「……じゃあ」
純弥は医師を見る。
「何もできないんですか?」
「いいえ」
「進行を抑えるための治療を行います」
「それで治るんですか?」
「……」
「先生」
純弥の声が低くなる。
「治るんですか?」
医師は目を逸らさなかった。
「治すための薬ではありません」
「……」
「症状と進行を抑えるためのものです」
「どのくらい」
純弥は膝の上で拳を握った。
「どのくらい時間を稼げるんですか?」
「個人差が大きく、断言できません」
「一年?」
「……」
「五年?」
「純弥」
愛璃が止める。
「十年ですか?」
それでも止まらない純弥。
「現時点で余命をお伝えできる段階ではありません」
「じゃあ――」
「ただ」
純弥の言葉を医師が遮った。
「結愛さんの場合」
「検査期間中にも僅かな進行が確認されています」
純弥の言葉が止まる。
「治療を始めましょう」
「……」
「できるだけ早く」
純弥は、何も答えられなかった。
〈現世・仁科総合病院・病室〉
――結愛への説明はずっと短かった。
「結愛ちゃん」
「はい」
医師が結愛と目線を合わせる。
「検査、たくさん頑張ったね」
「痛かったです」
「ごめんね」
「先生がやったんじゃないから大丈夫です」
「面白いこと言うね」
医師が笑う。
「結愛ちゃんの身体の中でね……」
「ちょっと普通と違うことが起きてるんだ」
「病気ですか?」
「そうだね」
「珍しい?」
「うん――かなり珍しい」
「どのくらい?」
医師が一瞬、純弥を見る。
「似た症状まで含めても、数十万人に一人くらいかな」
「数十万人……」
結愛が考える。
指を折ろうとしてすぐに諦める。
「……それなら宝くじがよかったなぁ」
「……」
純弥の表情が止まった。
「だって」
結愛が笑う。
「同じくらい珍しいなら、そっちの方がよくない?」
純弥も笑っていた。
ただ。
その目には涙がたまっていた。
「そりゃそうだ」
「一等なら数千万?数億?」
「億だろうな」
「じゃあ絶対そっちがいい」
「俺だってそっちがいいよ」
「当たったら半分あげる」
「半分も?」
「お父さんだからね」
「太っ腹だな」
「残りの半分はお母さんに」
「……えっ?」
「二つ合わさらないと億にならないもん」
結愛が笑う。
純弥も笑っていた。
不意に。
病室の扉の向こうから、押し殺した嗚咽が聞こえてくる。
扉一枚を隔てた向こうで、愛璃も耐えていた。
ただ。
純弥も、その笑顔を最後まで作ることができなかった。
――本当に。
宝くじなら、よかったのに。
いつものように笑おうとするが。
溢れそうになる涙を堪えるので、精一杯だった――
【第十三話へ続く】




