【第十一話】ただの日常
〈現世・某マンション〉
――朝。
とある家庭で、父親の声が響いていた。
「――結愛!」
返事がない。
「朝だぞ!」
返事がない。
純弥は寝室の扉を開ける。
ベッドの上には、丸い塊。
「起きろ」
「……あと五分」
「昨日も聞いた」
「昨日の五分と、今日の五分は違うの……」
「何が違うんだよ」
「鮮度」
「寝言は寝て言え」
「寝てるもん」
「その割にはよく喋るな」
純弥は布団を無理やり剥がす。
「寒い!」
「まだ九月になったばかりだ」
「心が寒い!」
「知らん」
「お父さんの人でなし!」
「お前と同じ人間だよ」
「じゃあ仕事なし!」
「寝言なら何言っても許されると思うなよ?」
脇腹をくすぐる純弥。
笑い声が響いていた。
――数分後。
結愛はダイニングへやってきた。
「……多くない?」
テーブルを見る。
焼きたてのパン。
スクランブルエッグ。
ソーセージ。
サラダ。
スープ。
果物。
「成長期だろ」
「ホテルの朝食じゃないんだから」
「ホテルならもっと出す」
「……」
結愛が椅子に座る。
「お父さん」
「ん?」
「仕事、見つかりそうなの?」
純弥の手が止まった。
「安心しろ」
「実績だけは色々あるからな」
結愛がパンをちぎる。
しばらく、黙って食べていた。
「……お父さん」
「今度はなんだ?」
「ホテル辞めたの私のせい?」
「違う」
「でも」
「違う」
純弥が結愛を見る。
「俺が決めた」
「……」
「お前を守るために犠牲になったとか」
「そういう話じゃない」
「……でも」
純弥は肩を竦める。
「仕事なんて、また探せばいいんだよ」
「スーシェフだったのに」
「肩書きが料理を作っていたわけじゃない」
「でもすごいんでしょ?」
「そこそこ」
「もったいない」
「じゃあ」
純弥が結愛の皿へソーセージを一本追加する。
「食え」
「なんで?」
「いらん気を回すなら、元気に走り回っておけ」
「背も伸びないぞ」
「関係ないでしょ!」
「ほら」
「学校遅れるぞ」
「話逸らした!」
「大人の特権だ」
「ずるい!」
結愛は頬を膨らませる。
でも。
少しだけ笑った。
純弥も笑っていた。
こんな朝、何年ぶりだろう。
いや。
もしかしたら、初めてなのかもしれない。
誰にも気を遣わず。
家のことも。
別所のことも考えず。
ただ。
娘と朝飯を食う。
「……幸せだな」
「え?」
「なんでもない」
「最近、お父さん独り言多くない?」
「歳かな」
「まだ三十八でしょ」
「誰かさんにはアラフォーって言われたけどな」
「誰?」
「……」
唯依奈の顔が浮かぶ。
「同級生」
「……怪しい」
「食え」
「また逸らした!」
――数日後の休日。
インターホンが鳴った。
「はーい!」
結愛が玄関へ走り、扉を開ける。
「姉ちゃん!」
「璃玖!」
「父さんいる?」
「いるよ!」
璃玖が靴を脱ぐ。
「父さーん!」
キッチンにいた純弥が振り返る。
「おう」
「腹減った」
「第一声がそれかよ」
「オムライス」
「人ん家来て注文するな」
璃玖が首を傾げる。
「僕の家でもあるんでしょ?」
「……」
純弥が僅かに固まる。
結愛も璃玖を見る。
璃玖本人は何の疑問も持っていない。
「違うの?」
「……違わねえよ」
純弥が笑う。
「手洗ってこい」
「やった!」
璃玖が洗面所へ走っていく。
結愛が純弥を見た。
「お父さん」
「ん?」
「何?」
「……ううん」
純弥はフライパンを振る。
「卵追加だな」
「私もオムライス!」
「さっき昼食っただろ」
「別腹」
「どこにあるんだよ」
「ここ」
腹を指差す。
「普通の腹じゃねえか」
「育ち盛りです」
「都合いいな」
璃玖が戻ってくる。
「僕も手伝う!」
「包丁はまだ早い」
「姉ちゃんやってるじゃん」
「私は十歳だもん」
「二歳しか違わない」
「二年は七百三十日ですー」
「うざっ」
「お姉ちゃんに向かってうざいって言った!」
「本当のことじゃん!」
「喧嘩するなら二人とも玉ねぎ剥け」
「「はーい」」
純弥は、二人を見ていた。
結愛。
璃玖。
血。
そんなもの、知らなければ何も変わらない。
いや。
知っていたって変わらない。
「父さん!」
「ん?」
璃玖が玉ねぎを持ち上げる。
「これでいい?」
「どれ」
純弥が近づく。
「全然剥けてねぇじゃねぇか」
「難しい」
「貸してみろ」
璃玖の隣に立つ。
手を添える。
「ここから」
「こう」
「おお」
「無理に剥がすな」
「料理もそうだけど」
「力入れすぎるとダメになる」
璃玖が純弥を見る。
「父さん」
「何?」
「僕も料理人になれる?」
「――なれるよ」
「ほんと?」
「ああ」
「僕、才能ある?」
璃玖の問いに純弥は笑った。
「それはまだ分からん」
「えー!」
「でも」
璃玖の頭を撫でる。
「好きなら続けろ」
「うん!」
「父さんより上手くなれる?」
「それは困る」
「なんで?」
「悔しいから」
「大人げない!」
結愛が笑う。
璃玖も笑う。
純弥も笑っていた。
〈某異世界〉
――遠い、遠い世界。
「……暇」
唯依奈は礼拝堂の長椅子に寝転んでいた。
『聖女がそのような姿勢をするものではありません』
「誰もいないもん」
『私がいます』
「女神様はノーカウント」
『女神を何だと思っているのですか』
「上司?」
『違います』
「友達?」
『もっと違います』
「じゃあ――」
『その話は以前もしました』
「覚えてたんだ」
『私は女神ですから』
唯依奈は天井を見る。
「……純弥」
『元の世界へ戻りましたよ』
「それは知ってる」
『娘さんとも再会しています』
唯依奈が身体を起こした。
「見れるの!?」
『見ること自体は可能です』
「見せて!」
『嫌です』
「なんで!?」
『プライバシーがあります』
「女神様が言う!?」
『女神にも節度があります』
「召喚された魂の人生は覗くのに?」
『アフターフォローです』
「言い方!」
唯依奈が頬を膨らませる。
「ちょっとだけ」
『駄目です』
「五秒」
『駄目です』
「一秒」
『駄目です』
「けち」
『……』
「ねえ」
『はい』
「――元気にしてる?」
女神が少しだけ黙る。
『純弥ですか?』
「うん」
『元気ですよ』
「そっか」
『娘さんと一緒に暮らしています』
唯依奈の表情が柔らかくなる。
「そっか」
『仕事は辞めたようですが』
「え?」
唯依奈が立ち上がる。
「なんで!?」
『そこまでは教えません』
「教えてよ!」
『プライバシーです』
「ここで使う!?」
女神は答えない。
唯依奈はしばらく文句を言っていたが。
やがて。
また長椅子に座った。
「……でも」
少しだけ笑う。
「結愛ちゃんと一緒なんだ」
『はい』
「なら」
「純弥は大丈夫かな」
『随分と信頼しているのですね』
「当たり前じゃん」
唯依奈は胸を張る。
「私の好きな人だよ?」
『既婚者ですが』
「今それ言う!?」
礼拝堂に唯依奈の声が響いた。
〈現世・某マンション〉
――さらに数日後。
「ただいまー」
夕方。
結愛が家に帰ってきた。
「おかえり」
純弥はキッチンから顔を出す。
「今日どうだった?」
「普通」
「その普通が一番分からん」
「算数して」
「体育して」
「友達と遊んで」
「先生に怒られた」
「最後詳しく」
「聞かなくていい」
「聞く」
「やだ」
靴を脱ぐ。
「お腹空いた」
「もうすぐ飯だぞ」
「何?」
「ハンバーグ」
「やった!」
結愛がリビングへ走る。
――途中、足が止まった。
「……?」
純弥は、すぐには気づけなかった。
「結愛?」
返事がない。
「どうした?」
結愛が壁に手をついている。
「……ちょっと」
「ん?」
「疲れた」
「走って帰ってきた?」
「ううん」
「体育?」
「今日はそんなに」
純弥が近づく。
「顔赤いぞ」
額に手を当てる。
「……ちょっと熱いな」
「そう?」
「風邪か?」
「分かんない」
結愛は笑った。
「寝たら治るよ」
「油断すると悪化するんだよ」
「お父さん過保護」
「親だからな」
「最近特に」
「うるさい」
「ふふ」
結愛がソファへ座る。
純弥は水を持ってくる。
「飲め」
「ありがと」
「飯、少し遅らせるか?」
「食べる」
「本当に?」
「ハンバーグだもん」
「そこ?」
「大事」
結愛が笑った。
いつもの結愛だった。
ただ。
少しだけ顔色が悪かった。
「……」
純弥は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
でも。
川に落ちた件もあった。
学校も再開した。
生活も変わった。
疲れているだけ。
そう思った。
――そう思ってしまった。
「明日になってもしんどいなら病院行くぞ」
「えぇ~過保護……」
その日は。
まだ、それだけだった――
【第十二話へ続く】




