【第十話】俺の息子
〈現世・別所家本邸〉
誰も、何も言わなかった。
時計の針が動く音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……何を言っている」
最初に声を発したのは慈臣だった。
「そのままです」
純弥は淡々と答える。
「璃玖と俺に、血の繋がりはありません」
愛璃が俯く。
「馬鹿馬鹿しい」
慧司が吐き捨てた。
「そんな戯言を――」
「八百板先生」
純弥が弁護士の八百板を見る。
「親子鑑定って、証拠になります?」
八百板の目が僅かに動いた。
「状況によります」
「ただ」
「鑑定の方法と資料が適切であれば」
「事実関係を確認する上では、極めて有力です」
「そうですか」
純弥は鞄から封筒を取り出し、テーブルへ置く。
「俺と璃玖に」
「血の繋がりがないことは、これで確認できます」
一同の視線が封筒に集まり、重たい沈黙が広がる。
八百板が慈臣を見る。
慈臣が小さく頷く。
八百板は封筒を受け取った。
中を確認する。
一枚。
二枚。
静かに読み進める。
やがて。
「この書類の内容は……」
「純弥さんがおっしゃっている内容と、一致しています」
慧司の表情が強張る。
慈臣が愛璃を見る。
「――愛璃」
「……」
「本当なのか」
愛璃は答えない。
「答えなさい」
「……はい」
小さな声だった。
「璃玖は」
「純弥との子ではありません」
慈臣が目を閉じる。
慧司が立ち上がった。
「相手は誰だ!」
「……」
「誰なんだ!」
「……」
「答えろ!」
「――座りなさい、慧司」
慈臣の一言に慧司が止まる。
「だが――」
「座れ」
「その話は、後でする」
「……」
慧司は再び座った。
慈臣が純弥を見る。
「いつから知っていたんだ」
「愛璃の妊娠がわかったときからです」
「……では」
慈臣の声が低くなる。
「――八年間」
「この事実を知りながら、璃玖を自分の息子として育てていたのか」
「そうです」
「なぜだ」
「……」
純弥は少し考えた。
「璃玖には関係ないからですよ」
「……」
「誰が父親だろうと」
「璃玖は何もしてない」
「俺を父親だと思って」
「父さんって呼んで」
「八年間、俺の息子として生きてきた」
「だったら」
純弥は慈臣を見る。
「俺が璃玖を捨てる理由にはならないでしょう」
愛璃の唇が震えた。
「純弥……」
「勘違いするなよ」
愛璃を見る。
「お前を許したわけじゃない」
「……」
「一回も」
「でも璃玖は別だ」
「それだけだ」
八百板が静かに口を開く。
「純弥さん」
「はい」
「この事実を、璃玖さん本人は?」
「知りません」
「外部には?」
「話してません」
「今後は?」
純弥は一度、慈臣と慧司を見る。
「それは」
「――皆さん次第ですね」
慧司が睨む。
「脅すのか」
「感情ではなく理性で話しているだけです」
純弥は封筒を指差した。
「脅すつもりなら、とっくにコピーをばらまいてますよ」
「俺が欲しいのは」
指を一つ立てる。
「結愛の養子縁組を白紙にすること」
そのまま二本目も立てる。
「俺と愛璃の離婚」
続けて三本目。
「結愛の親権は俺に譲ってもらう」
そして、四本目を立てる。
「今後」
純弥の声が少しだけ低くなる。
「結愛の進学も」
「仕事も」
「結婚も」
「別所家の都合で決めない」
「それだけです」
「……ただし」
「これは、結愛と璃玖それぞれの意思を尊重するものとしてください」
「……璃玖の意思もか?」
慈臣が尋ねた。
「お前は結愛と違って、璃玖の親権を求めないのか」
「求めません」
「血が繋がっていないからか」
「違うって言ってるでしょう」
純弥の声に、初めて明確な苛立ちが混じった。
「璃玖だって俺の息子ですよ」
「……」
「子供たちの人生を、今日ここで勝手に決めるつもりはない」
「璃玖が大きくなって」
「俺のところに来たいって言うなら」
「いつでも来ればいい」
「でも」
愛璃を見る。
「今はお前といた方がいい」
「……」
「俺が結愛も璃玖も連れていったら」
「お前、何もなくなるだろ」
愛璃の瞳から初めて涙が落ち、純弥は見ないふりをした。
慧司が舌打ちする。
「随分、勝手な条件だな」
「そうですか?」
「ああ」
「なら」
純弥は立ち上がろうとする。
「帰ります」
「待て」
慧司が言う。
「お前は、自分の立場が分かっているのか?」
「何の?」
「ホテルだ」
純弥の動きが止まる。
「別所グランドホテルのスーシェフ」
「その地位も」
「別所家との関係があってこそだ」
「……」
「この家と縁を切ると言うなら」
慧司は冷たく言った。
「スーシェフから外れてもらう」
「衛守の料亭との取引も見直す」
愛璃が慧司を見る。
「兄さん!」
「当然だろう」
純弥は少しだけ黙っていた。
料理。
物心がつく前からずっと続けてきた。
実家の料亭で。
外の店で。
ホテルで。
スーシェフ。
ようやく辿り着いた場所。
それでも。
「分かりました」
慧司が眉を寄せる。
「……何?」
「辞めます」
「お前」
「料理人はいいのか?」
「実家はいいのか?」
純弥が笑う。
「別所じゃなくてもできますから」
「……」
「仕事と娘を天秤にかけろって言われて」
「仕事を選ぶ父親になった覚えはないです」
「それに」
「うちの実家をしばらく使っていませんよね」
「うちの兄が」
「店をミシュランに載るまで育てたのも知ってましたか?」
「衛守を舐めないでもらいたい」
慈臣が何も言わず、純弥を見ていた。
慧司は鼻で笑った。
「ならすぐに出ていくといい」
「後任なら心配する必要はない」
「そうですか」
「久世を戻す」
純弥の表情が止まる。
愛璃も同時に固まった。
「……誰を?」
純弥が聞き返す。
慧司が答える。
「久世雅利だ」
「……」
「今は、本人の希望を汲んで外で修業中だが」
「前オーナーシェフの三男だ」
「腕もある」
「元々こちらへ戻す話も――」
「――慧司」
慈臣が慧司を制して、純弥と愛璃を見つめる。
「……なるほどな」
「相手は久世の三男か」
慈臣の言葉に愛璃の顔が青ざめていく。
純弥が額を押さえる。
「なんだ」
慧司だけが取り残されていた。
「雅利に何か問題でもあるのか?」
「……」
純弥は愛璃を見る。
「愛璃」
「……」
愛璃の唇が震える。
「……やめて」
純弥は慧司を見る。
「……なんだ?」
純弥は小さく息を吐いた。
「まだわかりませんか?」
「何をだ」
「さっき」
慈臣を見る。
「璃玖の父親は誰だって聞きましたよね」
「……」
「久世雅利です」
沈黙。
慧司の目が見開かれる。
「……何?」
「俺の後輩だった」
純弥の声は驚くほど静かだった。
「久世雅利が、璃玖の実の父親です」
「そんな――」
「本人とも確認してます」
「八年前」
「俺と璃玖だけじゃなく、雅利と璃玖も鑑定した」
「雅利と璃玖の親子関係は確認されています」
「鑑定結果は金庫に保管していますので」
「後ほど八百板先生に送りましょう」
愛璃が目を閉じる。
八百板がゆっくりと眼鏡を外した。
「……なるほど」
「八百板先生?」
「いえ」
再び眼鏡をかける。
「事情が想像していた以上に複雑だったもので」
「……笑い事じゃないぞ」
「笑っていません、慧司さん」
「……」
「むしろ」
八百板は純弥を見る。
「衛守さんが八年間、この事実を外部に出さなかったことの方が」
「私には驚きです」
「璃玖に関係ないですから」
「それだけですか?」
「……」
純弥は答えなかった。
八百板も追及しなかった。
慈臣が長く息を吐いた。
「……分かった」
慧司が振り返る。
「お父さん」
「結愛の養子縁組は白紙にする」
「しかし――」
「白紙だ」
慈臣の声。
それだけで慧司は黙る。
「離婚については」
慈臣が八百板を見る。
「本人たちの意思を確認し、必要な手続きを進めろ」
「承知しました」
「結愛は」
慈臣が純弥を見る。
「お主と暮らせ」
「……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない」
慈臣の視線が鋭くなる。
「ただし」
「璃玖の件は、この部屋から外には出すな」
純弥が答える。
「最初からそのつもりです」
「久世にも?」
「本人は知ってます」
「そうだったな」
慈臣は目を閉じる。
「優秀なスーシェフを失うのは大きな損失だな」
「私は、お主のスペシャリテが好きだったのだ」
「口の堅い男も好きだったのだがな」
姿勢を正し、頭を下げる純弥。
「ありがとうございます」
「――お世話になりました」
純弥を見つめた後、愛璃を睨む慈臣。
「……愛璃」
「はい」
「このあと残りなさい」
「……はい」
純弥は立ち上がった。
「じゃあ、俺はこれで」
「純弥」
愛璃が呼び止める。
「なに?」
「……」
何かを言おうとして。
愛璃は何も言えなかった。
純弥は待たなかった。
「またな」
部屋を出る。
廊下。
玄関。
そして――外へ。
大きく息を吸う。
「……終わった」
仕事。
結婚。
別所家。
一気に、いろんなものを失った。
でも。
不思議と、後悔はなかった。
ポケットからスマホを出す。
画面には笑っている結愛。
「さて」
純弥も、小さく笑った。
「帰るか」
帰る場所ならちゃんと残っている。
娘のところへ――
【第十一話へ続く】




