二十六 束の間の日々
僕らの出した結論を、当然美鈴の母親はすんなり受け入れるはずもなかった。
自分の娘が死に向かって一直線に落ちて行こうという時に、何もせずにいられる親などいない。ましてや、彼女は看護婦なのだ。僅かでも希望の光が見えるなら、その道を選ぼうとするのは彼女にとっては当然のことだろう。
午後の穏やかな日差しが差し込む病室の中で、美鈴と僕、美鈴の母親と珠万緒さんが無言で佇んでいた。美鈴の母親はベッド脇の椅子に座って、ハンカチで目元を押さえながら声を殺して泣いている。その背中を珠万緒さんがそっと摩っていた。
その姿に、胸が痛まないではなかった。しかし、病気と闘っている本人が拒否しているものを、親とはいえ他人が無理強いできるはずもない。
自分らしく生きて
自分らしく死にたい
それは「尊厳」という、全ての人に与えられた、侵害してはならない権利だ。自分の生き方を自分で決め、人として尊重される。どんな状態になろうとも、守られるべき理念である。
未成年といっても小さな子供ではない。本人の意思が明確である以上、病院側も新しい治療を強行することなどできないはずだ。しかし、親の同意はどうあっても必要になる。
「お母さん、ごめんなさい」
美鈴は横たわりながら、肩を震わせる母親を見つめていた。
「でも私、これ以上辛い思いをするのは嫌なの。たとえ長く生きられなくても、最期まで笑顔でいたい。みんなにも、苦しんでいる姿を見せたくないのよ」
ハンカチから顔を上げ、母親は腫れ上がった目で娘を見返し悲痛な声で訴えた。
「だからって……黙って見ていられるはずないでしょう! 自分の娘が日に日に弱っていく姿を。どうにかして助けたいのよ。あなたの病気が少しでも良くなる可能性があるなら、どんな方法でも縋るしかないの!」
その叫びを受け止めるように、美鈴は母親の顔を見据えて唇を噛んだ。
「お母さん。前に、私には幸せになってほしいって、言ってたよね。私は、残りの時間を幸せに過ごすためにこの決断をしたの。大切な人と、毎日笑って過ごしたい。苦しみながら生き存えるより、穏やかに最期を迎えたい。それが私の望む幸せなのよ」
それに、と一度言葉を切って息を整える。
「お母さんとも、もっとたくさんおしゃべりしたいわ。今まで忙しくて、あまり家にいてくれなかったから。今は一緒にいられて、とても嬉しいの。だから、泣かないで」
そう言って笑顔を浮かべる美鈴の傍で、彼女の母親は布団の上に突っ伏して泣いた。声をあげ、娘の名前を呼びながら、身体中のあらゆる感情を絞り出すように嗚咽した。
誰も声をかけることすらできなかった。母親として、子供が先立つことを受け入れなければならない辛さを、想像を絶するその痛みを、慰める方法などこの世には存在しないだろう。僕らはただ黙って、その痛ましい背中を見守るしかなかった。激情の波が少しでも凪ぐように、悲しみのエネルギーが声になって消え去っていくように、祈りながら──
そうして全てを出し切った後、美鈴の母親は顔を上げ、掠れた声で言った。
「わかったわ、美鈴。あなたの意思を尊重する。そのかわり、毎日を悔いのないように生きなさい。あなたも、私たちも、この選択が間違ってなかったと言えるように」
美鈴の細い指が、母親の手を強く握る。それを包み込んだ母のもう一方の手は、優しく慈しむように我が子の手を撫でていた。
「ありがとう、お母さん」
美鈴の濡れた頬を、傾き始めた柔らかい日差しが照らす。金色の光を纏ったその顔には、その瞬間、確かに幸せが満ちていた。
「わがままな娘で、ごめんね」
数日後、美鈴は母親の働く内藤醫院へ転院した。
ここなら僕もオヤジさん達も見舞いに来やすいし、母親も働きながら娘の様子が見られる。
治療は、従来使われてきた比較的副作用の少ない薬剤による薬物療法と、レントゲン照射療法。加えて発熱や出血への対処療法のみ。それでも、以前の病院にいた時よりも美鈴の表情は見違えるほど明るくなっていった。
小さな病室の窓から見慣れた街並みを眺める彼女は、毎日嬉しそうに微笑んでいた。僕の描いた絵も壁に貼ってあり、美鈴は時折、時間を忘れたようにそれに見入っていることがあった。そんな時、僕は美鈴の隣でスケッチブックを広げ、彼女の横顔をスケッチするのだ。
「いい顔してる。そのまま動かないで」
そう言うと、照れたように頬を赤らめて僕に向かって笑う。その表情が何より愛しくて、僕にも自然と笑みが溢れた。
「私も絵が描きたい」
美鈴がそう言うので、アトリエから画材を持ってきてやった。調子の良い日にはベッドの上で少し身体を起こし、一緒に絵を描いて過ごした。
美鈴が描くのは風景画が多い。海や空、部屋に飾られた花を描くこともある。そのどれもが澄んだ美しい色合いで、彼女の感性に僕はいつも驚かされてしまうのだった。
いつしか病室の壁は、僕と美鈴の描いた絵で埋め尽くされていた。看護婦達の間で、この部屋が「美鈴ちゃんのアトリエ」と呼ばれるようになる程に。
開け放った窓から涼しく乾燥した風が吹き込んで、壁に貼られた画用紙を揺らす。浅い角度で差し込む午後の日差しが、小さな病室を温もりで満たす。その中で幸せそうに微睡む眠り姫を、僕は毎日飽きることなく眺め続けた。
いつの間にか季節は移り変わり、あれほどうるさかった蝉は姿を消した。日が暮れると鈴虫が美しい声で鳴くようになり、それを目を細めて聞いている美鈴の頬に、僕は唇を寄せてから家路へと向かうのが日課になっていた。
そんな穏やかな日々が二週間、三週間と過ぎていき、なんとなく僕は、こんな毎日がずっと続くのではないかと思い始めていた。
風の中に、ほのかに金木犀の香りが混じり始めたその日。いつものように病室を訪ねると、美鈴の顔色がなんだか少し悪いような気がした。
ベッドに横たわったまま、天井を見つめて苦しそうな呼吸を繰り返している。
「美鈴、どうした? 今日はあまり良くなさそうだね」
「蒔田さん……すごく、寒いの。お布団、掛けて」
「わかった。毛布も貰ってこようか?」
こくこくと首を動かして返事をする美鈴の肩まで布団を上げてやる。それから、僕は病室を出ようとドアノブに手を掛けた。
その刹那、美鈴が凍えるような声で僕を呼んだ。
「蒔田さん」
振り返ると、喘ぎながらも必死で笑顔を見せる彼女が僕を見つめていた。
「──ありがと」
その顔を見返して、僕も笑った。
「ああ、すぐ戻る」
それだけ言うと部屋を出た。廊下にいた看護婦に毛布を持ってきてもらうよう頼み、すぐに室内に戻ると、すでに朦朧とし始めていた彼女の手を握った。
指先が冷えて僅かに震えている。その冷たい手を摩っていると、先ほどの看護婦が毛布を持ってやってきた。
「美鈴ちゃん、毛布持ってきたから掛けるわよ。それと、お熱と血圧も測らせてね」
そう言いながら体温計を美鈴の脇に差し込み、腕に血圧計を巻き付ける。そして身体のあちこちを検めているうちに、看護婦の表情が徐々に曇り始めた。
「……先生を呼んできます」
その言葉に、僕の背筋がぞわりと粟立った。




