二十七 空へ
程なくして、先程の看護婦と院長、そして白衣に身を包んだ美鈴の母親が病室に入ってきた。
院長は美鈴の胸に聴診器を当て、腹の辺りに手を当てたり脈を診たりしてから看護婦にあれこれと指示を出している。
その様子を、壁際に立ち尽くして茫然と見ていた。診療器具の金属音、早口で交わされる会話。張り詰めた空気に圧倒される僕に、美鈴の母親が近寄ってきて小さな声で言った。
「……廊下で待っていて」
言われた通り廊下に出て、薬や器具を持って慌ただしく出入りする看護婦達を見ていた。
心臓が破れそうなくらい強く脈打ち、握りしめた掌はぐっしょりと濡れている。額にも汗が滲んで、うまく息を吸えずに浅く早い呼吸を繰り返した。
吐き気がして、壁に背中をもたれて口元を押さえた途端、胃の中から苦いものが迫り上がった。
(頼むから、誰か大丈夫だと言ってくれ──)
血の気が引くほどの緊張と不安の中、何度目かに開いた扉から美鈴の母親が出てきた。
彼女が僕に向かって無言で小さく頷く。その仕草と固い表情で、僕は悟った。
ついに「その時」が近づいている……
そのまま、美鈴は昏睡状態となった。夕方にはオヤジと珠万緒さんも病室に駆けつけ、部屋の中に置かれた簡素な折り畳みの椅子に座って、美鈴の横たわるベッドを四人で囲んだ。
医者からは今夜が峠だと言われていた。もう肝臓も脾臓も腫大し、心臓の動きも悪くなっているという。手は尽くした。それでも、彼女の身体は限界を迎えようとしていたのだ。
誰も何も言えないまま、時間だけが刻々と過ぎていく。白衣から私服に着替えた美鈴の母親は、しきりに娘の手を撫でながら、少しずつ弱くなっていくその鼓動を確かめるように時折手首に指を添えた。
ゆっくり、ゆっくり、命はその炎を小さくしていく。
そして夜半過ぎ。美鈴の呼吸回数が減り始め喘ぐような息づかいに変わった。それにいち早く気付いた母親が静かな声で、僕に院長を呼んでくるようにと言った。
僕は言われるままに部屋を出た。
薄暗い廊下の向こう、黄ばんだ蛍光灯の明かりがついた階段で、光に誘われた羽虫が一匹、上へ下へと舞っている。その姿を横目に見ながら、まるで夢の中を歩いているようなふわふわとした足取りで階段を降りた。誰もいないしんとした外来の待合室を抜け、さらに奥へと進む。
院長は、その先の診察室で待機していた。
「先生、お願いします」
自分の声も、病室へと戻る足音も、頭の中にわんわんと反響して耳鳴りがする。耳を塞ぎたくなるようなその音に気が遠くなった。
戻りたくない。目の前の現実から目を背けたい。そんな思いが錘のように足に絡みつく。
けれど僕は、見届けなくちゃいけない。
美鈴の命の炎が燃え尽きる、その時を──
震える右手を左手で押さえつけ、息を詰めて病室のドアを開けた。部屋の中では、皆が美鈴の名前を呼びながらベッドの周りを取り囲むようにして立っていた。
胸が痛くて苦しくて、ぼやけた視界に何が映っているのかもよく分からないまま、よろよろとベッドに歩み寄った。そして、穏やかに微笑むような顔で目を閉じる愛しい人の手を握ると、その上に熱い雫がぽたぽたと落ちて、重なった二人の手を濡らした。
「美鈴……」
呼びかけてももう握り返すことのないその細い指に、僕は最後の口付けを贈った。
そして夜が明け、薄い筋雲が朝焼けに染まる頃。美鈴は空に帰って行った。
二日後──
ようやく描き上げた肖像画に白い布を巻き紐で縛ると、それを両手でそっと抱え上げ家を出た。
初秋の朝。柔らかな日差しの中をひんやりとした風が吹き抜けて、開襟シャツの裾を揺らす。散り落ちた金木犀が、橙色の絨毯のように道端を染めていた。
雪駄を引っ掛けた爪先に少しだけ冷たさを感じるが、それがむしろ心地よい。自分の足音しか聞こえない砂利道を、僕は足早に画材屋に向かっていた。
店に入ると、黒い服に身を包んだオヤジと珠万緒さんが、揃って僕に怪訝な顔を向けた。
「蒔田くん、まだそんな格好で……もうすぐ式が始まるっていうのに」
それに構わず、持っていた荷物を掲げて見せた。
「オヤジさん。これ、彼女のお母さんに渡して」
「何言ってんだ。あとで直接渡せばいいじゃないか。早く支度を──」
「心配しないで。僕はちゃんと、美鈴に会いに行くから」
オヤジの言葉を遮るように言って、絵を床に置いた。倒れないよう慎重に棚に立て掛けると、代わりに店の壁に掛かっていたパステル画を手にして店を出た。
向かう先は、海──
店から持ってきたのは、いつだか彼女がアトリエで描いた、朝焼けの海の絵だ。母親の誕生日に贈ると言っていたが、結局は渡せずに画材屋に隠し置いていたのを、珠万緒さんが見つけて飾ってくれたのだった。
もうすぐ彼女の身体は炎に包まれ、煙になって空に登る。この地上を離れて、彼女が行きたいと言った空の上に、父親の待つ天国に行くのだ。
だから、広い空が見える場所に行きたかった。
大きな海と、その上に広がる空と雲。
そこに行けば、彼女に会えるような気がしたから。
美鈴
君の目に、僕はどんなふうに映っていただろうか。
うだつの上がらない、無名の挿絵画家。そんな僕が、君に出会って、忘れていた大切なものを思い出すことができた。君が色を付けてくれたこの世界で、僕はまた情熱を取り戻せたんだ。
画家として、一人の人間として、君と向かい合ったあの夏の日々はもう戻らない。蝉の声も、金魚売りの掛け声も聞こえない。ジリジリと焼きつくような日差しは、暖かな陽だまりの心地よさにとって変わった。
けれど、あの日の西陽が今もこの身を焦がす。君への恋に全てを賭した日々を、決して忘れはしない。僕の中には、まだ君といた夏が燃え盛っている。
潮の香りのする風を感じて、天高く浮かぶ雲を見上げた。
「いつか空の上で、また会おう……美鈴」
──リン───
どこかで風鈴の音が鳴った気がした。




