二十五 僕らの幸せ
翌日、美鈴の母親と共に大学病院を訪ねた。何故か珠万緒さんが一緒に来たのが解せないが、そんなことはどうでもいいくらいに、僕の心は浮き立っていた。
ようやく会える──
待ち望んでいた筈なのに、病室の扉を開けるのが怖かった。衰弱した姿を、風の前で揺らめく命の火を目にするのは怖い。だけど、会いたい。
美鈴の母親に促されて、僕は震える拳で扉を軽くノックした。
「はい」
弱々しい声が聞こえて息を呑む。ドアノブをぎゅっと握り、ゆっくりと中へと押し開けた。
目の前に、明るい日差しが差し込む室内が広がった。漂う消毒液の匂いと微かなアンモニア臭。その中に、青白い顔をしてベッドに横たわる美鈴の姿があった。どくん、と一度心臓が跳ねる。
落ち窪んだ目、やつれた頬。けれど、その目が僕を捉えた瞬間、虚な瞳に強い煌めきが宿った。
「──美鈴」
「蒔田さん……!」
寝巻の袖から出た腕や手の甲には、無数の痣が浮き上がっていた。繰り返し受ける注射の跡と、病気による内出血。その痣一つ一つが、彼女の戦いの跡なのだと思うと胸が詰まった。
僕はベッドの脇までゆっくりと歩いて行った。
「遅くなって、ごめん」
そう言うと、彼女は無言で首を振る。
「いいの。絵を……描いてくれて、ありがとう」
涙を浮かべながら笑顔を見せるが、一つ言葉を発するごとに嗚咽を堪えるように息を継いだ。その傍らに腰掛け、僅かに紅の差した頬を掌でそっと包むと、いつかのように目を閉じて擦り寄ってくる。
愛しさと共に涙が溢れた。今すぐにでも抱きしめて、その唇に触れたい。誰の目も気にせず、彼女の温もりを全身で感じたい──
だが、僕の背後には彼女の母親が……そう思って後ろを振り返ると、居ると思っていた女性の姿が見えなかった。初めから僕だけを部屋に入れて扉を閉めてくれたのだろう。
部屋の中には僕と美鈴、二人きり──それに気づいた瞬間、僕は身をかがめ、美鈴の背中に手を回して痩せ細った身体を胸に引き寄せた。そっとそっと、割れ物を扱うように優しく抱き起こし、熱を持った身体を腕の中に包み込む。病人特有の甘い香りがして、胸が痛んだ。
僕に向かって伸ばされた彼女の腕は、背中へ回る前に力が尽きたのか、脇辺りのシャツをぎゅっと掴んで震えている。
それでも、しゃくりあげながら必死に縋ってくる美鈴の顔を覗き込むと、カサついた唇をそっと喰んだ。二度、三度と合わせるたびに、頬を伝ってきた二人分の涙の味が口の中に広がっていく。
(このまま、連れ去ってしまいたい──)
しかし、腕の力を少し緩めただけで、美鈴の身体は座っていることすら出来ずにベッドへ沈んでいった。此処にいなければ、彼女はきっと生きられない……
力無く横たわった身体に布団をかけてやると、苦しそうに早い呼吸を繰り返す。その間もずっと僕の手を握ったまま離そうとしなかった。
ようやく落ち着いたところで、美鈴が僕を見上げながら言った。
「蒔田さん、ずいぶん痩せたみたい。ちゃんとご飯食べてる?」
自分のほうが具合が悪いのに、人の心配をするなんて……
「僕は大丈夫。それより美鈴のほうが心配だよ。すごく苦しそうだ」
「貧血が酷くて、少し動いただけで目が回ったり息切れがするの。こんなだらしない格好でごめんなさい」
「何言ってるんだ。今はそんなこと気にしなくていい」
頭を撫でてやると目を細めて頷く。血の気のない青い顔、霜の降りた花弁のような唇が、病状の芳しくないことを物語っているようだった。
(こんな状態の彼女に、辛い副作用の出る治療に耐えろと言うのか)
説得しに来た筈なのに、僕の心のほうが先に折れそうになっていた。
これ以上の苦痛は与えたくない。けれど、やらなければあっという間に命の火は燃え尽きてしまうだろう。
僕は、どうすればいい──
黙りこくった僕を見て、美鈴が何かを感じ取ったような表情を浮かべた。
「蒔田さん……お母さんに、何か言われた?」
「え?」
見透かしたような視線に射抜かれ、一瞬言葉に詰まる。
「何かって?」
美鈴は窓の方に顔を向け、淡々と言った。
「新しい薬を使った治療、私が嫌がっているのを聞いたんでしょう? それで、説得してくれって言われたんじゃない?」
何と答えるべきか迷って、美鈴の顔を見返す。その顔にだんだんと悲しみが滲み出てきて、繋いでいた手がすっと離れて行った。
「美鈴、何故その治療を嫌がっているのか、聞かせてくれる?」
ぷいと横を向いて固く口を閉ざす彼女の手を、僕はもう一度繋ぎなおして言葉を続けた。
「確かに、僕はお母さんから君を説得するよう頼まれた。だけど、まずは君が嫌がっている理由を聞いてからにしたいと言ったんだ。だからちゃんと話してほしい。君が納得しないまま、無理強いはしたくない」
そっぽを向いたままの美鈴の目にみるみる涙が溜まって、瞬きと同時に頬を流れ落ちた。震える唇が、ゆっくりと開く。
「とても辛い副作用が出るって、聞いたの。髪も眉も、無くなってしまうかもしれないんですって。それに、酷い吐き気で、起き上がることすら出来なくなるって」
「──ああ、それは僕も聞いた」
「だけど……どんなに辛い治療に耐えても、治る見込みはないんでしょう?」
美鈴が僕を見据えて唇を噛む。その視線が突き刺さるようで、息が詰まった。
「そんなこと……」
「私、わかってるの。もうこの病院から出られないまま、死んじゃうんだって。だったら、もう苦しいのは嫌。今だって辛いのに、これ以上苦しい思いをするなんて、耐えられないわ」
「でも……治療が上手くいけば、またアトリエにも画材屋にも戻れるかもしれないじゃないか」
「蒔田さんまで、そんな嘘言わないで!」
鋭い語気に、僕は完全に言葉を失った。
確かに、彼女の言う通り、この病を克服することは不可能に近い。誰も何も言わなくても、この聡い娘はそれを肌で感じ取っている。わかっているからこそ、新しい治療を拒否しているのだ。
だけど……
「僕は……君を、失いたくない」
僕の目からも、涙が溢れる。
「──私だって、あなたとずっと一緒にいたい。病気になってから、あなたに会えないことが一番辛かったわ」
僕の手に、美鈴の指が強く食い込んだ。
「だけど、どんなに苦しみに耐えても報われない。あなたと生きる未来なんて、私には訪れない。治療したって、ただ死ぬのを先延ばしにするだけじゃない!」
美鈴の心の底からの叫びが、まるで電気が流れるように僕の身体を貫いていく。その痛みに、僕は声も出せずにじっと彼女を見つめた。
「治療しなければ、君は……すぐに死んでしまうかもしれない」
声が震えて、全身がその恐怖にすくみ上がった。
「わかってるわ。だからせめて、命が尽きるまでは、穏やかに過ごしたい。たとえ短い時間でも、私はあなたの隣で笑っていたい。苦しんでいる姿より、幸せな私を、あなたにずっと覚えていてほしいの。お願いよ。蒔田さん……私を、最期まで笑顔でいさせて」
繋いだ手に籠る力も、喘ぐように吐き出される息も、彼女の確固たる意思と強い覚悟が宿っている。
『きっと良くなるから頑張ろう、諦めるな』
そんな綺麗事で説得しても、所詮そこに真実はない。あるのは、ただ周りの人間の罪悪感を覆い隠すための偽善だけだ。
そんなもの、美鈴は全て見透かしている。治療によってもたらされる苦痛に耐えることを、生きるための勇気だなどとは、彼女は決して思わない。
僕はベッドの端に座ったまま、涙を流し続ける恋人を悄然と見つめていた。
僕には説得はできない──
言葉だけ取り繕って、彼女の気持ちを蔑ろにするなんてこと、どう考えても僕には無理だ。
「美鈴……君が治療を嫌がる気持ちは、よくわかった。僕だって、美鈴と離れていたこの数日間、すごく辛かったよ。このまま会えずに君を失ってしまうんじゃないかと思ったら、胸が張り裂けそうだった。だから、今日会えてとても嬉しいんだ。だから……ねぇ、泣かないで。悲しむ顔は見たくない」
そう言うと、美鈴が痣だらけの手で涙を拭う。
「出来ることなら、身体も心も楽にしてあげたい。代わってやれるなら、苦しみを全部代わってやりたい。でも、それは出来ないから、せめて少しでも美鈴が笑顔になれることをしてあげたい」
繋いでいた手を一度離し、互いの指を絡め合わせて再び握り直した。僕は両の手で、美鈴の痛々しい手を包み込んだ。
「君が幸せになれないなら、無理に治療を受けろとは言わないよ。もしもそのせいで、君と一緒にいられる時間が短くなったとしても、苦しむ君を見ているよりも、最期まで笑っている美鈴を見ていたい」
「──蒔田さん」
声にならないありがとうを言う美鈴の、涙でぐしゃぐしゃになった顔を手のひらで拭って、額に口付けた。そして彼女の傍に寄り添うように身体を寄せると、濡れた頬を胸に抱き寄せた。
これが、僕らが選んだ幸せなんだ
たとえ誰にも理解されなくても
僕らはきっと、後悔しない──




