二十四 生きるための勇気
次の画材屋の定休日を、僕は朝からじりじりとしながらアトリエで過ごしていた。
オヤジと珠万緒さんは、美鈴に会えただろうか。美鈴の母親とは、どんな話をしているんだろう。そして何より、彼女の容体は……
そんなことばかり考えて挿絵の仕事もろくに手に付かず、締切が迫っているというのに一向に捗らない。
あれ以来、紗織と顔を合わせることはなかったが、出版社の仕事は続けているようだ。せめて迷惑をかけないようにしなければと、それだけを自分に言い聞かせてなんとかペンを動かした。
徐々に日暮れの時間が早くなり、夕方六時を回ると部屋の中が薄暗くなってくる。天井から下がった電灯に明かりを付けると、窓ガラスに反射した自分の姿が目に映った。
我ながら、酷い顔をしている。
最近あまり食欲が無く眠りも浅いせいで、目の下や頬が落ち込み、まるで生気が感じられない。しかも、今日は一日中家に閉じこもっていたので髭も剃っていなかった。
(こんな顔、美鈴に見せたら怖がられるだろうな……)
このところ、何に付けても美鈴を思わないことはなかった。美鈴がいれば……彼女ならどう思うだろう。そんなことばかり考えて一日が過ぎる。それが僕の日常になってきていた。
落ちていく太陽が空を赤く染め、アトリエの中に仄かな夜が染み込んでくる。今日という日が、何事もなかったかのように終わろうとしている。
僕は正直焦っていた。彼女のために、何もしてやれない自分が情けない。こんなことをしている間にも、彼女の病気が進行しているんじゃないかと思うと、居ても立ってもいられなかった。暗くなると一層その思いが強くなる。いっそ外に飛び出して、朝まで街中を歩き回っていたいくらい、僕はこの部屋で一人の夜を過ごすのが怖かった。
でも、明日は朝一番に画材屋へ行って、美鈴の様子や渡した絵の行く末を聞いてみよう。そう考えるだけで、ほんの僅かだけれど朝が来るのが待ち遠しく思えた。
翌朝、開店時間ぴったりに画材屋に着くと、オヤジと珠万緒さんの他にもう一人、女性が店内にいるのが見えた。
見覚えのある横顔……
あれは、美鈴の母親じゃないか?
店に足を踏み入れるのが躊躇われて、入り口の外で立ち止まった。鼻の頭にじわりと汗が浮かぶ。そんな僕に最初に気付いたのは珠万緒さんだった。
「マキさん! きっと来ると思ってたのよ。早く入ってらっしゃい」
そう言って手招きされるが、珠万緒さんの隣に立つ人の反応が気になって足が動かない。彼女は僕にちらりと視線を向けると、気まずそうに下を向いた。
見かねた珠万緒さんが出て来て、僕の腕を掴んで店の中に引っ張っていく。わざわざ美鈴の母親の隣に立たせ、満足そうに笑った。
横に並んだ美鈴の母親に、何も言わないのも悪い気がしてとりあえず頭を下げた。
「先日は、すみませんでした。突然見舞いになんて行って」
すると、彼女も俯いたまま頭を下げ僕に詫びた。
「いえ、こちらこそ。わざわざ来ていただいたのに、失礼なことを言ってしまって……」
この前会った時とだいぶ印象が違う。刺々しさは無く、穏やかと言うよりもむしろ憔悴しているような感じだ。
「昨日私達がお見舞いに行って、いろいろ話をしてきたわ。マキさんのことも、悪い人じゃないってちゃんと分かってもらえたから。もう大丈夫よ」
そう言う珠万緒さんが、僕を見て目を細める。
「ただでさえ娘の病気のことで気が立っていたところに、突然の話で動転してしまって。本当に申し訳ありませんでした」
美鈴の母親は背中を丸めてもう一度頭を下げた。
「いえ、構いません。お気持ちはわかります。大変な思いをされているところに、急に訪ねてしまった僕が悪いんです」
赤く腫れた目を伏せて項垂れた彼女は、左手に握ったハンカチで鼻先を軽く押さえる。
「昨日、弟夫婦と話をした後、蒔田さんからいただいた絵を病室の壁に貼ってやったんです。そうしたら、あの子……涙を流して喜んでいました。まるであなたのアトリエにいるみたいだって。具合が悪くなってから、初めて笑顔を見せてくれたんです」
彼女の頬に涙が一筋流れた。僕も込み上げるものを感じて、目頭が熱くなる。
「そうですか、喜んでくれてよかった。少しでも元気になってくれれば、描いた甲斐があります」
母親はええ、と僅かに微笑んだが、すぐにその顔に翳りが戻ってくる。
「私、看護婦だから分かってしまうんです。娘の様子を見ていて、あまり容体が良くないってこと。でも、あなたの絵を見ている時の美鈴は、本当に幸せそうな顔をしていました。その時だけは、私も病気のことを忘れてしまうくらいに」
「でも、有名な先生が診てくれているんですよね。だったら、きっと良くなるんじゃないですか」
僕は自身の期待も込めてそう言った。しかし、母親の表情は晴れるどころか一層憂いが深くなったように見えた。
「実は、主治医の先生に、最近出来た新しい薬を試してみようと言われたんです。まだ日本ではあまり実績が無い薬なんですが、効果は期待できそうだと。でも副作用がかなり強いらしくて……美鈴本人が嫌だと言っているんです」
「副作用って?」
「酷い吐き気や嘔吐、ベッドから起き上がれなくなる程の倦怠感。それに髪が全て抜け落ちるなんてことが言われています。でも、それに縋るしか今は方法が無いんです。なのに……病気を治すためだからと私や先生がどんなに説明しても、絶対にやらないの一点張りで」
きっと不安なんだろう。前例もあまり無い、辛い治療に踏み切ることが。それに、女性にとって髪が無くなるなんてことは、それこそ命にも代え難い程の苦痛なのではないだろうか。
美鈴の母親は、僕に向き直って再び頭を下げた。
「蒔田さんの言うことなら、聞いてくれるんじゃないかと思うんです。どうかお願いします。あの子を説得してくださいませんか」
「え……僕が、ですか?」
思いもよらない話に一瞬戸惑ってしまった。美鈴の命を左右する治療の方針を、僕なんかが介在して決めてしまって良いのだろうか。もしもそれで、取り返しのつかない結果になってしまったら、僕も母親も、一生後悔し続けることになるのではないか。
僕は両手を強く握りしめ、下を向いてしばらく考え込んだ。
「……その薬を使うことが、美鈴にとって最善の方法なんですね」
「はい。間違いありません」
看護婦の母親が言うのだから間違いはないだろう。僕だって、少しでも希望が持てるならその方法に賭けてみたいとは思う。
しかし、それが彼女に苦痛をもたらすものだとしたら──
そう考えると素直に首を縦に振ることが出来なかった。
「あの、まずは美鈴と話をさせてもらえませんか? なぜ嫌がっているのか、理由を知りたいんです。その上で、本人が納得して治療に臨めるようにしてあげたい」
美鈴の母親は、逡巡するように視線を落とし、それから顔を上げて僕を見据えた。
「わかりました。蒔田さんにお任せします。どうか、美鈴が生きるための勇気を持てるように、励ましてやってください」
生きるための勇気──
果たしてそれは、美鈴にとって本当に希望となり得るのだろうか。彼女の望む生き方とは、一体どんなものなのだろう……
画材屋を辞した後も、僕はその言葉の意味を、何度も何度も、繰り返し自分の中で問い続けた。




