二十三 移ろう季節
翌日、僕は画用紙と色鉛筆を画板に乗せ商店街へ向かった。
今日は雲ひとつない晴天で、日差しは強いがからりとした風がシャツの襟元を吹き抜けていく。天気が良いのにさほど暑さを感じないことがなんだか不思議で、右手で日差しを遮りながら空を見上げた。小さな羊雲が、いくつも並んで高い空に浮かんでいた。
夏が、終わっていく──
少しずつ季節が移ろっていくのを、なんだか寂しいと思った。そんなのは、生まれて初めてだ。
画材屋の前まで行くと、座面が布張りになった折り畳みの椅子を道端に据えて腰を下ろした。屋外でスケッチをする時に愛用しているこの椅子は、軽くて持ち運びに便利で重宝している。
画板の上に画用紙を広げ、画材屋の建物をじっと見てから鉛筆を走らせ始めた。すると、店の中から珠万緒さんが出てきて、珍しい物でも見るような顔で僕の手元を覗き込んだ。
「マキさん、あなたこんな所でなにを描いてるの?」
「画材屋の店構えだよ。ついでに珠万緒さんも描いてあげようか?」
もう! と言ってむくれた珠万緒さんが、僕の肩を平手で軽く引っ叩く。
「どうせ描くなら、ついでじゃなくて真面目に描いてちょうだい。それにしても、なんで店の絵なんか描いてるのよ」
僕は店と画用紙を交互に見ながら、線を引く手を止めずに答えた。
「美鈴が、この店が好きだって言ってたから。病室にいても、いつでもこの場所が見られるように、描いて渡してやりたいんだ」
それと同じ理由で、最初に描いたのがアトリエから見える景色だった。あの絵は無事に美鈴の手に渡っただろうか。
「マキさん……ありがとうね。あの子もきっと喜ぶと思うわ」
「──ああ」
でも本当は、元気になってここに戻って来て欲しい。そう思うと鼻の奥がつんと痛んだ。
「今日中に描き上げて、明日には届けるつもりだ」
「そう。よろしく頼むわね。私達も次の定休日には面会に行くわ」
そう言って珠万緒さんは店の中に戻っていった。
翌日、僕はまた電車とバスを乗り継いで、美鈴の病院を訪ねた。法師蝉の声を聞きながら入り口のガラス扉を押し開けると、広い玄関ホールはひんやりとした空気に包まれていた。
前回と同じように受付へ行き、事務員の女性に声を掛ける。
「笹原美鈴の面会に来ました」
患者さんとのご関係は? との問いに、前回同様友人と答えた。
すると、対応に立った事務員とその隣に座った別の事務員とが、顔を見合わせて気まずそうな表情を浮かべた。
「あの、その患者さんへのご面会は、できません」
「え……どういうことですか?」
予想外の返答に思わず面食らう。もしかして容体が悪いのだろうか。
「ご親族様以外の方のご面会は、お断りするようにと言われておりますので」
「いや、でも先日は通していただけたんですが」
言い終わるより早く、事務員は僕に頭を下げた。
「申し訳ありません。とにかくご親族様以外はお通しできません」
必死に頭を下げる事務員がなんだか不憫に思えて、僕は「わかりました」とだけ告げて渋々その場を後にした。
おそらく、美鈴の母親が僕を拒絶しているのだろう。
その気持ちはわからなくもない。見ず知らずの男がいきなり目の前に現れて、自分の知らないうちに娘と恋仲になっていたなどと言われたら、すんなり受け入れられるはずもないだろう。ましてや、その娘は命に関わる病に冒され臥せっているというのに。
だからと言って納得はできなかった。僕だってこのまま美鈴に会えなくなるなんて、耐えられない。
どうしたらいい──
揺れる電車の中で、掌に握った切符をぐしゃりと握りしめ頭を擡げた。考えても考えても、その問いに答えは見つからない。まるで出口のない迷路に迷い込んだ気分だった。
国鉄の駅を降りると、僕は真っ直ぐ家には帰らず画材屋に立ち寄った。
入り口を入るとすぐ、勘定場で帳面を広げていた珠万緒さんが僕に気づいて声をかけてくれた。
「マキさん。美鈴ちゃんの病院に行ってきたの?」
「ああ、行った。でも、面会させてもらえなかったよ。親族以外は通せないって」
「え?」
絶句して青ざめる彼女に、僕は持っていた紙筒を差し出した。
「これ、預けてもいいかな。オヤジさんや珠万緒さんなら、親族だから面会出来るだろ。美鈴に渡して欲しいんだ」
「それは……預かるのは構わないけど。あの病院、そんな決まりあったかしら? 前に知人の面会に行ったことがあるけど、そんなこと言われなかったわよ」
「僕も、数日前に行った時には通してくれたんだ。その時美鈴の母親に会って、黙ってモデルをやらせてたことを責められて」
あの日のことを思い出して、胸がズキンと痛む。
「多分、怒ってるんだ。だから僕を病棟に入れたくないんだよ」
「そんなこと──」
困惑した表情で、手渡された紙筒を見る珠万緒さんに、僕は頭を下げた。
「僕のせいで美鈴の母親と揉めるようなことになったら、本当に申し訳ない。でも、僕が美鈴のために出来ることは、これしかないんだ。だからお願いします。この絵を届けてください」
「やだ、マキさん。頭上げてよ。ちゃんと届けるから安心して」
そう言われて顔を上げると、珠万緒さんが悲しげに微笑んでいた。
「お義姉さん、頑固なところもあるけど悪い人じゃないのよ。私も話をしてみるから。きっとマキさんのことも、そのうち許してくれるわ」
そのうち──
そんな悠長なことを言っていられるのか?
美鈴にあとどれだけの時間が残されている?
だけど、待つしかない。許してもらえるまで、美鈴のために出来ることを続けて待つしかないんだ。挫けそうになる心を、彼女の笑顔を思い起こして奮い立たせた。
「ありがとう、珠万緒さん。実はもう一つ、頼みたいことがあるんだけど」
「なあに? 私に出来ることならなんでも言って」
「この前、別の絵を美鈴の母親に預けたんだ。本人には会わせてもらえなかったから。それがちゃんと彼女に届いているかどうか、確認してきてもらえないかな」
「わかったわ。その絵には何が描いてあるの?」
「僕のアトリエから見た景色……美鈴が好きだって言ってくれた場所で、二人で一緒に見てた景色だよ」
僕の脳裏に、夏の日差しを浴びて眩しく光る家々の屋根や、夕暮れの燃えるような赤い空がありありと甦ってくる。それを僕の隣で見つめる、美鈴の笑顔も。
「──ねえ、珠万緒さん」
言葉を続けようとして、込み上げる感情がそれを邪魔した。つかえた声が、喉の奥で嗚咽に変わる。
「美鈴、大丈夫だよな。戻って来られるよな」
僕を見上げる珠万緒さんの目も、みるみる赤くなる。
「絶対、また会えるよなぁ」
溢れ出す涙を止めることが出来ず、胸に溜め込んできた不安を吐き出すように珠万緒さんに縋りついて泣いた。
優しく背中を撫でてくれる珠万緒さんの前で子供のようにしゃくりあげる僕は、美鈴を失うかもしれないという恐怖に成す術もなく飲み込まれていた。
移ろう季節が、過ぎていく夏が
全てを奪っていく
そんな気がして、僕は怖くて堪らなかった




