二十二 母親
翌日、描き上げた絵を紙筒に入れ、僕は昼過ぎに自宅を出た。
薄い雲が広がる空に、ところどころ青空が見えている。雨は降らなそうだが日差しが弱い。真夏のかんかん照りに比べてだいぶ過ごしやすくなったと、ほっと息をついた。
電車とバスを乗り継ぎ、美鈴が入院している中里大学病院を目指す。すんなり行けば片道一時間ほどだが、都心に出るより交通の便が悪く、乗り継ぎが上手くいかないと余計な時間を喰ってしまう。それが一番心配だったのだが──
案の定、電車の到着が遅れた上にバスの本数もあまり多くない時間帯に当たってしまった。
なかなか来ないバスを待ち、ようやく乗ったと思ったら大荷物を抱えた行商の婆さん達に囲まれて、揺れるたびに押しつぶされそうになる。陽気は涼しくなってきたとはいえ、混雑したバスの中は人いきれでうんざりするような暑さだ。
そんな苦行のような時間を耐え、自宅から二時間近くかかってやっと辿り着いたバス停を降りると、そこは田圃と畑に囲まれた、とんでもない片田舎だった。
そして、蜻蛉が飛び交う田圃の真ん中に突如現れた要塞のような大きな病院が、威圧するように聳え立っている。
「まるで世間から隔離されているみたいだな……」
すでに疲れ切っていた僕は、その異様な存在感のある巨塔を見上げてため息をついた。
平日の午後。外来の受付が終わり閑散とした病院の受付で、面会に来たと告げた。すると、対応してくれた事務員に「患者さんのお名前は?」と聞かれた。
僕は差し出された受付簿に手早く自分の名前を書きながら「患者の名前は笹原美鈴」と答える。それを聞いて受付簿を覗いた事務員が、僕をじろりと見上げた。
「どういうご関係ですか?」
「あの……友人、です」
そう答える僕の手は、無意識のうちに震えていた。何故か咎められているような気がして、額に汗が滲む。やはり画材屋のオヤジに付いて来てもらうべきだったかもしれない。親族以外には面会を許可しない病院もあるらしいというのを、今更思い出して後悔した。
「では、こちらの面会バッヂを胸に付けてください。病室は三階の三〇五号室です」
意外にもすんなりと受付を通過し、僕はほっと胸を撫で下ろして階段へと向かった。
薄暗い階段を登る間、僕は美鈴の母親に何と言って挨拶をすればいいかという事ばかり考えていた。初対面でいきなり恋人などと言い出したら、その場で追い返されてしまうに違いない。
吹き抜けに反響する足音が、いやでも緊張感を高めていく。
三階に着くと、すぐ目の前に病棟の受付があって、その奥で数人の看護婦と事務員が話をしているのが見えた。そこにも面会の旨を告げ、三〇五号室の前まで行って立ち止まる。
しばらくの間ノックをすることもできず、僕は動悸を感じて立ち竦んでいた。ドアを開けたら、美鈴の母親がいるかもしれない。それよりも、美鈴の痛々しい姿を目にすることになるかもしれない。そのどちらも、僕の体を硬直させるのに十分だった。
「どちら様ですか?」
後ろから突然声をかけられて、僕は飛び上がって一歩後ずさった。振り返ると、花瓶に生けた花を持った中年の女性が、怪訝そうな顔をして僕を見ている。
何となく、この人が美鈴の母親なのだろうと確信した。
「あの……僕は、蒔田俊幸といいます。画材屋で美鈴さんと知り合った画家です」
その女性は、僕を上から下まで値踏みするように一瞥してから言った。
「あなたが……」
あなたが、とは一体どういうことだろう。
すると、女性は「ちょっとお待ちください」と言って部屋のドアを開け、中に花瓶を置いて再び外へ出てきた。
「こちらへ」
促されて、僕は病棟の入り口のすぐ隣にある待合室のようなところへ連れてこられた。テーブルを挟んで向かい合って座ると、彼女は自分が美鈴の母であると言って頭を下げた。
「美鈴が、熱を出してからずっと、うわごとのようにあなたの名前を呼んでいたんです。でも聞き覚えのない名前だったので、弟に尋ねてみたら、画材屋によく来る画家の方だと教えられて」
そこまで言って、一度言葉を途切れさせた。言いにくそうに僅かに間が開く。
「あなたが、娘をモデルに絵を描いている、というのは本当ですか?」
僕はごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。
「はい。その通りです」
美鈴の母親は、僅かに目を見開いて、それから大きく一つため息をついた。机に肘をつき、指先で眉間を押さえる。
「あなたとうちの娘は、どういう関係なのでしょうか」
狼狽とも、苛立ちともつかないようなものを含んだ声で僕に問いかける。今、この機を逃してはならない。僕は意を決して、真っ直ぐに彼女を見て答えた。
「僕たちは……互いに好意を持ち、大切に想い合う関係でした。だけど、決して親御さんを裏切るようなことはしていません。近いうちに、きちんと事情を説明したいとも思っていました。でも、その前にこんなことになってしまって……」
僕の言葉を聞いた彼女の目に、怒りの色が滲んだ。
「親に黙ってモデルなんてやらせておいて、裏切ってないなんてよく言えますね? やましい気持ちがあったから黙ってたんじゃないの? いつから始まったのか知らないけど、まだ何も知らない娘をいいように丸め込んで、弄んでたんじゃないんですか?」
声を荒げる彼女に向かって、受付にいた職員たちの視線が集まる。それを感じたのか、美鈴の母親は咳払いを一つして、それきり黙ってしまった。
そう思われても仕方ない。それは分かっている。けれど、どうしても湧き上がってくる憤りを、拳を握りしめて必死に飲み下した。
「そんなことはありません。始めは、純粋にデッサンのモデルが必要でお願いしました。もちろん謝礼もお渡しして、仕事として依頼したんです。でも、二人で同じ時間を過ごすうちに、いつの間にか惹かれあっていました。僕は、美鈴を心から大事に思っています。これから先も、ずっと、一緒にいたいと──」
知らず知らずのうちに溢れてきた涙が、頬を伝って膝の上に落ちた。
悔しい──
思わず奥歯を食いしばった。僕の話を信じてもらえないことじゃない。大事な人とずっと一緒にいたいという未来が、風前の灯のように今にも消えてしまいそうなことが、悔しくて仕方なかった。
「お母さんに黙っていたのは、美鈴が心配をかけたくないからと……女手一つで懸命に生活を支えているあなたに、これ以上の負担をかけたくないと言ったからです。それに、モデルをしてもらっている間は、彼女に指一本触れませんでした。そう美鈴と約束したから」
僕を睨め付けていた母親の目にも、涙が滲んだ。その涙の理由は僕にはわからない。けれど、先程まで激っていた怒りとは違う、何か別の感情が彼女の瞳に宿った気がした。それは何時だかオヤジが言っていた、娘に対する自責の念なのかもしれない。しかしそれも束の間、僕に向けられた視線に力が戻ってくる。
「たとえそれが真実でも、今あなたをあの子に会わせるわけにはいきません。熱も高いし、体調が良くないんです。今日はどうぞお引き取りください」
そうきっぱりと言い切られてしまい、僕は返す言葉もなく項垂れて席を立った。
「わかりました。ではせめて、これを美鈴に渡していただけないでしょうか」
持って来た紙筒を手渡すと、彼女は怪訝な顔をして受け取った。
「ただの風景画です。渡す前に中を確認していただいても構いません。少しでも、彼女の心が穏やかになってくれればと思って描きました」
「そう……一応、お預かりしておきます」
そう言って美鈴の母親も席を立つ。その姿に一礼して背を向けると、僕は病棟を後にした。
病院の玄関を出たところで、美鈴の部屋があると思われる辺りの窓を見上げて唇を噛んだ。青臭い田圃の匂いが、惨めな気分を助長する。
だけど、このまま引き下がるつもりはなかった。
(会えるまで、何度だって来るから。待ってて)
そう心の中で呟くと、バス停へと向かって歩き出した。




