二十一 奮起
アトリエの窓から朝日が差し込み、僕は仰向けになって、焦点の合わない視線で天井を見上げた。雨音は聞こえない。昨日の雨は止んだのだろうか。
ふと気付くと、うっすらと明るんだ部屋の中に、水面に浮かぶ海月のような光の輪がいくつも漂っているのが見えた。ゆらゆらと揺れるその輪が、大きくなったり小さくなったりしながら、天井の竿縁にぶつかって弾けて消える。
(あれは、何だ?)
不思議な光景に目を奪われ、僕はしばらくじっと見惚れていた。背中に感じる畳の感触も、真綿みたいにふわふわとしている。目を開けたまま夢でも見ているのかと思うほど、僕は心地よい浮遊感に包まれていた。
昨日、画材屋で美鈴の病名を聞いてからずっと、現実味のない時間が音もなく過ぎていた。
耳からは何も聞こえない。ただ、彼女と二人この部屋で聞いた夏の音が、幻聴のように頭の中に響いてくるだけだった。
風鈴の音、蝉時雨、美鈴が僕を呼ぶ声……まるで鈴を転がすような愛らしい声が、記憶の中で小さくこだまする。
(もっと、もっと近くで──)
その声に縋るように、目を閉じて手を伸ばした。空を切る指先に触れる風は、晩夏の温度を宿しながらもすでに次の季節を思わせるほどに乾いている。瞼の裏に浮かぶ美鈴を夢中で抱き寄せようとして、何もない空間を握り込んだ拳を胸に抱いた。
目尻から熱い雫が溢れた。
そのまま微睡の中に落ちていき、再び目を覚ますと午後の傾いた日差しが部屋に影を落とし始めていた。
思考は停止したまま、影の角度をゆっくりと変えていく部屋を無感情に眺め続けた。徐々に部屋の中に薄闇が降り、ややあって赤々とした夕暮れが訪れた。それからまた、夜がやってきた。
真っ暗な天井を薄く開いた瞳に映し、身動きもせず、深い海の底にでも沈んでいるかのようにただ時間の流れに身を任せる。自分が海月にでもなったような気分だ。
浅い眠りが訪れても夢は見ない。ただ暗闇が僕を取り囲んで、時折ぽっかりと覚醒しては浮島のような現実を渡り歩くだけだった。
それを幾度か繰り返して、僕は二回目の朝を迎えた。
不思議な光の輪は昨日よりも数を増やし、動きは緩慢になって目の前の天井を埋め尽くしている。白い縁と縁がぶつかり合うと、弾けて数が増える。それが目障りで、僕は目を瞑った。
こんなものが見えるなんて、僕はどうかしてしまったのだろうか……
もしも何かの病気なんだとしたら、僕の命と引き換えに美鈴を助けてくれたらいいのに。
そんなふうに、誰にともなく祈る気持ちで深い息を一つ吐いた。
ふと、遠くに僕を呼ぶ誰かの声が聞こえた。けれども、返事をするのも億劫で黙っていると、それが徐々に近づいてくる。玄関をくぐり階段を上がってくるようだ。軽い足音がして、襖が開く音がした。
「蒔田さん! あんた、大丈夫かい?」
アトリエの入り口で誰かが叫んだ。聞き覚えのある声に顔を向けると、ぼんやりとした視界に小柄な老女が一人映った。
──大家の婆さんだ
「昨日から何度か訪ねてるのに、返事もないし明かりもつかないし。居ないのかと思ったら、鍵が開いてるからおかしいと思ったんだよ。具合が悪いのかい?」
起きあがろうとしても、身体に力が入らない。のろのろと寝返りを打つので精一杯だった。声を出そうにも、嗄れてまともに喋れない。
ぱくぱくと口だけ動かす僕を苦しんでいると思った婆さんが、慌てて医者を呼びに飛び出して行く。それを止めることも出来ない僕は、なす術もなくその場に転がったまま、じっとしている他なかった。
しばらくして、婆さんに伴われて年老いた医者が一人やってきた。
診断は、脱水と栄養失調……言われてみれば、最近ろくなものを食べていなかった。さらに一昨日から水すら口にしていなかったせいで、体力が底をついていたのだ。あの変な光の輪も、脱水による幻覚だったらしい。
(命の取引は成立しなかった訳か……)
僕は、さっさと道具を片付ける医者の背中を恨めしげに一瞥した。
医者が帰った後、大家の婆さんは自分の家からありったけの食べ物を持ってきて、僕の前に並べてくれた。
「ここで死なれたら迷惑もいいところだ」
そう言いながらも、僕のことを戦争で亡くなった息子の代わりに可愛がってくれているこの人は、心底僕の身体を心配してくれているらしかった。
「何かあったらいつでも頼ってきなって、いつも言ってるだろうに」
麦茶をがぶ飲みしながら握り飯にかぶりつく。強めに振られた握り飯の塩が、身体中に染み渡っていくみたいで思わず喉が鳴った。
そんな僕を見て、どこかほっとしたように婆さんがため息をつく。
「本当に申し訳ない……おかげで助かりました。ありがとうございます」
アトリエの畳の上で握り飯片手に頭を下げる僕に、やれやれという表情で麦茶を注ぎ足してくれた。
「こないだ、本屋であんたの絵を見たよ。あんた、見かけによらず優しくて綺麗な絵を描くね」
褒められているのか貶されているのかわからないが、とりあえず礼を言っておいた。
「あたしには孫もいないし、少女雑誌なんて買うことはないけど、毎月楽しみにしている女の子らがいるんだろ? あんたの絵だって、待ってる人がいるんじゃないのかい?」
僕の絵を、待ってる……
「だったら、こんなことで寝込んでる場合じゃないだろうに」
婆さんの言葉が、僕の中の何かに触れた気がした。
「そうか……そうだな」
何も出来ないと思っていた。
もう二度と会えずに、このまま黙って彼女の前から姿を消すしかないのかもしれないと。でも──
もしかしたら、病魔と闘う美鈴の為に、僕にも出来ることがあるかもしれない。
食事を終えると改めて婆さんに礼を言った。そして、帰っていくその後ろ姿を見送ると、僕はふらつく足取りで、日盛りの道を画材屋に向かって歩き始めた。
店に入るなり、棚に向かって品出しをしていたオヤジに駆け寄った。
「オヤジさん、美鈴が入院してる病院って何処?」
驚いたように僕を見上げたオヤジは、一瞬言葉を失ったようにポカンと口を開けたが、すぐに我に返って入院先を教えてくれた。
「ああ……中里大学病院だ。内藤醫院の院長の計らいで、特別に受け入れてもらったらしい。普通じゃそう簡単に掛かれない、白血病の権威が診てくれてる」
「わかった。ありがとう」
それだけ言って、僕は画材屋を後にした。
背後でオヤジが何か言っていた気がしたが、僕は脇目もふらず足早に家に向かって歩き続けた。そしてアトリエに戻ると、文机の上に画用紙を広げ色鉛筆を手に取った。
窓の外には、少しずつ傾く日差しを受けて輝く街路樹の緑と、通りの向かいに並んだ家々の瓦屋根が見える。
それをしばらく眺めた後、僕は画用紙に齧り付くようにして、目の前に広がる景色を描き始めた。




