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二十 病魔

 美鈴を送る道すがら、僕らは手を繋ぎ、暮れ色の空を眺めながらゆっくりと歩いた。


 西の空はまだうっすらと橙を残しているが、東にはもう夜が侵食し始めている。そこに登ったばかりの月が白く淡い光を放っていた。


 地面に薄い影を落としながら歩く僕らの上に、一番星が明るく瞬いている。それを見上げた瞬間、僕の左手を握る美鈴の右手にきゅっと力がこもった。思わず彼女を振り返ると、空に掛かる月のように白い美鈴の顔が、夜道に立ち止まってこちらを見上げていた。


「蒔田さん」

「ん?」

「……ありがとうございます。私を、見つけてくれて」

「どうしたの、急に」

「いえ、なんとなく。言っておかなきゃいけない気がして」

 照れたように微笑む美鈴に、僕は笑ってその手を強く握り返した。


「そんなこと、今じゃなくてもいくらでも時間はあるじゃないか。だったら僕だって、君に礼を言わなくちゃいけない。モデルを引き受けてくれて、ありがとう」

 あの日、美鈴が勇気を出してくれたおかげで、今この時がある。彼女には感謝してもしきれないくらいだ。


 向かい合った二人に、時間と共に輝きを増した月の光が降り注ぐ。砂利道に落ちた影が濃くなって、繋いだ手のシルエットがくっきりと見て取れた。


 (ずっと、このまま──)


 この手が解けなければいい。そう願う心の片隅に、さっき目にした美鈴の痣がちらついて、僕はなんだか息苦しくなった。何か、良くないことが起きている気がする。


 昔、同じように、ぶつけた覚えのない痣がいくつも出来ていると言った矢先に体調を崩し、あっという間に他界した友人がいた。そのことが思い出されて、頭の中に黒い雲がかかったような気分だった。


 大丈夫だ、ただの痣じゃないか

 あの時と同じとは限らない


 そう自分に言い聞かせても、拭い去ることのできない澱のような不安が沸き起こり、僕はそれきり何も言えなくなってしまった。


   ◇


 数日後、まだ汗の滲むような日差しが降り注ぐ午後一時。絵の具を買い足しに画材屋を訪ねると、珍しくオヤジと珠万緒さんが揃って勘定場に立っていた。


「何かあったの?」

 声を掛けると、二人して僕を振り返り顔を曇らせた。

「蒔田くん……実は」

 言いにくそうに口を開いたオヤジは、困惑気味に眉尻を下げた。

「美鈴が熱を出して、寝込んでるんだ」

「え? 風邪でもひいたの?」


 この夏は、珠万緒さんといい紗織といい、夏風邪が流行っているようだった。季節外れと言えなくもないが、暑さが祟って体調を崩したのかもしれない。


「それが、熱だけじゃなくて、他にも様子がおかしいらしくて。今日は母親が働いてる病院に、検査を受けに行ってるんだよ」

 僕の背筋を冷たいものが走り、皮膚がぞわりと粟立つ。


「だって、ついこないだまで元気だったじゃないか」

「ああ。蒔田くんちに行ってた翌日に、自宅で急に気を失って倒れたらしい。その時にはただの貧血みたいだったそうなんだが、それから高熱が出て、一向に下がらないっていうんだ」


 僕の脳裏にあの痣が甦る

 思い出の中の友人の姿と重なる……


 嫌な汗が頭のてっぺんから吹き出すような気がした。

「オヤジさん。美鈴の検査結果が出たら、教えてくれる?」

「ああ、もちろんだ」


 画材屋を後にした僕は、雲を踏んでいるような現実感の無い足取りで、日差しを反射する白い砂利道を歩いていた。

 鼓動が早まって息が上がり、目に飛び込む光がくらくらするほど眩しく感じる。


 ただの風邪だ。すぐに良くなって、またアトリエに笑顔でやってくるに決まっている。そう思いたい自分と、早く何とかしなければ取り返しのつかないことになるかもしれない、と警鐘を鳴らす自分が頭の中でせめぎ合っていた。

 考えまいとしても、どうしても後者の方が大きく膨らんで、今にも病院へと走り出したい気持ちに駆られてしまう。


 (そうだ。今から行けば、まだ病院にいるかもしれない)

 踵を返そうと振り返った刹那、思わず強く握った掌に爪が食い込んだ。

「……っ」

 鈍い痛みが走ってようやく我に帰る。


 いくら気持ちが焦っても、今の僕に出来ることなど何もない。見ず知らずの男が突然押しかけたって、美鈴の母親を困惑させるか激昂させるかだけだろう。苛立ちと焦りを無理矢理飲み下し、再び歩き出した。遠くで雷鳴が轟くのが聞こえた。


 自宅に戻ったものの、落ち着くことなど到底できるはずもない。


 狭い六畳間の中を歩き回り、洗面所で頭から水を被った。それからただひたすら「大丈夫、大丈夫」と自分に向かって言い続け、何も手につかないまま暗くなっていく部屋の真ん中に座り込んでいた。


 突然、窓から強い光が射したかと思うと、大きな雷鳴が響き雨が降り出した。風に煽られ、開けっぱなしの窓から吹き込んで畳を濡らす。水を吸って変色した畳が痣のように見えて、僕は堪らずに目を背けた。



 オヤジからその報告を受けたのは、五日後のことだった。このところ、僕は毎日のように画材屋に顔を出しては美鈴の様子を尋ねていたが、この日、ようやく検査結果が出る予定だったのだ。


「大学病院に入院して、もっと詳しい検査を受けることになった」

「入院って、ただの風邪じゃないってこと? この前の検査で病名がはっきりしなかったの?」

 その問いに、オヤジは言い淀んで僕から視線を逸らした。

「──いや、血液検査の結果は出てる」


 その先をなかなか言い出さないオヤジに、僕は焦れた視線を投げる。オヤジは溜息を一つついてから、低い声で言った。

「病名は……白血病で間違いないそうだ。詳しい病状を見てから、治療方針を決めるらしい」


 重い口を開いたその顔を、僕は黙って見返した。頭の中で、全てが繋がって渦を巻いた。


 身に覚えのない痣、発熱、貧血──

 あの夜、異様に白く見えた顔も貧血のせいだったのかと思うと合点がいった。


「……なんで」

 なぜその時気付かなかったのか、自分の不甲斐無さに吐き気がした。


 いや、気付いたところで僕に一体何ができたというのか。病院を受診するのが一日二日早まっただけで、病気を回避することなど不可能だったろう。それでも、自分を呪いたい気持ちは押さえきれなかった。


 悔しさと後悔が渦を巻き、眩暈がしてその場にしゃがみ込んだ。そのまま頭を抱えて床にへたり込む。オヤジが伸ばした手も、珠万緒さんの僕を呼ぶ声もどこか他人事のように遠く感じて、暗い水の底へでも沈んでいくような感覚に耐えきれず目を閉じた。


 オヤジに担がれるようにして、やっとのことで家に帰り着いた僕は、おぼつかない足どりでよたよたと二階へ上がった。


 たった一人、アトリエの窓辺に呆けたように蹲って、遠くに聞こえる金魚売りの声を頭の中で何度も反芻した。そうでもしていないと、湧き上がる負の思考を押さえ込めなかったのだ。でも逆に、いつだか美鈴が口にした言葉が甦ってきて目の前が暗くなった。


 命は、いつか──


 かぶりを振っても髪を掻きむしっても消えないその声を、僕は自分の声で上書きするように叫んだ。畳に額をつけ拳を振り下ろしながら、腹の底から声を張り上げた。涙が落ちて染みになり、消える前に次の雫が降ってくる。それをなんの感慨もなく目に映しながら、ただ声が枯れるまでひたすら叫び続けた。


 そしてその場に丸くなったまま、日が沈み夜になり、真っ暗な部屋の真ん中で眠れない夜を過ごした。

 それ以外、僕に出来ることなんて何もなかった。

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