十九 違和感
画材屋に着く少し手前で、美鈴がするりと僕の手を離した。まだそれを、彼女は叔父達に見られたくはないらしい。
どのみち、いつかは話さなければならないのだろうが、今はまだ気恥ずかしさが勝って秘め事にしておきたい。そんな気持ちは、僕にも少なからずあった。
「おかえり」
店に入ると、珠万緒さんが笑顔で迎えてくれた。
「ただいま、叔母さん」
どことなく晴れ晴れとしたような美鈴に、珠万緒さんは安堵の表情を浮かべる。
「ちゃんと話ができたみたいね。マキさん、ありがとう」
「いや、僕は──」
礼を言いたいのは僕のほうだ。僕を信用して、美鈴と二人きりで話す時間をくれた。珠万緒さんの懐の深さと温かさにはいつも救われている気がする。
「で、あなた達はどうなったわけ?」
「え? どうって」
一瞬、何と答えていいか分からずに目を瞬いてしまった。僕の隣では美鈴が頬を赤らめて俯いている。
「だから、マキさんは美鈴ちゃんの気持ちを聞いたんでしょう? それにどう答えたのか聞いてるのよ」
この人は本当に、なんでこうも直球なのか。そんなこと、本人の前で改めて言わせるなんて、拷問としか思えない。
「何で珠万緒さんにそんなこと言わなくちゃいけないんだよ。後で美鈴から聞いて」
投げやりに答えた僕を、美鈴がくすりと笑いながら見上げる。その様子に何か勘付いたのか、どこか嬉しそうに珠万緒さんが微笑んだ。
「ふうん、そういうこと。あとでゆっくり聞かせてもらうわね。美鈴ちゃん」
「やだ、叔母さんたら!」
耳まで赤くした美鈴が両手で口元を覆う。そこへオヤジさんもやってきて、僕の隣に並んだ。
「まったく……姉貴に何て言やぁいいんだ、俺は」
そう溜息混じりに呟いて頭を掻く。
「オヤジさんは何も言う必要ないさ。僕がちゃんと話すから」
「……大事にしてくれよ」
「ああ、わかってる」
その日から、以前と同じように母親の夜勤の日に合わせて美鈴はうちへ来るようになった。
イーゼルに向かう僕の隣で、彼女は絵を描いたり本を読んだり、時にはお茶を入れてくれて一緒に飲んだり。たったそれだけのささやかな時間を共に過ごす。何も特別なことはしなくても、二人でいる時間は僕にとってかけがえのないものになっていった。
美鈴が僕を見て笑ってくれるだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。髪を撫で頬を寄せると、恥じらいながら、でも嬉しそうに僕の名前を呼んでくれる。その唇に触れれば、ゆっくりと目を閉じて小さく震えた。そんな愛らしい姿を、僕はいつまでも見ていたいと心の底から願っていた。
あんなにも泣き虫で弱気で無口だった少女が、蕾をほどいていく花のように少しずつ花弁を広げ、徐々に美しい大人の姿へと変貌していく。それを目の当たりにしていると思うと、身体を重ねなくとも僕の心は幸福で満たされていった。
そんな日々がしばらく続いて、徐々に日が短くなり、朝晩は涼しさが感じられるようになってきたある日。
いつものように二人、アトリエで思い思いの時間を過ごしていた。開け放った窓からは、からりとした爽やかな風が吹き込んで、心地よい残暑の午後がゆっくりと過ぎようとしている。
「美鈴、これを見て」
僕は南の窓の縁に腰掛けて本を読んでいた美鈴に声をかけた。
本に栞を挟み、なあに、と言って立ち上がり歩み寄ってくる。ポニーテールに結った髪がゆらりと揺れて、風を孕んだ白いブラウスの襟元をなぞる。
そんな彼女のほうにむけてイーゼルの向きを変え、僕は椅子から立ち上がった。
そこには、彩色をほぼ終えた美鈴の肖像画があった。細かい部分はまだ描き込んでいないが、柔らかな質感を湛えた彼女の姿が、まるで生きているかのように写しとってある。
「とても、綺麗──私じゃないみたい」
目を輝かせてその絵を見つめる美鈴を、僕は背後から腕の中に包み込んだ。
「実物のほうが何倍も綺麗だ」
「そんなこと」
頬を赤らめて僕を見上げる。
「蒔田さん、私のこと美化しすぎよ」
照れたように笑う彼女の耳元で、僕は以前からずっと考えていたことを、ついに口にした。
「ねえ、美鈴……今度、お母さんに会わせてくれないかな」
「え?」
「いつまでも秘密ってわけにはいかないだろ?」
「そうだけど……」
眉尻を下げて不安に満ちた目を僕に向ける。
「怖いわ……もしも、会えなくなったりしたら」
「そんなこと、考えなくていい。大丈夫。心配しないで」
俯いた彼女の顎を優しく持ち上げると、憂いを帯びたままの瞳がそっと閉じていく。そのまま唇を合わせると、美鈴の小柄な身体を抱き寄せた。
「僕はずっと君のそばに居る」
しばらく縋りつくように僕の胸に顔を埋めていた彼女が、やがてゆっくりと身体を離し、決心したように小さく頷いた。
その時、半袖のブラウスから覗く彼女の腕の内側に、染みのような何かが見えた。
「これ、どうしたんだ?」
思わずその腕を掴んでまじまじと見返すと、そこには直径三センチほどの痣があった。青黒く変色した皮下出血が、白い皮膚の内側に蟠っている。
「え?……やだ、いつの間に」
「覚えてないの?」
「ええ。でも、きっとどこかにぶつけたんだと思うわ」
「痛くない?」
「大丈夫」
そう言って笑う美鈴に、僕も苦笑してその腕を離した。
「気をつけないと。色が白いから、余計に目立つ」
はい、と言って痣を摩る姿を目の端に映しながら、僕はイーゼルの前に据えた椅子に腰を下ろした。
もう少し細部を描き込んだら、今日はもう作業をやめて美鈴を画材屋に送って行こう。そう思いながら、絵筆を取ろうと目線を落とした時、再び窓辺に座った美鈴の、スカートからすらりと伸びる脚が目に入った。
フレアスカートの裾から僅かに見える、膝の内側あたりで視線が止まる。
そこにも、腕にあったのと同じような痣があった。
(何だ、この違和感──)
なにか得体の知れない不安が、僕の胸にじわじわと広がっていく。
堪らずに見上げた窓の外には、少しずつ茜色に変わっていく空と、さざ波のような鱗雲がどこまでも連なっていた。




