十八 抱擁
指の先が頬の温もりを微かに感じた瞬間、美鈴はすっと身を引いて僕の手から僅かに距離を取った。行き場をなくした僕の指は、その場で緩く握られ己の膝の上に力無く落ちていく。
胸の中に、ちくりと痛みが刺した。
「嘘よ。私が世間知らずの小娘だから、揶揄ってるんでしょう? 蒔田さんは大人だもの。私みたいな子供、好きになんてなるわけないわ」
そう言った美鈴の目は、強い疑念に満ちている。
「違う、揶揄ってなんかない。美鈴、君は……綺麗だ、誰よりも。こんなにも純粋で艶やかで、まるでまっさらなキャンバスみたいに眩しい。君の笑顔も、涙も、髪も肌も全部、僕だけのものにしたい」
息つく暇もないほど、溢れ出る感情を吐き出す。膝についた手に力が入って、爪の先が肌に食い込んだ。
「他の誰にも、君を染めさせたくないんだ」
もどかしかった。こんな言葉をいくら並べるより、熱い掌で想いを伝えたい。けれど、僕を睨め付ける彼女の強い視線が、もう一度この手を伸ばすことを躊躇わせた。
美鈴の目にみるみる涙が溜まっていく。そして震える唇が「ずるい」と呟いた。
「だったら、なんであの人と朝まで一緒にいたの? 口付けまでするような関係の人と、二人きりで……ずっと、何してたの?」
耐えきれずに顔を背けた彼女の声が揺れる。泣かせたくはないのに、傷付けたくはないのに。もう幾度、その睫毛が濡れるのを見ただろう。
でも今は、事実を正直に話す以外、僕にできることはない。それを信じてもらえるかどうか、わからないとしても。
「あいつ、具合が悪かったんだ。熱があって、美鈴が出て行った後倒れて、そのままここで朝まで寝込んでた。誓って何もしてない。本当だ。君のお母さんが働いてる病院に電話をして、往診もしてもらった。でも、朝になって、まだ具合が悪いのに無理して帰って行ったんだ。僕が……彼女の気持ちを受け入れなかったから」
俯いたまま黙って聞いていた美鈴が、肩を震わせながらゆっくりと口を開いた。
「蒔田さんを、信じたい。だって」
一度息を吸って、僕を正面から見据える。
「好きなんだもの。こんな気持ち、初めてなの。誰かに必要とされて、認められて、ありのままを受け入れてもらえた。蒔田さんが、私にも生きている意味があるって教えてくれた。だから、信じたいのに──」
顔をくしゃくしゃにして泣き出した彼女に、僕は堪らず両手を伸ばして左右の頬を包んだ。今度は避けることなく受け入れた美鈴の、濡れた肌をそっと拭う。その吸い付くような感触に、胸の奥が沸き立って指先が震えた。
「信じてくれ、頼む。僕は……君以外、何もいらない」
美鈴が掠れた声で僕の名を呼ぶ。その僅かに開いた唇に、僕はそっと、触れるだけの口付けをした。そんな控えめな愛撫にも身を固くして戸惑う初心な身体を、胸に引き寄せて強く抱きしめた。夢にまで見た抱擁が、今まさにこの手の中に現実として熱を宿したのだ。
「──好きだ」
シャツの胸元に、温かい吐息が掛かる。涙を吸った布に染みができる。そんな彼女の放つ温度を感じる度に、鼓動が早まり身体が熱くなった。
美鈴の全てが、愛おしい──
腕の中で僕のシャツをぎゅっと握りしめている彼女の手に、僕は自身の手を重ねた。その中にすっぽりと納まってしまうほど小さくて華奢な手を、壊れ物のようにそっと撫でる。
「一つだけ、僕は謝らなくちゃいけない」
美鈴が何のことかわからない様子で僕を見上げた。
「君に、触れたこと。僕は約束を……」
破ってしまった。指一本どころか、唇さえも。
美鈴は小さく首を振りながら微笑んだ。
「モデルはもう終わったんでしょう? だったら、蒔田さんはちゃんと約束を守ってくれた」
そう言われて、記憶の糸を手繰る。
「ああ、そうか」
確かに、約束は「モデルをしている間」だった。指切りは嘘にならずに済んだのだ。
安堵しながら右手で彼女の頬をそっと撫でると、まるで猫のようにうっとりと目を閉じる。その表情があまりにも官能的で、思わず美鈴の首筋に唇を寄せた。背中に回した腕にも力がこもる。
「やっ……蒔田、さん!」
びくりと身体を揺らした後、予想以上に強く押し返されて驚いた。でも、無理もない。まだまっさらな少女にとって、これ以上はまだ尚早だ。
「ごめん」
「いえ……私こそ、ごめんなさい」
僕の胸に添えたままの手が、まだ小刻みに震えている。
「わかってる。ゆっくりでいい」
代わりに親指で頬をなぞり、鼻先を優しく啄んだ。反射的に目を閉じて「くすぐったい」と笑う彼女の顎を持ち上げ、僕は衝動のままに唇を重ねた。戸惑いながらもぎこちなく受け入れる美鈴の、とろけるほど柔らかい粘膜。その甘い感触だけで、今は充分だ。
僕は美鈴を腕の中に抱いたまま、ひぐらしが鳴く声を聞いていた。いつの間にか、重なった二人の影が部屋の中に長く伸びている。
「蒔田さん」
呼ばれて美鈴の顔を見る。
「私、そろそろ戻らないと。今日は母が早く帰ってくるんです」
その言葉で、唐突に幸福な時間に終わりがやってきた。すでに陽が傾き、部屋の隅に薄暮れが忍び込んでいる。
「ああ。そうか」
(今日がもし、母親の夜勤の日だったら)
そんなことを一瞬考えて、僕はかぶりを振った。
「美鈴、ここにはいつでも好きな時においで。絵を描きたくなったら好きなだけ描いていていい」
「はい、ありがとうございます」
ゆっくりと離れていく彼女の身体を、思わず引き寄せてもう一度抱きしめた。
(離れたくない)
その思いは口には出さずに。
その日、僕らは初めて手を繋いで夕暮れの街を歩いた。




