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十七 告白

 構内に人は少なく、窓口で切符を買うのにも待たされずに済んだ。


 ここまで歩いてきて多少息が切れているようにも見える紗織と、改札の前で向き合う。正直、あまり顔色がいいとは言えない。


「本当に大丈夫か?」

「大丈夫よ。送ってくれてありがとう」

「絶対に無理するなよ。具合が悪くなったらすぐに助けを呼ぶんだぞ」

「はいはい、わかりました。もう、蒔田くんお父さんみたい」


 くすくすと笑いながら僕に背を向けて、紗織は歩き出した。改札に立つ駅員に切符を手渡す。パチンと音を立てて改鋏が入れられ、それを受け取った紗織が改札の向こう側でもう一度こちらを振り返った。


「じゃあね。また」

「ああ、また……」


 最後ににこりと笑って、紗織はホームへと向かう人波に紛れて行く。その姿が見えなくなった瞬間、僕は踵を返して走り出していた。


 画材屋へ行かなくては

 美鈴と、話がしたい──


 画材屋の前に着くと、勘定場に立っていたオヤジが僕を見つけて目を見開いた。

「蒔田くん! あんたが来るのを待ってたんだ」

 待っていたとはどういうことだろう。戸惑いながら中へ入ると、僕に掴み掛かるような勢いでオヤジが詰め寄ってきた。


「昨日あんたのところから帰って来てから、美鈴の様子がおかしいんだ。塞ぎ込んでろくに口もきかないし、何かあったのかって聞いても答えないし。さっきだって、使いを頼んで戻ってきたと思ったら、奥の座敷に閉じ籠って出てこなくなっちまった。なあ、一体何があったんだ?」


 そう問われて、僕は言葉が出なかった。何も言わない僕に、オヤジは青い顔をして冷たい視線を向けた。

「もしかして……何かしたんじゃないだろうな」

「違う! そうじゃない。僕は……」


 何もしていない、とは言えなかった。たとえ指先すら触れていなくても、彼女の心に傷をつけたのは確かだ。それをどう説明したらいいのか、思いあぐねた僕の沈黙を、オヤジは何かしら肯定していると捉えたようだった。僕の胸ぐらを掴み、血が昇って真っ赤になった顔を寄せて怒鳴りつけた。


「あの子はな、あんたのこと信じてたんだよ! 約束したんだろ? 指一本触れないって。俺だって、あんたはそんな事するような奴じゃないって思ってた。だけど、美鈴の様子を見てたら、疑わざるを得ないんだよ!」


 最後には声を震わせて僕を睨みつけたオヤジを、汗ばむ掌を握り締めて正面から見つめ返した。

「僕は、彼女の身体に指一本触れてない。約束を破るようなことは一切してない。ただ……」

「ただ?」


 オヤジに向けていた視線を斜に落として、僕は絞り出すように小さく告げた。

「彼女を傷付けるようなことを、目の前でしてしまったのは事実だ」


 オヤジの顔に困惑の色が滲む。

「訳がわからん。あんた、一体何をしたっていうんだ」

 そう問われても、簡単に説明出来る話じゃない。何か言おうにも言葉が纏まってくれないのだ。ろくに寝ていない頭の中は、焦りと疲労がごちゃ混ぜになって、今にも焼き切れそうだ。


「とにかく、美鈴と話をさせて欲しい。誤解を解きたいんだ。でないと、僕が耐えられない」

 困惑をより一層強めたオヤジが、僕のシャツから手を離す。一瞬よろめいた自分が情け無い顔をしているのは、自分でもよくわかっていた。


 その時、店の奥の引き戸が開く音がして、珠万緒さんと一緒に美鈴が姿を現した。僕は思わずその場に走り寄り、陰に隠れるように佇む彼女の名前を呼んだ。そんな僕を一瞥した美鈴は、真っ赤になった瞳を伏せながらぷいと横を向いた。


「美鈴ちゃんからあらましは聞いたわ。確かに、マキさんは約束は破ってない。ただ……あまり見たくないものを見ちゃったみたいね。マキさん、どういうことなのか、この子にきちんと説明してあげて」


 そう言って僕を見る珠万緒さんの目は、咎めている様子はなく、事情を察した上で僕に全てを託してくれているように思えた。


「ああ、わかってる。今から彼女、借りてっていい?」

「どうぞ。美鈴ちゃんもあなたに言いたいことがあるらしいから」


 そう言うと、背後に黙って立っていた美鈴を僕の前に押し出した。横を向いたままこちらを見ようともしない美鈴が、珠万緒さんに促されて僕の隣に並ぶ。おいで、と声をかけて歩き出すと、数歩遅れて後をついて来た。そのまま店を出てしばらく歩き、画材屋が見えなくなったところで僕は足を止めた。


「どこへ行きゃいいんだ」

 頭を掻きながら後ろを振り返ると、数メートル先で立ち止まった美鈴がむくれた顔で僕を見ていた。


「僕んちは、もう嫌だろう? どこか落ち着いて話ができるところ、知ってる? 僕はよくわからないけど、女の子が好きな……パーラーとか? 喫茶店とか」


 しばらく考えるようにしていた美鈴の口から、思いもよらない言葉が飛び出した。

「アトリエ」

「え?」

「蒔田さんの、アトリエに行きたい」

「でも、うちは──」


 見たくないものを、見てしまった場所なのに?

「いいの。あの家で何があったとしても、私はあのアトリエが好きだから、行きたいの。お願いします」

 強い意志の籠った眼差しでじっと僕を見る美鈴に、躊躇いながらも頷いた。

「わかった」


 僕らは黙ったまま、いつもの道をいつものように歩いた。入道雲がまるで昔話に出てくる巨人のように空に聳え立ち、蝉が命の限りに鳴いている。暑い夏が永遠に続くような道を、重くのしかかる沈黙を背負いながら、ただひたすらに歩き続けた。


 長屋に着くと、先に立って玄関を開けた僕の目に、今朝まで紗織が寝ていたままの乱れた布団が飛び込んできた。この前はこれのせいで、紗織にあらぬ疑いをかけられたのだ。同じ轍を踏むわけにはいかない。


「片付けるから、外で待ってて」

 そう美鈴に声をかけてひとりで家に上がると、急いで布団を畳んで押し入れに放り込んだ。それから淀んだ空気を追い出すために、奥の勝手口の扉を開けてから美鈴を呼び入れた。


 二人で階段を登り、二階のアトリエへと向かう。つい数日前までは当たり前だったその行動が、今日は緊張感で足が思うように動かない。踏み板の軋む音もやたらと大きく感じて、一歩踏み出すたびに冷や汗がつたった。


 ようやく二階にたどり着くと、美鈴に文机の前の座布団を勧めた。絵の具の臭いが充満した部屋の窓を開け、風を通す。


 美鈴の隣、南の窓の前に腰を下ろして彼女に向き直ると、顔を逸らすように座った美鈴が僅かに肩を震わせた。

「昨日は……済まなかった。君に嫌な思いをさせた」

 そう詫びる僕に顔を向けることなく、美鈴は握り合わせた自分の手元をじっと見ていた。


 久々に見るその素振り、まるで初めの頃のような振る舞いに、いつの間にか僕に対して心を開いてくれていたのだと思い知る。


「蒔田さんは」

 ふいに名前を呼ばれて、思わず目を瞬かせる。

「朝まであの人と一緒にいたの?」

 その問いに、僕は息を呑んだ。美鈴が何を言いたいのかは、わかっている。


「ああ、そうだ。だけど」

 君の思っているような事は何もない、そう言おうとした矢先に、彼女は畳み掛けるように言葉を続けた。

「恋人、なんですか?」


 ようやくこちらに顔を向けた美鈴に、僕は視線を逸らすことなく事実を告げる。

「昔はそうだった。でも、今は違う」

 彼女の目尻に溜まった雫が、ぽろりと頬を伝って落ちる。


「でもあの人は、まだ蒔田さんのことが好きみたいだった……蒔田さんも、そうなの?」

 震える声で、まるで怖い話でも聞くかのような怯えた表情で、美鈴は僕を見ていた。


「僕は」

 真っ直ぐに美鈴を見つめ、心の声を言葉にする。蝉の声が消え、風鈴が一度鳴った。その余韻が消えると同時に、僕は口を開いた。


「僕が好きなのは──

 君だよ、美鈴」


 見開いた彼女の目に僕が映り込む。それがゆらりと揺れて、吸い込まれるように近づいた僕の右手が、上気した薄紅の頬にそっと触れた。

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