表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/24

十六 焦燥

 その夜は、暑さと眠気との戦いだった。


 時折目を覚まして僕を呼ぶ紗織に水を飲ませ、頓服も一度使った。手拭いは替えても替えてもすぐ生温くなり、うわ言のように暑い暑いと言うので団扇であおいだ。


 そして、東の空が白み始めた頃、ようやく穏やかな寝息をたて始めた紗織に安堵して、僕もほんの少しだけ、浅い睡眠をとったのである。


 壁にもたれたまま倒れ込むように畳の上に横たわった僕は、瞼の向こうに光があることに気付いてゆっくりと目を開けた。部屋の中はすっかり明るくなって、室温も上がり始めている。張り付いたシャツが汗臭い。


「……蒔田くん」

 声のする方へ顔を向けると、布団に横になったままの紗織が僕を呼んでいた。慌てて身体を起こし、近くに寄って様子を伺う。


「どうした、紗織。水を飲むか?」

「ううん、大丈夫」

 そう言うと、僕の顔を見て眉尻を下げた。

「疲れた顔してる……一晩中、寝ないで看病してくれたの?」

「ああ、でも平気だ。徹夜は慣れてる」


 紗織はほんの少し笑って、それから天井を見上げた。

「ごめんね」

 瞳いっぱいに涙を溜めた彼女に、僕は努めて明るい調子で声を掛けた。

「そうだ。桃、食べるか?」

「桃?」

「昨日買ったんだよ。剥いてやるから。少しでも何か食べた方がいい」

「蒔田くん、包丁なんて使えるの?」

「馬鹿言うなよ。そのくらい、出来るさ」


 そうは言ったものの、いざ台所に立つと右手に包丁を持ったまましばらく考え込んでしまった。


 美鈴の手つきを思い出しながらそっと桃を持って包丁を入れるが、あの子のように綺麗には切れない。さらに皮を剥こうとすると、力加減がわからずに柔らかい実がぐずぐずになってしまった。溢れ出す果汁が手首まで流れ、まな板の上に滴り落ちる。それでも何とか全て剥き終えると、皿に乗せて紗織の傍らに戻った。


「ごめん。やっぱり、あまり上手くできなかった」

 布団に身を起こした紗織に皿を手渡すと、ぷっと噴き出して「やっぱりね」と笑う。それから、じっと皿を見つめて「ありがとう」と呟くと、フォークで一つ口へ運んだ。


「美味いか?」

「うん、甘くて美味しい。蒔田くんも食べる?」

「いや、僕はいい。食べられるなら紗織が全部食べて。栄養摂らないと良くならないだろ」

 しかし、フォークを持った紗織の手は、それきり動かなくなってしまった。皿の上の薄紅を見つめて口を引き結ぶと、次の瞬間、彼女の目から涙が一粒落ちた。


「紗織……?」

 次から次へと落ちてくる雫が、布団の上に丸いシミを作る。紗織の顔を覗き込むと、ふいっと僕から顔を背けた。


「ねえ……なんでそんなに優しいの?」

 伸ばそうとした指先が、ぴくりと震えて動きを止める。

「私、振られたのに。もうこれ以上好きになっちゃいけないのに。なんでそんなに優しくするの?」

「それは……」

 答えられなかった。胸の奥には幾つもの感情が渦を巻いているのに、一つも言葉に出来なかった。


 自責の念、贖罪、良心の呵責

 彼女の気持ちに応える事ができない僕の、

 せめてもの償い


 そのどれも、自分で自分を正当化するためのずるい言葉だ。どんな言い方をしても、紗織を傷つけたことに変わりはないし、言えば余計に彼女を傷つける気がした。


 それでも、紗織の助けになりたかった。もちろんそれで許してもらおうなんて少しも思っていない。

 ただ、紗織が僕にかけがえのない時間を与えてくれたことは間違いない。それが過去のことであっても、僕は紗織に心から感謝している。


 下を向いたまま、僕は呟いた。

「君を助けたかったんだ。ただ、それだけだ」

 顔を上げて紗織を見る。背けたままの顔に、一筋の涙がつたっていた。


「僕は君を友人として、今でも大切に思ってる。だから放ってなんておけないし、万が一何かあったら絶対に後悔する。それはこれからも変わらないよ」


 紗織はしばらく下を向いて黙っていたけれど、やがて僕を見て寂しげに微笑んだ。

「ずるいなぁ、蒔田くんのそういうところ。誰に対してもすごく優しくて、でもちょっと不器用なの。昔から変わらないよね」


 紗織の手の中で、色の変わり始めた桃が甘く濃厚な香りを放つ。

「私は……そういう蒔田くんが、大好きだった」


 胸がつかえて何も言えなかった。紗織を傷つけたくはないのに、僕が美鈴に想いを寄せる限り、それは避けて通れない。

「本当に、ごめん」


 それきり、僕も紗織も口を開くのをやめた。蝉が鳴き始め、風鈴が鳴る。その音だけが狭い部屋の中を満たしていく。こめかみから汗が流れた。


 唐突に、紗織が桃の入った皿を僕に突き付けてきた。

「ごちそうさま。それと、助けてくれて本当にありがとう。私、帰るね」

 妙に明るい声が、蝉の声の間に割って入る。

「何言ってるんだよ。まだ熱も下がり切ってないのに、途中で倒れたらどうするんだ」


 それに答えもせずに、乱れた服を直しながら布団から出た紗織は「洗面所貸して」と言ってよろよろと立ち上がる。思わず手を添えようとして、きっぱりと断られた。


「いくら優しいからって、振られた男の家にいつまでも世話になるなんて、そんな惨めなことできないわ」

 そう言って、洗面所の鏡を見ながら手櫛で髪をといて結い直す。いつもの気丈さが戻っているのはいいが、こんな病み上がりもいいところの人間を一人で帰すなんて、出来るわけがない。

「じゃあ家まで送るよ」


 慌てて身支度を整える僕の傍らで、紗織がちゃぶ台の上に置いていた請求書を畳んで鞄に仕舞う。

「駅までで大丈夫。ああ、あと診療代、今度ちゃんと払いに行くから。請求書貰っていくね」


 呆れて返事も出来ない僕に、紗織はにこりと笑顔を向けた。この頑固さが彼女らしいといえばそうなのだが、あまりにも心配で気が気ではない。

「じゃあ、駅でタクシーを拾ってやるから。っていうか、紗織。今どこに住んでるんだ?」


 考えてみれば、僕は彼女の住所すら知らなかった。今の彼女の家も生活も、もう僕の知っていることなんてきっと何もないに等しい。

「出版社の最寄駅から四つ手前の駅で降りるの。タクシーなんて使ったらとんでもない金額になっちゃう。具合が悪くなったら、途中下車して自分でタクシー拾うわ」


 結局根負けしたのは僕の方で、駅まで送る道すがら、口を酸っぱくして無理をするなと念を押し続ける羽目になった。


 駅に向かうには、商店街の中を突っ切っていくのが一番の近道だ。平日の暑い盛り。行き交う人の姿はまばらで、並んで歩く僕ら以外は暇そうに立ち話をする年寄りしかいない。


 ちょうど画材屋の近くに差し掛かったところで、紗織が僕に尋ねた。

「ねえ、蒔田くん。あの絵、どこかの公募に出すの?」

「ああ、二階にあったあれ? そのつもりだよ。まだ仕上がるまでには相当時間がかかるから、いつになるかわからないけど」

「そう。じゃあ、もし受賞したらうちの出版社の美術雑誌で特集組んでもらうから、頑張ってね」

「はは、それは頑張らないとな」


 そう笑ったところで、ごく自然と美鈴のことが頭をよぎり、画材屋のある通りへ続く角に視線を向けた。


 そこに、美鈴の姿があった。


 心臓がどくんと飛び跳ね、掌にじわりと汗が滲む。ほんの一瞬、足を止めるべきか否か僕は迷った。だが、隣にいる紗織の体調への不安が僅かに勝り、僕は歩き続ける方を選んだ。


 僕らを見ている美鈴の表情は、ここからでははっきりとはわからない。ただ、居た堪れずに目を逸らした僕の、ブレた視界から消える寸前に、彼女はくるりと背を向けて画材屋の方へと走り去っていった。


 背中に冷たい汗が流れ、焦りと不安が湧き上がった。頭の中に、ジンとした痺れと共に危機を知らせる警報が鳴り響く。耳障りなその音と蝉の合唱がないまぜになって、激しく僕をせき立てた。

 美鈴を追うべきだ、と。


 そんな僕の様子に気づかない紗織は、時折左右に揺れながら、懸命に歩いているように見えた。

(駄目だ。ここで紗織を置き去りになんて、絶対にできない)


 身を切られるような思いを、必死で隠して歩き続けた。やがて商店街を抜け視界が開けると、前方に駅前広場の時計塔と路線バスの停車場が見えた。

 駅はもうすぐだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ