十五 嫉妬
三和土に降りて玄関を開けると、思った通り紗織が立っていた。
「どうしたんだ、急に」
彼女は俯いたまま何も答えない。
「今日、仕事休んでいただろう? 風邪をひいたって、原稿を届けに行った時に長谷川さんから聞いた。大丈夫なのか?」
それを聞いているのかいないのか、紗織は三和土に置かれてあった美鈴の下駄に気付いて目を見開いた。
「あの子、来てるの?」
唐突に口を開いたと思えば、僕の身体越しに家の中を見遣る。と、小さく「あっ」と声をあげた。同時に、背後の六畳間で美鈴が息を呑む気配がする。振り向くと、戸惑うような表情を浮かべた美鈴が、僕と紗織を交互に見ていた。紗織は何か言いたげな強い視線を、美鈴に向かって投げ付けている。
「今日はデッサンの仕上げで来てもらったんだ。ようやく描き終わってひと息ついていたところだよ。それより紗織、具合は……」
そう言った途端、紗織が突然僕の胸に飛び込んできて、強く抱きついた。
「ちょっ……どうしたんだよ」
あまりにも急なことで身動きも取れずたじろいでいると、美鈴の悲鳴にも似た鋭い呼吸音が聞こえた。
「あ……あの、私──」
両手で口元を押さえ、声を震わす美鈴が目の端に映った。どうにかしなければ、美鈴に変な誤解をされては困る。
「紗織、やめてくれ。頼むか……っ」
言い終わらないうちに、紗織は僕の腰に回していた腕を解き、爪先立ちをして今度は首に縋り付く。あっと思った刹那、目を閉じた彼女の顔が近づき、二人の唇が重なった。
不意に甦る
恋人だった頃の口付けの記憶
薄く漂う化粧品の香りと
ふっくらとした唇の弾力
ほんの一瞬、あの頃に時が戻った気がした。
しかし、次の瞬間──
(熱い……熱があるのか?)
そんな感覚が頭を過って、彼女の身体を押し返すことを忘れていた。その無抵抗な僕の横を、美鈴がすり抜けて外へ飛び出して行く。
「っ……美鈴!」
ようやく紗織の身体を引き離して名前を叫んだ。しかし止まってはくれない。下駄が砂利を蹴る音があっという間に遠ざかり、美鈴の姿は暮れ始めた街の中に消えた。
後を追いたいが、まだ紗織が僕の腕に縋るように抱きついている。それをなんとかしようと視線を向けると、下を向いた彼女の足元にぽたりとひとつ雫が落ちた。そして蚊の鳴くような細い声で僕の名前を呼ぶ。
「蒔田くん……私──」
最後の言葉は途中で途切れて聞き取れなかった。聞き返そうとした刹那、紗織の身体から力が抜けて、ずるずると崩れ落ち始めた。
「え? おい、紗織。どうした?」
咄嗟に抱え込むようにしたが、意識を無くした人体は想像以上に重い。立ったままでは支えきれず、衝撃を与えないようゆっくりと上り框に横たわらせた。ぐったりと目を閉じた紗織は、赤い顔をして荒い息をしている。その頬が涙で濡れていた。風邪を引いたというのは本当だったようだ。かなり熱が高い。
急いでちゃぶ台を退け布団を出すと、紗織を抱き上げてそこへ寝かせた。本心は、美鈴を追いかけたいと言っている。しかし、こんな状態の紗織を置いて行くわけにはいかない。
(──どうしたらいい?)
風邪だとしてもうちには薬なんてないし、万が一重大な病気だったら一刻も早く医者に見せたほうがいいだろう。
しばらく考えて、僕は目を閉じたままの紗織に声をかけた。
「今、医者を呼ぶから。しばらく辛抱してくれ」
急いで長屋の隣に建つ大家の家を訪ねると、電話を借りて病院に電話をかけた。美鈴の母親が働く、内藤醫院だ。往診を頼むと三十分程で来てくれるという。婆さんに礼を言って家に戻ると、先ほどと変わらない様子の紗織が六畳間に横たわっていた。
汗をかいてふうふうと苦しげに呼吸をしている。箪笥から手拭いを出し、水で濡らして額に乗せてやると、ほんの僅か、眉間に寄った皺が緩んだ気がした。その傍らに腰を下ろすと、薄く目を開けた紗織の唇が何か言いたげに微かに動いている。
「紗織、どうした?」
口元に顔を近づけ、掠れた声に耳を欹てた。
「蒔田くん……ごめん、ね」
「気にするな。もうすぐ医者が来るから、大丈夫だ」
再び閉じられた瞼から、一筋の涙がこめかみを伝って流れ落ちる。
「違う、そうじゃなくて。私、あの子に……嫉妬、したの」
「嫉妬って」
潤んだ瞳が僕を見上げ、噛み締めていた唇が震え出した。
「だって」
息を詰めた僕に、紗織は涙声で言った。
「まだ、好きだから。蒔田くんが」
その突然の告白に返すべき言葉が見つからず、僕はしゃくりあげる紗織の顔を黙って見つめた。
「本当に、ごめんなさい」
泣きながら謝り続ける紗織に、何も言えずに首を振る。
僕だって、もしもやり直せたらと考えたことが全く無かった訳じゃない。幸せだった頃もあった。喧嘩をしたって、素直に謝れなくたって、触れ合えばいつの間にか許し合えていた。
だけど、だんだんとそうは出来なくなっていった。お互いを思いやることより、相手の嫌な部分を否定することしかできなくなってしまった。どちらかが悪かったんじゃない。どちらも悪かったんだ。
一度そうなってしまったら、やり直したところでまた同じことの繰り返しになる。僕らの人生は、別れたあの日に違う方向へと舵をきった。その道筋が再び交わることはおそらくないだろう。
何よりも今、僕の心が求めているのは美鈴ただ一人なのだから。
「──ごめん」
それしか声にならなかった。
もっとたくさん、言いたいことはあったはずなのに。感謝の言葉も言い訳も、全部ハレーションのように飛んで消えた。頭の中が真っ白になって、見上げた天井が涙でぼやける。
紗織は両手で顔を覆い、嗚咽を隠すように息を詰めて泣いていた。表情は見えない。声も上げない。けれど全身から痛みが伝わるようで、僕の胸もヒリヒリと痛んだ。目尻から、熱いものが溢れる。
鳴き始めたひぐらしの声が、虚ろな部屋にこだました。
しばらくすると、いつの間にか嗚咽は止んでまた荒い寝息が聞こえ始めた。彼女の様子を見ようと覗き込むと、両手はぐったりと顔の横に落ち、汗と涙でびしょ濡れになった頬が露わになっている。高熱で朦朧としたうえに泣き疲れてしまった紗織の身体には、もはや意識を保つだけの体力が残っていなかったようだ。
額の手拭いをそっと持ち上げ、台所へ立った。蛇口を捻り、出始めの生温い水がだんだんと冷たくなるのを待つ。流し台で跳ねる飛沫が、手の甲に飛び散って水玉を作った。それが、紗織の涙と重なった。
手拭いを絞り、紗織の額に乗せてやったところで、表から自動車のエンジン音が聞こえてきた。
玄関の扉を開けると、長屋の前の通りに黒光りするダットサンが一台、マフラーから排煙を噴き出しながら停車したところだった。ドアが開き、白衣を着た男性医師と看護婦が一人降りてくる。僕の姿を見つけるとこちらに歩み寄ってきた。
「往診を依頼された方ですか?」
医師が僕に聞いた。
「はい。電話をした蒔田です」
「患者さんはどちらに?」
「家の中で寝ています。よろしくお願いします」
そう言いながら家の中へと案内している時、看護婦の胸の名札がちらりと目に入って思わず視線が止まった。そこには「吉田」と書かれていた。
美鈴の母親ではない──
ほっと胸を撫で下ろし、紗織から少し離れた場所に座した。医師は彼女の傍らにひざまづき、大きな鞄から聴診器や血圧計などを出して手際よく診察を進めていく。
しばらくして僕の方を向いた医師は、耳から聴診器を外しながら大したことではないような口ぶりで言った。
「いわゆる夏風邪ですね。頓服を出しておきますから、辛そうな時に飲ませてください。あとは水分を摂って安静にしていればじきに良くなるでしょう」
それから横に控えていた看護婦に薬の指示を出すと、看護婦が鞄の中から薬包紙に包まれた粉薬をいくつか取り出し、頓服と書かれた紙袋に入れて準備を始めた。
「奥様のお名前は?」
唐突に医師にそう聞かれて、僕は面食らってしまった。
「え?……奥……」
「病院に戻ったらカルテを作りますから、奥様のお名前と年齢、生年月日を教えてください」
「いや、実は彼女はただの友人で、妻ではありません。名前は分かりますが、生年月日までは」
恋人時代には誕生日に何かしら贈り物をしたような記憶もあるが、日付は忘れてしまった。我ながら冷たい男だと思う。
「そうですか。ではお名前だけでも結構です」
そう言われて、差し出されたメモ用紙に名前を書いて渡すと、引き換えに看護婦から今回の往診の診療費が書かれた紙を渡された。交通費も加算されていて、その額に思わず目を疑う。そんな僕の様子を見て、看護婦がにこやかに言った。
「今でなくても構いません。後日ご来院いただいてのお支払いでも大丈夫です。その際、ご本人様が健康保険証をお持ちなら自己負担額だけになります」
「すみません。その辺はよく分からないので、具合が良くなったら一度連れて行きます」
玄関でもう一度礼を言って帰っていく二人を見送ると、紗織の横に戻った。夕闇が降り始めた六畳間には、ひぐらしの声が響いている。まだ苦しそうに目を閉じているその寝顔に、心の中で詫びの言葉を言いながら、僕は階段を登りアトリエに向かった。
薄暗くなった部屋の真ん中で、イーゼルの上で微笑む美鈴の唇を指先でなぞる。ふいに甘い果実の香りが甦って、胸が詰まった。




