十四 二つの果実
翌日の午前中。仕上がった原稿を持って出版社を訪ねると、担当編集者の長谷川氏が出て来て僕に頭を下げた。
「締切日を間違えてお伝えしてしまっていたようで、申し訳ありませんでした」
「いえ。こちらこそ、いつもギリギリになってしまってすみません。間に合いますか?」
「半日程度の遅れなら、なんとかなります」
長谷川氏に礼を言って、編集部の部屋の中をぐるりと見回した。しかし、紗織の姿がどこにも見えない。
「あの、今日は紗……奥村さんは?」
手渡した封筒の中を確認していた長谷川氏にそう聞くと、彼は顔を上げて眉尻を下げた。
「今日は体調がすぐれないと言って休んでおります。夏風邪をひいたようだと」
「そうですか」
正直、どんな顔をして会えばいいのかわからないでいたので、僕は妙にほっとしてしまった。本当に具合が悪いのだとしたら、少し心配だが──
無事に原稿を受領してもらい早々に出版社を出ると、真っ直ぐ駅に向かって電車に乗った。今日は午後から美鈴が来ることになっているのだ。
昨日の夢のこともあり、電車の中でも終始落ち着かず、おかしなことばかりが頭を過ってしまった。拭いても拭いても汗が止まらない。ただでさえ蒸し暑い車内が、僕の周りだけまるで温室のようだ。
僕の中でどんどん膨れ上がっていく感情を、自分でもどうしたらいいのか分からなくなっていた。恋をするのは初めてじゃないくせに、何故こんなにも動揺してしまうのか。
相手が年端もいかぬ少女だから?
確かに、大人げないという自覚はある。
あるいは
崇高で清らかな果実を前にして、それを穢してしまうことへの畏れ──
いや。穢すも何も、僕には美鈴やオヤジさんとの約束があるのだ。絵を描いている間は彼女に指一本触れない。それが、今の僕に歯止めをかける唯一の砦だ。
地元の駅で下車すると、ふと思い立って商店街の青果店に立ち寄った。毎度毎度水しか出してやらないのも申し訳ないし、何か果物でもと思ったのだが、良く考えれば彼女が何を好きかも僕は知らない。悩んだ挙句、食べ頃に熟れた桃を二玉買った。
薄紅色に染まった、瑞々しい桃。まるで美鈴の頬のような……
あの日、僕の頭を過った「触れてはならない禁断の果実」というイメージは現実になってしまった。けれど、せめて桃くらいは手の中で愛でても許されるだろう。
青果店を出るとそのまま自宅へ向かった。もう画材屋へ迎えに行かなくても、一人で大丈夫だと美鈴に言われていたからだ。道も覚えたし大した荷物もないから、と言っていたが、その時の彼女には何処となく子供扱いされるのを嫌がっている様子が窺えた。
そんなつもりは無かったのだけれど、来なくていいと言われたらそれまでだ。無理に迎えに行く必要もないので、彼女の意思を尊重することにした。
自宅に着いてアトリエの窓を開け放ち、籠った熱気を外へと追いやる。今日はそこそこ風があるから、すぐに部屋の温度が下がって汗もすっと引いていった。
風鈴の涼しげな音と、蝉時雨。遠くから聞こえる金魚売りの声。窓から入ってくる音は夏の初めから今日まで何一つ変わらないのに、今、僕の心は数週間前とはまるで違う世界にいるようだった。
美鈴への感情、再び描き始めた日本画への情熱。一人の人間として、そして画家として、新しい場所へ進みたいという強い思いが世界の色を変えたのだ。
それは美鈴も同じように思えた。少しずつ自分の殻を破って成長している。まるで、固く閉じていた蕾が徐々に柔らぎ、先端から花弁を開こうとしている花のように。
しばらく窓辺で風に当たっていると、玄関が開く音がして待ち侘びていた声が聞こえた。
「ごめんください」
足早に階段を降りると、三和土に立っている美鈴が目に入る。柔らかく身体に馴染み始めた浴衣、結い上げた髪から落ちる後れ毛。全てが今、僕の描く絵の為に存在しているのだと思うと、途端に全身が熱くなった。
「いらっしゃい」
落ち着いているふりをしているが、今にも口から心臓が飛び出しそうだ。それを気取られないように、僕は努めてゆっくりと部屋の中へと招き入れた。
アトリエに上がっていつものように向かい合って座り、僕は前回描いたデッサンを見返した。もうほとんど描き込むところがないくらい緻密に描いてあって、自分でも驚くほどに仕上がっている。
「デッサンは今日で終わりそうだ。もうあと少しだけ足りないところを描いたら本制作用のパネルに転写して、いよいよ作品としての制作が始まる」
美鈴は頷くが、デッサンが終わるということはモデルの必要も無くなるということを意味する。それを口に出すことに少しだけ躊躇いを感じて、僕はそれきり口を噤んだ。
徐に鉛筆を取り上げると、丁寧に細部を描き足していく。思い残すことは許されない。美鈴を画用紙の中に、そして僕の脳裏に焼き付けるように、彼女を見つめ鉛筆を動かし続けた。
短い休憩を取りながら四、五十分ほど無言で描き続け、僕はゆっくりと鉛筆を置いた。
「終わったよ。お疲れ様」
その言葉にほっと小さく息を吐くと、美鈴は笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げた。
「お疲れ様でした。あの……見ても、いいですか? その絵」
美鈴が上目遣いに問いかける。
「ああ、もちろん」
そう言うと、彼女は椅子から立ち上がり僕の傍らまでやってきて、イーゼルに置かれた画用紙を覗き込んだ。
「わ……すごい」
頬を染めてしばらく絵に見惚れている横顔に、僕の視線も自然と吸い寄せられる。
「作品としての完成はまだまだ先だけど、君の魅力を精一杯描いたつもりだ」
そう言うと、顔を真っ赤にした美鈴が下を向いた。
「魅力だなんて……」
「美鈴。君は人を惹きつける素晴らしい魅力を持ってる。僕の絵なんかじゃ表し切れないほどの」
ぽかんと口を開けて僕を見る彼女を見上げ、それから部屋の隅に置いたパネルに目を移した。時間を見つけては少しずつ準備していた、水張りをした本制作用のパネルだ。
「ここから先は、僕一人の作業になる。だからもう、君はここに来なくていいんだ。でも、僕の全力を注いで最高の作品を描き上げる。それを君に誓うよ」
何も言わずに僕を見つめていた美鈴が、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。でも……」
「でも?」
顔を上げた美鈴の瞳が、ゆらりと揺れる。
「ちょっとだけ、寂しい」
言いながら、今にも泣き出しそうな表情で僕を見ていた。
「またここに、絵を描きに来てもいいですか? 蒔田さん」
「ああ、いいよ」
そう言うと、ようやくにこりと笑って「よかった」と呟いた。
美鈴の言う「寂しい」を、僕はどう受け取るべきなのか。そして、彼女が浮かべた涙の訳を知りたくて仕方がなかった。でも、僕は問いかけることが出来なかった。意気地なし。そんな言葉が脳裏をよぎる。
僕は唇を噛んで、それから唐突に話題を変えた。
「そうだ、今日は桃を買ってあるんだ。よかったら食べるかい?」
「嬉しい! 桃、大好きです。ありがとうございます」
「いつも水しか出せなくて申し訳なかったから。包丁なんて滅多に持たないし上手く剥けるかわからないけど、ちょっと待ってて」
「あの……よかったら、私が剥きましょうか」
正直、滅多にどころか最後にいつ包丁を持ったのか記憶すらなかった。
「ああ、そうして貰えると助かるよ」
美鈴と二人で階段を降りると、台所に置いてあった桃を美鈴が両手で持ち上げた。
「大きな桃ですね。いい香り」
鼻先に持っていって、うっとりと目を細める。その表情に、思わずごくりと喉が鳴った。漂ってくる甘い香りは、果実から放たれるのか。それとも彼女からか……
「この時期の桃は柔らかいので、優しく触らないとすぐ潰れてしまうんです」
「──そう」
水で洗った桃をまな板に乗せ、器用に包丁を動かして八等分に切りわけてから皮を剥いていく。優しくそっと果実に触れる手つきが、日頃からよく扱っているのだろうと思わせた。
「上手いもんだな」
「母が不在がちなので、家事は私がやることが多いんです」
照れたように笑う美鈴に、僕は皿を手渡すくらいしかできない。それでも「ありがとうございます」と感謝されて喜んでしまう僕は、まるで母親に手伝いを褒められて嬉しがる子供みたいだ。
綺麗に桃が並べられた皿を、六畳間のちゃぶ台に置いて二人で座った。
「いただきます」
手を合わせて言う美鈴にどうぞ、と返事をして、僕は桃を食べる彼女を見ていた。
滴る果汁を左手で受けながら、躊躇いがちに開いた口へと熟れた果実を運ぶ。噛み締めた途端に軽く閉じられた目が弓形になって、頬が上気した。
「味はどう?」
「すごく美味しいです」
面持ちからも充分伝わっていたが、首を縦に振りながら咀嚼する様子は幸福感に満ち溢れている。本当に、この娘は感情表現が豊かだ。
「全部食べていい。足りなければもう一つあるし」
「そんなの、申し訳ないです。蒔田さんも食べてください」
「はは。それじゃ、一切れいただこうかな」
そう言って皿の中に手を伸ばした時だった。
玄関の方からガシャンと軽い音がして、振り向くと磨りガラスの向こうに人影が映っていた。
「蒔田くん、いる?」
あの声は──
「紗織?」




