十三 罪悪感
生ぬるい布団の中で目を開けると、薄暗い六畳間の天井が見えた。
今が何時なのか見当もつかない。しかし、暗闇の中にうっすらと差し込む青白い光は、陽光というよりも月光のような気がする。
その淡い光が満ちた空間で仰向けになっている僕は、自分のすぐ隣にぬくもりを感じてのろのろと顔を向けた。すると、何故か同じ布団の上に、美鈴が横たわっていた。
「……なん、で」
状況が飲み込めずに数回瞬きを繰り返していると、美鈴も薄く目を開けて僕を見る。
「美鈴……」
名前を呼ぶとにっこりと微笑んで、微かに唇を動かした。けれど不思議と声は聞こえない。こちらに向かって手を伸ばす動作も、ひどく緩慢に見えた。美鈴の姿以外の景色が、月の光の中に溶けて消えていく。
そして、僕の身体は伸ばされた手に吸い寄せられ、美鈴の方へとゆっくりと倒れ込んでいく。頭ではダメだとわかっているのに、強い引き潮に攫われていくように少しも抗えなかった。
美鈴の掌が僕の頬に触れ、僕は彼女の唇に自身のそれを重ねた。とろけるほど柔らかい感触と甘い蜜ような香りに、思わず身震いが起きる。それから、組み敷いた細い身体が纒う浴衣の襟を大きく広げ、首筋に向かって唇を這わせていく。反った喉元に強く吸い付くと、白い肌に紅い小さな蕾が綻んだ。
指先は震えているのに、この手を止めることができない。互いの息が縺れ合うたび、頭の中が痺れて意識が遠のいた。
欲しい──
その一心で、控えめな膨らみの下で蝶々結びにされた伊達締めを解いた。顕になったその胸元に、夢中で顔を埋める。匂い立つ肌の香りを吸い込み、酩酊に似た軽い眩暈を覚えた僕は、柔らかな太腿を押し開き無抵抗なその場所にそっと指を這わせた。びくりと身じろぎした美鈴の熱い吐息が耳元にかかり、堪らずに声を漏らしたその時──
「!」
そこで再び目が覚めて、唐突に目の前が明るくなった。
何が起きたのか、理解できずにしばらく天井を見つめて呆然としていた。六畳間の天井には強い日差しが反射していて、だいぶ日が高くなっていることがわかる。
「夢……?」
荒い息をしながら右の前腕で額の汗を拭い、そのままぱたりと枕の横に腕を落とした。汗でぐっしょりと濡れた寝巻きが、身体中に絡みついて鬱陶しい。
深呼吸をし、激しく打ち鳴らされている鼓動を鎮めようと目を閉じた。先程まで夢の中で見ていた光景が、瞼の裏にぼんやりと浮かんでは消えていく。しかし、思い出そうとすればするほど、靄がかかったように全てが曖昧になっていき、美鈴の顔すらも朧げに揺らめいていた。
(嫌だ、行かないでくれ──)
夢の中の話だというのに、彼女の面影が消えてしまいそうになるのが悲しくて両手で顔を覆った。
花火の夜以来、美鈴のことが頭から離れず眠れば夢に出てくる始末で、この数日すっかり寝不足の日々が続いていた。挿絵の締切が明日に迫っているというのに、まだ半分程しか描けていない。もしも遅れてしまって出版社に迷惑をかければ、今後の仕事にも支障が出るだろう。
(早く起きて描かなくては──)
僕は自身の昂りをなんとか治め、顔を洗いに洗面所に向かった。
表からは、今を盛りと声を張り上げる蝉時雨と、どこかの家のラジオから流れる流行歌が細く聞こえてくる。その気怠げな歌声を聞きながら、蛇口の下に頭を突き出し水をかぶると、犬のようにぶるぶると髪を振り乱して水滴を飛ばした。煩悩を頭の中から追い出して気持ちを切り替えなくては仕事にならない。
台所に置いてあったソーセージの缶詰を開け、昨夜大家の婆さんが持ってきてくれた茹でたトウモロコシと一緒に手に持ち二階へ上がる。これが朝昼兼用の食事だなんて、適当もいいところだ。
アトリエの文机には、描きかけの原稿と画材が散乱していた。明日までに連載小説の扉絵と挿絵を三枚、仕上げなければならない。どれもモノクロで小さな絵だが、中途半端にペンを入れたところで止まっている。
どこから手をつけようか、と考えながら部屋の真ん中でトウモロコシにかぶりついていると、階下から誰かの声が聞こえた気がした。
「ごめんください」
階段を降りている途中で、そう言う女性の声が聞こえてきた。今日は美鈴も来る予定ではないし、他に僕を訪ねてくる女なんて大家の婆さんくらいだ。でも聞こえた声は若い女のようだった。
「はい」
不審に思いながらも、玄関の引き戸を少しだけ開けて外を覗いた。すると、僕の顔を見るなり扉に飛びつくように人影が近づいて、思わず一歩後ずさった。
「蒔田くん! 良かった、居てくれて」
「は……? 紗織?」
なぜ彼女が訪ねてくるのか、訳もわからず困惑していると、ガラリと引き戸を開けて紗織がにこりと微笑んだ。
「突然来ちゃってごめんね。今、大丈夫?」
「いや、ええと」
あまり大丈夫ではないが、上手い口実が見つからない。口篭っていると、急に声を顰めて僕の背後を気にし始めた。
「もしかして、誰かいるの?」
「いや、いないよ。誰もいない。それよりどうしたの、急に」
学生時代に住んでいた下宿になら紗織は何度も来たことがあるが、この長家に移ってきたことを彼女は知らない筈だ。
「他の作家さんの原稿を受け取りに来たついでに、蒔田くんの分もよかったら貰って帰ろうと思って。いつもいつも汽車賃使って来てもらうのは忍びないから。住所は編集部で教えてもらってきたわ」
にこやかに笑う紗織を尻目に、僕は目が点になった。
「ちょっと待ってよ。締切は明日だろ?」
「何言ってるのよ。水曜が締切って言ってあったじゃない」
「だから、今日はまだ火曜で……」
「もう、今日は水曜日よ。蒔田くん、大丈夫? 疲れてるんじゃない?」
何も言い返せずに呆然とする僕を、紗織が覗き込んで心配そうな顔をする。その心配は僕の身体を気遣っているのか、それとも原稿が受け取れないかもしれないという不安からなのか……
どっちにしろ、急いで原稿を仕上げるという選択肢しか残されていないようだ。紗織には申し訳ないが、しばらく待ってもらうしかない。
「申し訳ない。まだ出来てないんだ。急いで仕上げるから、とりあえず上がって待っててくれる?」
そう言って中に入るように促すと、紗織の目元がふっと緩んだ。
「学生時代には課題も提出物も一度も遅れたことなかった蒔田くんが、珍しいわね。何かあったの? もしどうしても間に合わなければ、締切を一日延ばしてもらうように編集長に掛け合ってみるけど」
「いや、そんな迷惑はかけられないよ。もともと今日中には仕上げるつもりでいたから。あと少しなんだ」
そうは言ったものの、実のところ今日の夜中までかかる覚悟をしていた。でも、なんとか夕方までには終わらせて、彼女が社に戻る時間を確保しなければ、締切に間に合ったとは言えなくなる。
「わかったわ。じゃあ遠慮なくお邪魔します」
「お茶も出せないけど勘弁して」
「そんなの分かってるわよ」
心得顔でさっさと六畳間へ上がろうとする彼女を、僕は急いで追い越して、引きっぱなしの布団を慌てて片付けた。
今朝の夢を突然思い出し、何もしていないくせに見られたらいけないと思ってしまった。その慌てっぷりを見て、紗織が何やら疑うような顔をする。
「ふうん。蒔田くん、やっぱり昨夜は誰かとお楽しみだったのかしら」
「だから、違うって。ここには誰も来てないし、君と別れてから誰とも寝てない」
言ってからふと我に返って、しまったと思った。そんなこと、わざわざ紗織に暴露しなくてもよかったのに。見ると、紗織も頬を赤らめて俯いている。
「ちょっと……変なこと言わないで」
「──悪い」
お互い顔も見られないまま、階段を登り始めた僕の後を紗織がついて来た。
「ここが蒔田くんのアトリエ?」
「そう。適当に座って。喉が渇いたら、水しかないけどご自由にどうぞ」
「ありがと」
部屋の中を見回す紗織を横目で見ながら、僕は文机に向かってペンを握った。
腕時計に目を落とすと、すでに午後一時になろうとしている。思ったより起きたのが遅かったようだ。
あと数時間で四枚の絵を仕上げるなんて、到底無理なように思えた。紗織だって、食べるものも暇つぶしになるものも無いこの家で、長時間待たされるのは辛いだろう。それでも、できるところまででもなんとかしようと、必死にペンを走らせた。
しばらくして、紗織がイーゼルの上に掛けてあった布を捲ろうとしているのが目に入った。
あそこには、美鈴を描いたデッサンが置いたままに──
止めようと声をかけるより早く、紗織が布の端を持ってぺらりと持ち上げた。
「……」
何も言わずにイーゼルに置かれた絵を見つめる彼女は、始めは無表情だった顔を徐々に曇らせ、だんだんと伏目がちになっていった。
「紗織?」
問いかけても返事はなく、しばらく間があいてから覇気のない声が返ってきた。
「蒔田くん、この子……」
「ああ、今モデルをやってもらってる。知り合いの姪御さんなんだ」
「そう」
紗織はイーゼルから目を逸らさないまま、ゆっくりと布を持った手を下ろす。
「蒔田くん……この子のこと、好きなんだね」
どきりと心臓が鳴って、紗織を凝視したまま動けなくなった。
「なん──」
(なんで分かるんだ)
そう言いそうになって、すんでのところで言葉を飲み込んだ。
静かに僕を見返す紗織が、ほんの少しだけ笑顔を浮かべる。
「この絵見ればわかるよ。まるで、好きだって文字で書いてあるみたい。ほんっと、昔から分かりやすいんだから、蒔田くんの絵」
そう言う紗織の目が心なしか赤くなる。否定も肯定もしない僕からゆっくりと視線を外すと、紗織は部屋の隅に置いてあったバッグを持って階段へと向かった。
「紗織」
襖の前で立ち止まった紗織は、背を向けたま微かに肩を揺らした。
「ごめん、やっぱり帰る。締切、一日延ばしてもらうね。蒔田くんのせいじゃなくて、私が日にちを伝え間違えたことにするから。安心して、ゆっくり仕上げて」
そう言って階段を降りていく。その背中を追いかけながら、肝心の掛ける言葉が見つからず咄嗟に名前を呼んだ。
「紗織!」
謝るのも、何故と問いかけるのも、何か違う。引き止めたところで、その先をどうすればいいかもわからない。でも呼ばずにはいられなかった。
紗織が靴を履く間にもう一度呼びかけたが、結局一度も振り返らずに彼女は出て行った。
玄関にぼつんと残された僕は、自分を襲う罪悪感の正体が掴みきれないまま、ギシギシと音を立てて痛む胸を押さえてその場に立ち尽くすしかなかった。




