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十二 恋情

 あまりにも絵を描くことに熱中する美鈴を止めることができず、気付けばすっかり日が暮れていた。藍色の空に、大きな明るい星が一つ瞬いている。


 美鈴の隣に腰を下ろしていた僕は、腕時計に目を落とした。間もなく七時になろうとしている。

「いけない。もうそろそろ帰らないと、オヤジさんが心配する」

「え? あ……もうこんなに暗く……」

 画用紙から顔を上げて、驚いたように美鈴が声を上げた。


「絵、完成した?」

 問いかけると、彼女がこくりと頷く。それを見て覗き込んだ画用紙には、鮮やかなローズピンクに染まる空と、その光を反射して輝く海が描かれていた。

「これは……朝焼けの海? とても綺麗だ。よく描けてる」

 柔らかいピンク色から紫までのグラデーションを、パステルと指先で見事に表現している。

「ありがとうございます。でも、どうして朝焼けってわかったの?」

「何となく。色の感じかな」

 僕の隣で美鈴がふふっと笑う。


「今まで見た海の中で、朝焼けの海が一番綺麗だったんです。空も海もピンク色に染まって、まるで天国にいるみたいだった。そのまま、空の上に連れて行ってもらいたいくらい、美しかったんです」

「天国に……連れて行ってもらいたかった?」

「はい、それでもいいと思いました。天国にいる会いたい人に、会えそうな気がしたから」

 画用紙を見つめる横顔が、寂しげに微笑んだ。彼女の脳裏には、おそらく父親の姿が思い浮かんでいるのだろう。


「その絵、持って帰って家に飾るといい。パステルは色落ちしやすいから、上から定着剤を……」

 棚に手を伸ばした僕に、美鈴が心配そうに言った。

「でも、持って帰ったら母に怪しまれませんか? うちにはパステルなんて無いから」

「オヤジさんの店で描いたってことにしておいたら? 何なら店で額装もして貰えば、綺麗なまま保管できるし」


 しばらく黙って絵を見つめていた美鈴が、何か思いついたようにはっと顔を上げた。

「もうすぐ母の誕生日だから、これプレゼントしたら喜んでくれるかな……」

 そんな素朴で優しい少女の横顔を見ながら、僕は定着剤の入った霧吹きを手に取った。

「ああ、いいんじゃないかな。きっと喜ぶと思う」


 美鈴を促して帰り支度をし家を出ると、すっかり暗くなった空に上弦の月が登っていた。雲一つない夜空に、まるで小さな貝殻のように光り輝いている。

 今夜は湿気が少なく、さらりと肌を撫でて吹き抜ける風が心地よい。その風の中に、微かに火薬の匂いが混じったような気がして、思わず辺りを見回した。


 突然、ドンッという大きな音がして、数秒の後に空が明るくなった。驚いて見上げると、夜空に大輪の光の華が咲いていた。


 花火──


 僕も美鈴も、不意をつかれたように空を見上げて立ち尽くす。その間にも、立て続けに腹に響くような低音が鳴って、パッと閃光が降り注いだ。

「そうか、今日は……」

 昨年から戦没者の慰霊と復興への願いを込めて始まった花火大会が、今年も開催されるとは聞いていた。それが今夜だったのか。


 古くから鎮魂の祈りを込められてきたその光が、焼け跡から立ち上がった街を明々と照らす。散った命を慰めるように、残された者の心を癒すように、優しく強い送り火が夜空を彩り、消えていく。何度も、何度も──


 次々と打ち上がる花火を見上げて、美鈴は上を向いたまま釘付けになっていた。その唇が僅かに開いて、風に乗って小さな声が届く。

「綺麗──」

 暗い空に華が開くたびに、彼女の瞳にも宝石のような煌めきが宿る。瞬きすらも忘れたように見開かれたその双眸から、僕は目が離せなかった。


「──綺麗だ」


 僕の口からも、思わず言葉が漏れた。しかし、この目に映っているのは夜空ではなく、隣に立つ少女の夢見るような横顔。ただ、それだけ──


 打ち上げの音に合わせて、僕の胸にも何かが迫り上がってくる。汗ばんだ肌を撫でる潮風と熱気。それら全てが、湧き起こる欲望に見て見ぬふりをしている僕をせき立てた。その手を伸ばして、目の前にある滑らかな柔肌に触れてしまえ、と。

 しかし、その声に従ってしまったら、僕は確実に大事なもの失うことになるだろう。


 わかっている。それなのに……時折僕を見る美鈴の潤んだ眼差しが、僕だけに向けられているのだという事実に、激しく突き上げるような高揚を抑えきれなかった。

 満ちていく──

 僕の中に、一つの想いが……


 打ち上げの間隔が短くなり、終演が近いことを予感して僕は目を伏せた。派手な破裂音が立て続けに鳴り響き、昼間のような明るさが僕らを包む。しかし、胸を震わせる残響も、空を白く漂う煙も、潮が引くように徐々に薄れていく。


(まだ、終わらないで──)

 そんな願いも虚しく、最後の火花がぱちぱちと音を立てて夜空に消えていった。


 しばらくして静寂が戻ると、僕は目を閉じて深く息を吸った。そして徐に目を開けると、何事もなかったように彼女に目配せをして歩き出した。

 しかし、ふいに背後から聞こえた声に足が止まる。

「──あの」

 振り返ると、手に持った画用紙で顔を隠しながら美鈴が立っていた。


「花火……一緒に見られて……嬉しかった、です」


 その小さく消え入りそうな一言に、心臓がどくりと音を立てた。そして急加速する拍動に全身を揺すぶられながら息を呑む。


 なんと返事をしていいのか、どんな顔をすれば良いのかわからない。ただ下を向いて、苦しいほどの高鳴りを必死に押さえ込んだ。

「──ああ」

 それしか言えない僕を、美鈴は画用紙の端から覗いて目を細める。僕はその視線から逃れるように背を向けると、音もなく光る月を見上げて呟いた。

「僕もだ」


 画材屋に美鈴を送り届け、オヤジと彼女の描いた絵の口裏合わせをしてから店を出た。繁華街を抜けると、もう辺りには何の音も聞こえなかった。宴の後の静けさが、余計うら寂しさに拍車をかけている。


 真っ直ぐに帰る気になれず、静まり返った住宅街を当てもなくぶらぶらと歩いた。月に照らされて、砂利を踏む足元に薄い影が落ちる。

そこに潮の香りのする風が吹き抜けて、ふと足を止めた。

(海へ行こう……)

 そう漠然と思って僕は踵を返した。ここからなら、十五分くらいで着けるだろう。


 ズボンのポケットに手を突っ込み、夜空を見ながら雪駄を引き摺るようにしてしばらく歩いた。少しずつ、空気の中の湿度と潮の濃度が上がっていく。


 ブロック塀に挟まれた海へと続く小道を進み、防砂林を抜けて視界が開けると、そこには黒々とした空間が広がっていた。空と海の区別がつかないその闇の世界で、打ち寄せる波の音だけがそこに海原があることを教えている。


 砂浜にはまだ昼間の熱が残り、素足に掛かる砂から生温い温度が伝わってくる。ざくざくと音を立てて小高い砂丘を登ると、眼下の暗い水面に月の光がぽつんと落ちていた。


 その光景を眺めながら、さっき美鈴と交わした言葉を思い返した。並んで見上げた花火の閃光と共に、美鈴の放った言葉が今も脳裏で強く明滅していた。

 ──一緒に見られて、嬉しかった

 それはどういう意味だったのだろう。単純に綺麗な花火が見られたことが嬉しかったのか。母親が不在の今夜、一人きりで見るよりも誰かと一緒に見られたことが嬉しかった、という意味だったかもしれない。


 それとも「僕と一緒に」見られたことが……?


 そう思った途端、首から上が火が出そうなほどに熱くなって、鼻の頭から汗が吹き出した。

「待ってくれ……」

 まさかと思う反面、そうだったらいいのに、と期待している自分がいる。正直、僕は嬉しかったのだ。二人きりで、美しい夜空の華を見られたことが。

 最早僕の中に、今までとは違う彼女への感情が存在していることを認めざるを得なかった。


 ──恋情


 そんなものを、まさかあの少女に抱くなんて。僕は彼女より九つも歳上で、庇護しなければならない立場の大人だと思っていたのに。


 とは言え、芸術的な美しさは初めから感じていた。大人になりきっていない未熟さと、不安定な心。そこに同居する艶と愁いが、独特な美を滲ませる不思議な魅力をもつ少女。

 画家として、それを紙の上に表現したいと望んでいた。しかし今、彼女自身を自分のものにしたいと思い始めてしまった。僕の色で、まっさらな心を染め上げたいと──


 砂の上に思わずしゃがみ込んで、風に弄ばれる前髪を右手でぐしゃりと握り込んだ。

「畜生……どうすりゃいいんだ……」

 独りごちた言葉が強い潮風に流され、遥か闇の彼方に消えていった。

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