十一 泳ぐように
その後は紗織の仕事の話や上司の愚痴、僕の挿絵の進捗など、他愛もない会話を交わしながら食事を終えた。一段落して、最後に残ったお冷を飲み干すと、徐に紗織が伝票を持って立ち上がった。結露で濡れた指先を慌ててナフキンで拭う。
「今日は私が払うわ。私が誘ったんだし」
「いや、ちょっと待って。女性に払わせるなんて……」
引き止めようとしたが、構わずに先を歩いて行く。すると突然、紗織が振り返ってにこりと笑った。
「そのかわり、また一緒に食事してくれる? その時にはご馳走になるから」
「……わかったよ」
軽くため息を吐きながら返事をすると、「約束よ」と言って会計係に伝票を渡した。
紗織といると、いつもこうして彼女の調子に乗せられてしまう。そうやって、結局最後には紗織の思う通りになってしまうのだ。でも、僕はそれを嫌だと思ったことはなくて、むしろ心地よいとさえ感じていた。
その心地良さが、いつしか恋に変わっていったあの頃──
込み上げる甘やかな懐かしさの中に、ほんの少しの後悔が混じって胸が苦しくなった。あの頃に戻ってやり直せるとしたら、違う今があったのだろうか。
しかし、失いたくない『今』もまた、確実に僕の中に存在している。どちらを取るかなんて、選べるはずもない。
店を出て、駅へ向かう僕と出版社へ戻る紗織が、分かれ道の交差点で立ち止まった。
「じゃあ、ここで。蒔田先生、次の原稿もよろしくお願いします」
おどけたように敬礼をする紗織に苦笑して、僕は頭を掻いた。
「こちらこそ、よろしく頼むよ。おたくの原稿料だけが頼りなんだ」
「わかってます。それじゃ、私もう戻らなきゃいけない時間だから……」
そう言って、彼女が一歩下がる。
「ああ、また近いうちに原稿届けに来るよ」
頷いて小さく手を振る紗織に、僕も軽く手を挙げてその背中を見送った。
人の波の間を、泳ぐように歩く彼女の姿に背を向けると、僕はゆっくりと足を踏み出した。
◇
四日後の午後。アトリエには、向かい合って座る僕と美鈴がいた。
今日は自分で浴衣を着付けたらしいが、初日よりもだいぶ上手くなって、程よく抜けた衣紋が涼しげに見える。
「この前はあまり描けなかったから、今日は頑張ってデッサンを進めるよ。でも、疲れたら遠慮なく言って」
「わかりました」
それきり、しばらく沈黙が続いた。ひたすら鉛筆を動かす僕と黙って座る美鈴。時折視線が交わると、決まって美鈴のほうが少し下を向く。そこで名前を呼ぶと、はっとしたように顔を上げて照れたように頬を染めた。
そんな初々しい反応に、こちらまで面映くなる。こんな表情ができるのは少女時代の特権だ。汚れのない無垢な恥じらいを、大人になるにつれ皆失っていく。
間に休憩を挟みながら、一時間ほど描き続けた頃。少しずつ美鈴の体制が崩れ始めた。
(疲れてきたようだな、そろそろ休憩を──)
そう思ったが、声を掛ける一歩手前で思い留まった。先程までとは明らかに違う美鈴の様子に、思わず言葉を失ってしまったからだ。
椅子に浅く腰掛け、やや前のめりに上体を傾けて首を傾げた彼女の姿勢。膝の上で軽く両手を重ねたその姿は、まるで夢二の絵から抜け出したような、何とも言えない情緒と愁いが漂っていた。疲れからくる気怠さのせいか、無意識に薄く開いた唇から小さな吐息が漏れる。
幼さと色香──相反する要素を一つの身体から溢れさせる彼女から、目が離せなくなった。瞬きの間にも消えてしまいそうなその表情の儚さに、僕の視線は一瞬にして絡め取られてしまった。
今まで見せたことのない、この上なく甘美な美しさを携えた美鈴が、目の前にいる。
この瞬間を逃したくない──
それしか考えられなくなって、気付けば夢中で手を動かしていた。
そのまま
どうかそのまま
消えないで……
白い紙の上があっという間に鉛色に染まる。描き出された少女の姿が、まるで立体のようにふっくらとした丸みを帯び始めた。西から射す光が絵の中にまで差し込んでいるかのように、くっきりとした明暗を宿してその姿を際立たせていく。
芯の減った鉛筆を放り出して、脇机に置いた新しい鉛筆を握り、また紙の上を走らせた。瞳も、唇も、後れ毛の一本一本までもが、僕の感性を嫌と言うほど煽る。うっすらと汗の滲む首筋が、咽せ返るほどの誘い香を放つ。最早他の何も目に入らなくなった僕は、一心不乱に美鈴の姿を写し続けた。
細い芯の先で、繊細な髪の流れを描いていたその時、一瞬指先に力が籠ってしまった。その刹那、うるさいほどに摩擦音をたて続けていた鉛筆が、パキッという音と共に動きを止めた。
……芯が、折れた──?
そう理解した途端、無意識のうちに止めていた呼吸が再開して、思わずむせ込んだ。
「蒔田さん? 大丈夫ですか?」
驚いたような顔で、美鈴が僕を見ている。
「あ……ああ」
呆然とその顔を見返して、ようやく我に帰った。
こんなに没入して絵を描いたのはいつぶりだろうか。自分でも困惑するくらいに夢中になっていた。
「……少し、休もう」
そう言うと椅子から立ち上がって南の窓に歩み寄った。窓枠に手をつき、外の風を感じて大きく息を吸う。張り詰めていた緊張感が緩んで、ようやく肺の中が新鮮な空気で満たされる気がした。
物干し場と室内を仕切る窓は、畳から五十センチほどの高さから天井まである大きな引き違い窓だ。その桟に腰を下ろすと、椅子を降りた美鈴が文机の前の座布団に横座りする姿が目に入った。
「椅子にずっと座っているのも疲れますね。やっぱり、畳の上の方が落ち着く」
そう言って、身体の横に流した足に浴衣の上前を掛け直しながら、机の上に転がっていた色鉛筆を指先で弄び始めた。転がして、摘み上げて、目の前に持っていくとわずかに微笑む。先程までの妖艶なまでの色香は影を顰め、無邪気な少女の顔に戻っていた。
「そうだ、休憩ついでに何か描いてみる?」
そう声をかけると、美鈴が嬉しそうに顔を綻ばせて頷いた。
「何を使いたい? 水彩絵の具もあるし、パステルもある。もちろん色鉛筆でもいい」
「パステルがいいです。今まであまり使ったことがないの。だからやってみたい」
好奇心に満ちた目で僕を見る美鈴に、机の脇の棚から画用紙を一枚取り出して渡し、文机の引き出しを開けるように言った。
「そこにパステルが入ってる。出してごらん」
そっと引き出しを開けて中からパステルの箱を取り出すと、美鈴の顔が薔薇色に染まる。蓋を開けると百色もの鮮やかな色が溢れて、美鈴が小さく歓声を上げた。
「パステル画は学校の授業で少しやっただけだからあまり詳しくはないけど、使い方は難しくない。まずは色鉛筆と同じように描いてごらん。指先で擦ってぼかしたりしてもいい」
そう説明しても、真っ白い画用紙とたくさんの色のパステルを目の前にして、美鈴は戸惑っているようだった。なかなか描き始められない。
僕はその横から手を伸ばして薄い水色のパステルを握ると、躊躇いもなく画用紙に大きな円を螺旋状に描いた。
「え……?」
「紙が真っ白だと、失敗が怖くて描き始めるのに勇気がいるだろ。だから、何でもいいから最初に描きなぐって画用紙を汚すんだ。そうすれば気が楽になる」
驚く美鈴に笑いかけると、彼女も笑って青いパステルを手に取った。
「その紙いっぱいに、何でも自由に描いてみて。美鈴の思うままに」
彼女の手が画用紙の上で大きく動き始めた。初めの戸惑いは何処に行ったのかと思うほど大胆に引かれた線が、彼女の心を映して形を成していく。
自由に、伸びやかに──
違う色のパステルに手を伸ばし、色を重ね、指でくるくると擦って風合いに変化をつける。内側に閉じ込めていた感情を解き放つように、真っ白だった紙がさまざまな色で染められていく。
僕には美鈴が、画用紙の中の海を気持ち良さそうに泳いでいるように見えた。




