十 もう一度
ビルを出ると、真昼の強烈な日差しに貫かれて一瞬気が遠くなった。
コンクリートの塊に囲まれた表通りはサラリーマンが足早に行き交い、車の排気ガスと人いきれでむせ返るほどに空気が澱んでいる。そんなうんざりするような熱気の中を、人混みを避けながら溺れるように歩き、最寄りの駅まであと僅かというところでふと足を止めた。何か大事な物を忘れているような気がする。
「あ……日傘」
ビルの傘立てに忘れてきたことに思い至って、思わず頭を抱えてしまった。
この暑い中を引き返すのは正直嫌だ。けれど、あれは珠万緒さんに返さなくてはならない物だ。置いていくわけにはいかない。
「──戻るか」
自分が悪いとはいえ、わき上がる苛立ちを長い溜息で宥めると、来た道を戻り始めた。
流れる汗をシャツの袖で拭いながら、やっとの思いで出版社のビルに戻ると、ガラスの向こうをよく見もせずにエントランスの扉を勢いよく押し開けた。ところが、そこに運悪く人がいたようだ。咄嗟に飛び退いたその人は、間一髪で衝突を回避したものの声を上げてよろめいた。
「きゃっ」
「あっ……すみません」
言いながら相手をよく見ると、さっき編集部で顔を合わせたばかりの紗織が目を丸くして僕を見ていた。
「紗織──」
「蒔田くん。どうしたの?」
「ちょっと、忘れ物を取りに……」
そう言って傘立てをちらりと見ると、つられて紗織も傘立てを見る。そこには僕が持ってきたもの以外、一本も傘など立っていなかった。
「もしかして、この日傘?」
「──ああ」
「これ、女物……だよね」
僕の顔を見ながら、紗織があっと声を上げた。
「そっか。蒔田くん、恋人と一緒にここまで来たのね。近くに待たせているんでしょ? ごめん、早く行かないと怒られちゃうわね」
紗織が傘立てから日傘を取って、僕に手渡そうとする。
「いや、違うんだ。これは……知り合いの奥さんに借りた物だから、返そうと思って持ってきたんだけど、今日は都合が合わなくて」
日傘を受け取りながら僕は否定した。カラカラになった喉に、ごくりと唾を飲む。
「ふうん、そうなの……」
紗織が上目遣いに僕を見る。少し言い訳がましく聞こえただろうか。
いや、別に彼女に言い訳をする必要なんてない筈なのに、どうしてこんなに焦っているのか。自分でもよくわからないが、背中に一筋冷たいものが流れた。
「じゃあ、これから少し時間ある?」
紗織が首を傾げながら問いかける。手提げバッグを握る彼女の指先に、僅かに力が籠った気がした。
「ああ、別にこの後は予定も無いし」
すると、嬉しそうに顔を綻ばせて僕の腕を掴んだ。
「私、今からお昼休憩なの。よかったら一緒に何か食べない? 久しぶりだし、ゆっくり話がしたかったんだ」
彼女の手が触れている場所から懐かしい温度が流れ込んでくるような気がして、僕の中に熱が籠る。誰かの手に触れられる感触を数年ぶりに思い出したと同時に、最後に触れたのも彼女だったと記憶を手繰って目を伏せた。
「ああ……構わないよ」
そう言うと、嬉々として歩き出す紗織の後に続いて、薄暗いエントランスを後にする。押し寄せる熱気に、額にじわりと汗が滲んだ。
この界隈で食事をしたことのない僕を、彼女が行きつけの店へと案内してくれた。
そこは男一人では入りづらいような、小洒落たパーラーだった。入り口の横に設置されたショーウインドウには、作り物のアイスクリームやクリームソーダと並んで、サンドイッチやスパゲッティなどの軽食も飾られている。
「蒔田くん、オムライス好きだったよね」
僕を見ながらにっこりと笑う彼女に気恥ずかしさを感じて頷くと、パーラーのドアを開けながら彼女が言った。
「ここのオムライス、すごく美味しいからおすすめよ」
窓際の席に向かい合って座り注文を済ませると、二人ともなんとなく押し黙ってしまった。その沈黙が気まずくて、僕は先程から気になっていたことを口にした。
「あのさ、さっき編集部で……偶然じゃないって言ってただろ。あれ、どういう意味?」
僕に向けられた彼女の視線がふっと柔らかくなって、それから窓の外へと移っていく。
「ちょうど地元を出ようと決心した頃にね、たまたま本屋で、あなたの描いた挿絵を見つけたの。確か、当時雑誌に連載していた小説の中の挿絵だった」
頬杖をつき、僕の顔を覗き込むようにして彼女が微笑む。
「その時ね、やっぱり蒔田くんの絵、好きだなぁって思ったのよ。どんなに小さな挿絵でも、絶対に手を抜かずに細部まで描き込んでいて、描くことに真剣に向き合ってるのが伝わってきたの」
思わぬ褒め言葉に、僕は戸惑った。素直に礼も言えない僕に、紗織は構わず言葉を続ける。
「私、そんな真面目なあなたの絵が昔から大好きだった。だから、どうせ東京に出るなら、あなたと一緒に仕事がしたいって思ったのよ。この出版社に入れば、万に一つでも可能性があるかもしれないって。それで出版社の人事部に履歴書を送りつけたんだけと、梨の礫でね」
カラン、と音を立ててグラスの中の氷が揺れる。
「おいおい、随分大胆なことをしたんだな」
「だって、他に方法を思いつかなかったんだもの。でも待てど暮らせど連絡が来なくて。仕方がないから職安の窓口に行って、この会社の求人が出たら真っ先に知らせてくださいって頼み込んだわけ」
そう言って、あの頃と同じ屈託のない笑顔を見せた。
「それでたまたま欠員があって、採用されたってこと?」
「もちろんすぐに欠員が出たわけじゃないわよ。半年くらい待ったかしら。その間はウエイトレスのアルバイトで食い繋いでたわ」
僕は呆気に取られてしまった。出るかもわからない欠員を待って、しかも運良く面接を受けられたとしても採用される保証もないっていうのに──
「まったく……変わらないな。いつもそうやって、どういう訳か望みが叶ってしまうところ。昔から不思議で仕方がなかったよ」
「チャンスは自分から掴みに行くタイプなんです。そのための努力は惜しまないわ」
不敵な笑みを浮かべて得意げに腕を組む紗織が、なんだか眩しく見えた。
彼女が努力家なのは、僕だってよく知ってる。何に対しても一生懸命に努力するから、結果がついてくるんだ。
そう──
絵を描くこと以外にはまるで無頓着で、ともすれば楽なほうに流されてしまいがちな僕とは真逆の性格の彼女に、正論をぶつけられて苛立ったことが幾度もあった。
そこから口論になって、自分が悪いって分かっているから尚更腹が立って……その繰り返しで、ダメになったんだ。
そんなことを思い出しながら、お冷のグラスについた結露が流れ落ちるのを黙って見つめた。蛇行しながら落ちていく水滴が、テーブルまで届くとクロスに吸い込まれて消えていく。幾筋もそれが繰り返されて、クロスには黒ずんだシミが出来ていた。
黙り込んだ僕に、紗織が躊躇いがちに口を開いた。
「ねえ、蒔田くん……私達、もう一度──」
「お待たせいたしました。オムライスでございます」
彼女の声を遮るように、料理を持ってきたウェイトレスが甲高い声を響かせた。
話の途切れたテーブルの真ん中に、黄色と赤の鮮やかなコントラストを描くそれが、軽い音を立てて置かれる。ケチャップの甘酸っぱい匂いが漂って、鼻腔を刺激した。ごゆっくりどうぞと言って下がっていくウェイトレスを見送って、再び彼女に視線を戻す。
「もう一度……?」
口を引き結んだまま、湯気を立てるオムライスを見据える紗織に、僕は問いかけた。
「──何でもない。さ、あったかいうちに食べよう?」
彼女は笑顔でスプーンを手に取ると、ケチャップのかかった膨らみの中央に徐に差し入れた。
喉の奥に何かが詰まったように何も言えなくなった僕は、スプーンの中に逆さに映る歪んだ自分を一瞥し、それから黄色い楕円の端を大きく抉り取る。ぶわりと立ち上がる湯気が、僕の額にべたついた汗を浮かばせた。




