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第08話:最悪の癒しのスープと、黒騎士の孤独な戦い

 王宮の大広間で浴びた、貴族たちの陰惨な悪意のざわめき。


 それは、私の精神を泥のように削り取っていた。


 あてがわれた王宮内の自室。


 豪華な天蓋付きのベッドに身を沈めても、耳の奥で彼女らの嘲笑がこびりついて離れない。


(……国庫横領の身代わり名簿……「あの計画」……)


 カスラッテの冷酷な声が鮮明に蘇り、私は毛布を頭から被って小さく震えた。


 どれほど強がっても、私は一度処刑されたただの令嬢だ。

 恐怖は、そう簡単には拭い去れない。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いた。


「おい、さっさと扉を開けろ。一生そのまま引きこもっているつもりか」


 扉の向こうから聞こえてきたのは、少しぶっきらぼうな言葉。

 だが、その声の裏には一切の悪意が存在しない。


 まるで凪いだ湖面のような、澄み切った無音が広がっている。


「……レオン様」


 私は重い体を起こし、そっと扉を開けた。


「遅い。お前のような鈍間には、この不味い毒スープでも食わせてやる」

(訳:遅くまで起きていて大丈夫か? 栄養満点の特製スープを作ってきたんだ、食べて元気を出してくれ)


 顔を赤くして悪態をつくレオン様の手には、銀のトレイに乗せられた湯気の立つスープ皿があった。


 具沢山の野菜と、柔らかく煮込まれた肉。

 王宮の厨房を借りて、わざわざ深夜に作ってきてくれたのだ。


 漂ってくる優しい香りに、張り詰めていた心がふっと解ける。


「……ありがとうございます。とても、いい匂いです」


 私はスープを一口飲んだ。

 野菜の甘みと肉の旨味が、冷え切った胃の腑に染み渡っていく。


 五臓六腑が歓喜の声を上げるような、完璧な味付け。


「美味しい……本当に、美味しいです」


 自然と涙が溢れた。


 悲しいからではない。

 四方八方から突き刺さる悪意の刃から、彼がもたらす『無音の優しさ』が私を完全に守ってくれているからだ。


「……もっと泣け。俺の飯を食って、ずっと絶望していればいい」

(訳:泣かないでくれ……君が笑顔になってくれるなら、俺は毎日でも飯を作るから)


 レオン様は不器用に私の頭を撫でようとして、直前で手を引っ込め、また顔を赤くしてそっぽを向いた。


 彼の不器用な優しさに触れ、摩耗していた私の精神は嘘のように回復していくのを感じた。


 この温かい静寂を守るためなら、私はどんな悪意にも立ち向かえる。


   ◇ ◇ ◇


 【ギルバート視点】


 翌日、王都の賑やかな商業区。


 雑踏の中、外套を深く被ったギルバートは、路地の暗がりから獲物を冷徹な銀色の瞳で見据えていた。


 商会の大きな建物の入り口。

 そこから出てきたのは、豪奢なドレスに身を包んだカスラッテ・ズール伯爵令嬢だった。


(十中八九、罠だな。……だが、好機には違いない。これで終わらせる)


 俺の思考は、純白の狂気の中で氷のように冷たく澄み切っている。


 エリスを害する者は、例外なく歴史ごと焼き尽くす。

 それが俺の絶対的な行動原理だった。


 あの時、王宮の天井裏で得た情報が正しければ……彼女と第一王子ダストンは『魔法障壁の首飾り』という国宝級の魔具をそれぞれ所持しているはずだ。


 それは、いかなる物理・魔法攻撃も1度だけ完全に無効化する厄介な代物だ。


(まずは、障壁を消費させる)


 俺は指先で小さな石を弾いた。

 放たれた石は空気を切り裂き、正確にカスラッテの頭部を狙う。


 パキィィン!! 


 空中でガラスが割れるような甲高い音が響き、カスラッテの周囲に展開された不可視の障壁が石を弾き落とした。


(……剥がれた)


 俺は一切の躊躇なく、路地の暗がりから弾かれたように飛び出した。


 王国最強と謳われた圧倒的な身体能力。

 瞬きする間に彼女の背後に接近し、外套の下から抜き放った長剣を無防備な首筋へと一閃する。


 勝利を確信した、次の瞬間。


 ガギィィィィン!! 


「……なっ!? 」


 俺の剣は、彼女の首に触れる寸前で、再び展開された強固な光の壁に弾き返された。


 それだけでなく、障壁は理を外れた圧倒的な反発力を放ち、俺の体を路地裏のレンガ壁まで激しく吹き飛ばした。


「ぐっ……あ……っ! 」


 全身の骨が軋むような衝撃。

 肺から空気が強制的に追い出され、俺は地面に崩れ落ちた。


 痺れて動かない手足。立ち上がることができない。


「うふふふ。あらあら、随分と乱暴な野良犬ですこと。……ギルバート様」


 もうろうとする視界。立ち込める土煙の向こうから、カスラッテが優雅な足取りで近づいてきた。


 その手には、もう1つのペンダントが握られている。


(まさか……第一王子ダストンが身につけるはずの……っ! )


「うふふ……このペンダントの反動魔法は、知らなかったでしょ? 無理もありませんわ。古代の迷宮から回収された国宝ですものね。効果が1回しかないと、わざと喧伝していた甲斐がありましたわ」


 血を吐きながら呻く俺を見下ろし、カスラッテは扇で口元を隠して嗤った。


(……この女。国宝級の魔具すら使い捨てにするのか)


「わたくしのようなか弱き乙女が、何の備えもなしに単身で出歩くはずがないでしょう? 投石で1回の効果を消費させてからの攻撃も、す・べ・て、計算通りですわ」


 彼女はさらに一歩踏み込み、冷酷な光を瞳に宿した。


「それにね、あなたが暗殺者として動いていることなんて、わたくし最初から存じ上げておりましたわよ。お父様と一緒だった御者の方を丁寧におもてなししたら、色々と教えてくださいましたのでね」


(……御者の男を拷問して殺したのか)


 彼女の狡猾な知略と残忍さに、俺はかつてないほどの戦慄を覚えた。


 力でねじ伏せられる相手ではない。

 こいつは、純粋な悪意と底知れぬ悪知恵を持った化け物だ。


「今度はギルバート様も、わたくしが丁寧におもてなしして差し上げますわよ。……影よっ」


 カスラッテが扇を軽く振ると、彼女の背後、どこからともなく漆黒の装束に身を包んだ「影」たちが集い、音もなく現れた。


「この野良犬を例の秘密屋敷へ連れて行きなさい。……この男の裏で糸を引いているのが誰なのか、たっぷりと時間をかけて吐かせてあげますわ」


 勝ち誇るカスラッテの冷酷な声が、路地裏に響き渡った。

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