第07話:王宮という名の戦場と、逆さまのプロポーズ
昨日の惨劇の余韻が色濃く残る、重苦しい早朝。
ミレーヌ子爵家の庭先に、白馬が引く豪奢な馬車が止まった。
車体に燦然と輝くのは、絶対的な権力を象徴する「王宮の紋章」。
庭に整列した近衛騎士たちの重い足音が、静まり返った屋敷に不吉な響きをもたらす。
「ミレーヌ子爵! 国王陛下よりの急使である! ただちにエリス令嬢を伴い、王城へ参内せよ!」
規律の取れた冷徹な声が響き渡った瞬間、窓の外を窺っていた父様はその場にへたり込んだ。
「……ああっ、ついに没落の宣告……いや、処刑かもな。無理もない……昨日、第二王子殿下は我が家であれほどの血を流し、傷を負われたのだから」
父様の顔面は蒼白に染まり、全身が小刻みに震えている。
王国最強の騎士団長が第1級反逆罪で捕縛されるという前代未聞の大事件が、この貧乏子爵家を舞台に起きたのだ。
王家が私たちを許すはずがないと、父様は死を覚悟したような目で虚空を見つめている。
(……処刑)
その単語に、私の背筋を氷のような悪寒が駆け抜けた。
死に戻る直前、冷たい断頭台で味わったあの絶望が、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏を焼き尽くす。
だが、死に戻り前の記憶と照らし合わせても、こんな展開は一度もなかった。
運命の歯車が、私の知らない凄まじい速度で狂い始めている。
「お父様。ここで震えていても、誰も助けてはくれません。……行きましょう」
私は自身の震える両手を強く握り締め、腹を括って立ち上がった。
◇ ◇ ◇
王宮へと向かう馬車の中で、父様の分厚い手は膝の上で微かに震えていた。
普段の質素な身なりとは違う、急ごしらえの立派な礼服。
その窮屈そうな襟元を何度も引き下げながら、父様は力なく私を見つめた。
「すまない、エリス……。私に甲斐性がないばかりに、お前まで処刑台へ送るような真似をさせることになってしまった。……本当に、すまない」
絞り出すような父様の言葉に、私は胸が締め付けられる。
私には、他人の悪意が聞こえる。
だからこそ分かる。
父様の心の中には、打算も保身も欠片ほども存在しない。
ただ不甲斐ない自分を責め、娘の命を案じる『無音の愛情』だけが、そこにあった。
「お父様。私は、自らの意思で王宮へ行くのです。どうかお顔を上げてください。私は、死ぬつもりなんてありませんわ」
私は、震える父様の手をそっと握り、静かに微笑んだ。
◇ ◇ ◇
王座の間は、威圧的な静けさに包まれていた。
大理石の床に膝をつく私たちを見下ろすのは、豪奢な玉座に腰掛けた国王陛下。
そしてその傍らには、首元に白い包帯を巻き、落ち着きなく視線を彷徨わせるレオン様が立っていた。
「面を上げよ、ミレーヌ卿。そしてエリス嬢」
低く威厳のある声。
国王陛下から告げられたのは、予想を遥かに裏切る、第二王子レオン様と私の正式な婚約要請だった。
我が家の負債の肩代わりと、領地への多額の援助。
さらには幼い弟たちの修学支援という、貧乏子爵家には分不相応なほど破格の条件が並んでいた。
それは、断罪を覚悟していた父様にとって、信じがたい慈悲の言葉であった。
喉から手が出るほど欲しい提案だろう。
だが、隣にいる父様の呼吸が、微かに荒くなった。
「陛下……恐れながら、申し上げます」
父様が、床に額を擦りつけるほどの深い平伏から、震える声を振り絞った。
「どうか、娘の……エリスの意思を尊重してはいただけないでしょうか。いかに王命とはいえ、親の都合でこの子の幸せを奪うわけには参りません」
それは、不敬罪で首を刎ねられてもおかしくない、命懸けの直訴だった。
玉座の間に、冷たい刃を突きつけられたような張り詰めた空気が満ちる。
次の瞬間。
「……っ、エリスとお義父上!」
弾かれたように王座の傍らから飛び出したレオン様が、私の目の前で勢いよく膝をついた。
そして、私の両手を縋るように強く握りしめる。
蜂蜜色の前髪から覗く青い瞳には、ボロボロと大粒の涙が溢れていた。
「俺は、エリスのことなんて一生大事にしません! 絶対に幸せにしないし、俺の隣で後悔させてやります……っ! だから、お願いです、俺と……っ!」
(訳:一生、俺のすべてを捧げてあなたを愛し、守ります。どうか、俺の隣にいてください……!)
痛々しい掠れ声で叫ぶ彼の言葉は、静まり返った王座の間で激しく震えていた。
不器用で、ひたむきで、私を失うことを何よりも恐れる、温かな祈り。
私は、震えるレオン様の手を、両手でしっかりと握り返した。
誰もが耳を疑うような、王族らしからぬ無様な求婚。
けれど、私にとっては世界中のどんな美しい愛の言葉よりも、誠実なものだった。
「謹んで、お受けいたします」
私が微笑むと、レオン様は「最悪だ!」と叫びながら、顔を覆ってさらに大声で泣きじゃくった。
「良かったな、レオン。こうして泣き喚いて、君を婚約者にしないなら家出して二度と帰らない、伝説の勇者になると言って聞かなくてね。父親として、実に頭が痛い問題だったのだよ」
呆れたような響きの中に、息子への確かな愛情が滲んでいる。
すると、玉座の上でレオンの様子を見て微笑んでいた国王陛下が、身を乗り出した。
一転して、国王陛下は氷のように冷徹な声となった。
「――しかし、ミレーヌ卿。喜んでばかりもいられぬ」
落差の激しい、地を這うような重苦しい声。
「ギルバート・カーライルが、昨夜……牢獄から姿を消した」
その言葉に、室内の温度が数度下がったような錯覚を覚えた。
父様の肩が、びくりと跳ねる。
「脱獄……、あの鉄壁の牢からですか……?」
「ああ。素手で鉄格子をねじ伏せたようだな。……奴が向かう先は、ただ一つ。エリス嬢、君の元だろう」
国王陛下は鋭い視線を私に向け、有無を言わさぬ口調で続けた。
「エリス嬢。君にはこのまま王宮に留まってもらう。レオンの妃としての教育を受けるという名目で、王宮内に部屋を用意した。……レオンの隣の部屋だ。そこであれば、余の近衛が常に君を匿うことができる」
レオン様の隣。
その言葉に、泣きじゃくっていたレオン様が「絶対に来るな!」と顔を赤くして叫んでいる。
「それから、ミレーヌ卿。君の邸宅にも、余から最高級の警護を付ける。……奴は常軌を逸している。いつ闇から牙を剥くか分からん。ゆめゆめ、用心を怠るな」
国王陛下の警告は、重く、切実だった。
彼がもたらすであろう、すべてを焼き尽くすような「静寂」の恐怖を思い出し、私は背筋が凍るのを感じた。
◇ ◇ ◇
謁見を終え、大広間へと続く長い回廊を歩きながら、私は深く息を吐いた。
そんな私の前方に、数人の令嬢を引き連れた「主」が現れた。
豪奢な金髪を揺らし、絹の擦れる音さえも傲慢に響かせる女性――カスラッテ・ズール伯爵令嬢。
彼女の姿が視界に入った瞬間、私の心臓が嫌な跳ね方をした。
一度目の人生で、私を拷問し、罪を着せ、処刑台へと追いやった張本人だ。
私は恐怖のあまり息が止まり、反射的に視線を床へと落とした。
直視できない。
彼女の顔を見るだけで、かつて奪われた喉と耳の痛みが蘇る。
すれ違いざま、彼女の香水の甘い香りが鼻を突いた。
「……エリス? どうしたんだ、急に立ち止まって。顔色が真っ青だぞ」
不安そうに私の顔を覗き込む父様の声が、静かな回廊に小さく響いた。その時、すれ違いざまのカスラッテの歩みが、ほんの一瞬だけ、淀んだ。
(……随分と身なりの貧しい方がいるのねぇ。はて、エリス?)
脳を直接抉るような、不快な高音の「悪意」が聞こえてきた。
(そう言えば、第二王子の婚約者が決まったと騒ぎになっていたけれど……あの子なのね。ふふふ。国庫横領の身代わり名簿、お名前順の目録の1番上に、そんな名前の子がいたわね)
彼女の思考は、優雅な微笑みとは裏腹に、氷のように冷酷に回転していく。
(「横領の犯人」にするだけのつもりだったけれど……。これなら「あの計画」の主犯に仕立て上げたほうが、第二王子共々、まとめて一網打尽にできて効率的ね。わたくしって天才。向こうから死に場所へ来てくれるなんて、最高だわ)
「……っ!!」
あまりの禍々しい思考の「音」に、私は全身の血が引いていくのを感じ、激しく震え出した。
今度は私だけでなく、レオン様まで不幸にしようとしている。
「エリス? どうしたんだ、そんなに青い顔をして……」
父様が心配そうに顔を覗き込む。
その温かな手に触れ、私はハッと我に返った。
そうだ。
私は、一度死んだのだ。
彼女がどれほど残酷で、どれほど狡猾か、私は身をもって知っている。
そして今の私には、彼女の隠した牙がすべて聞こえている。
「大丈夫です、お父様……」
私は震える拳をドレスの裾の中で強く握りしめた。
二度も、同じ結末にはさせない。
ギルバートの執着も、カスラッテの毒牙も。
レオン様を守るためなら、私はこの「悪意」を道標に、どんな戦場でも生き抜いてみせる。
恐怖で震えていた心に、静かな、けれど決して消えることのない反逆の炎が灯った。
◇ ◇ ◇
重厚な扉が開かれ、私たちは社交の場である大広間へと足を踏み入れた。
きらびやかなシャンデリアの光に目を細めた瞬間。
――鼓膜を破るような、強烈な轟音が私の脳を直接殴りつけた。
(品の無いお顔ね。分際を弁えなさいな)
(可哀想に。何も知らない生贄が来たわ)
四方八方から突き刺さる、好奇と嘲笑、そこで陰惨な悪意の不協和音。
あまりのノイズの量に強烈な目眩を覚え、私はふらりと体勢を崩した。
「この役立たず! 俺から離れるな!」
相変わらずの暴言を吐きながらも、私の手を握るレオン様の瞳は、ボロボロと涙を流したまま真っ赤に腫れていた。
繋いだ手から伝わってくるのは、彼特有の、波一つない澄み切った静寂。
ここは戦場だ。でも、もう一人ではない。
私は彼の手を強く握り返し、まっすぐに前を見据えた。
予想外の求婚を経て、二人はついに王宮という名の戦場へ足を踏み入れました。
迫り来る脱獄囚の恐怖と、蠢く令嬢たちの陰惨な悪意。
決して退かないと決意したエリスの反逆が、ここから幕を開けます。
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