第06話:黒騎士の誕生
冷酷な銀の軌跡が、レオン様の首筋へと吸い込まれていく。
間に合わない。
声も、手も、届かない。
このままでは、私の唯一の救いである彼の温かい静寂が、永遠に失われてしまう。
――嫌だっ!!
「やめてええっ!!」
張り裂けるような私の絶叫が、狭い台所に響き渡った。
ピタリ、と。
私の悲痛な声に反応し、レオン様の白磁のような肌を薄く傷つけ、一筋の赤い血を滲ませたところで、ギルバートの剣が不自然に静止した。
「エリス……?」
振り返ったギルバートの銀色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。
彼が一瞬の隙を見せた、その時。
私の視界の端に、先ほどレオン様がまな板に叩きつけた包丁が映り込んだ。
迷う余地などなかった。
私は無我夢中で身を乗り出し、その柄を力任せに掴み取った。
あるいは、生かされたまま自由を奪われる。
そして、冷たい刃先を、躊躇いなく自身の喉元へと突き当てる。
「それ以上レオン様に近づくなら、私は今すぐここで死にます!」
「エリス……っ、やめなさい、お願いだ!」
隅で震えていた父が、掠れた悲鳴を上げて這い寄ろうとする。
しかし、騎士団長の放つ圧倒的な圧と、実の娘が自らに刃を向けるという異常事態に、父はそれ以上近づくことすら叶わず、ただ祈るように手を合わせることしかできなかった。
震える両手で柄を握りしめ、刃をさらに喉へと押し当てた。
チリッとした痛みが走り、首筋からツーッと生温かいものが伝い落ちる。
沈黙の中、ギルバートの銀色の瞳が、私の喉元からスッと下がった。
私の震える両腕へ。
そして、床にへたり込む両脚へと、品定めするように冷徹に這わされる。
――手足を奪えば逃げられない?
気絶させて連れ帰れば治療できる?
悪意の濁りなど欠片もない。
ただ純粋な『保護』の手段として、私の四肢を切り落とす冷酷な道筋を導き出している。
背筋を這い上がるような、悍ましいまでの無音の狂気に、私の歯の根がカチカチと鳴った。
私を生かしたまま、心を殺して、鳥籠に閉じ込める。
かつての信頼が、逃げ場のない絶望へと塗り替えられていく予感に、私はきつく目を閉じた。
その瞬間だった。
「……あ、…………ぅ、……っ!!」
背後で、床に伏していたレオン様が激しく咽せ込んだ。
口の端から鮮血を溢れさせ、胸をかきむしるようにして悶絶している。
その体から、どす黒い瘴気のようなものが噴き出した。
魔女の呪いが、彼の「本心」を握りつぶそうと物理的な圧力となって襲いかかっているのだ。
しかし、その呪いの泥を押し返すように、彼の内側から清廉な光が立ち昇る。
呪いの黒。そして、彼の意志が放つ白。
相反する二つの力が激しくぶつかり合い、バチバチと火花を散らす。
レオン様の喉は内側から破壊され、血の混じった涙が床に滴る。
それでも彼は、どこか幼さの残る顔を執念で歪ませ、透き通るような青色の瞳を剥き出しにして、呪いに抗い続けていた。
ギルバートは、その怪異とも呼べる光景に息を呑んだ。
「レオン様……!? もういいんです、言わないで!」
彼が何を言おうとしているか、私には分かる。
天邪鬼な暴言で私を突き放そうとしているのではない。
彼は今、命を削ってまで、その先にある「真実」を掴み取ろうとしている。
ギルバートの瞳に、初めて狼狽の色が走った。
絶対であるはずの魔女の呪縛が、一人の男の執念によってひび割れていくその光景は、理を重んじる彼にとって理解を超えた現象だった。
「エリス……っ、だ……めだ。し……なないで……!!」
レオン様が、血の混じった涙を流しながら、這いずるように手を伸ばす。
色白の頬を伝う赤が痛々しい。
けれど、その青色の瞳は、かつてないほど鮮明に、ただ私だけを映し出していた。
「エリス……っ、あ……い……して……る」
世界が、止まった。
それは、翻訳など必要のない、あまりにも真っ直ぐで透明な『真実』の声だった。
呪いを、理を、魔女の法を、一瞬だけ愛が超越した奇跡の響き。
呆然としたまま、血を吐いて喋ろうとするレオン様の姿を見つめていたギルバートの銀色の瞳が、私の喉元から離れた。
カラン……。
虚しい音を立てて、長剣が滑り落ちた。
「……ありえない。魔女の呪いを、意思の力で……書き換えたというのか……?」
エリスの安全という『論理』で動いていたギルバートの計算が、目の前の『奇跡』によって完膚なきまでに打ち砕かれた。
沈黙の中、レオン様の荒い呼吸だけが響く。
「……くそっ」
吐き捨てるような低い声。
完璧な彫刻のようだったギルバートの顔が、見たこともないほど苦痛に歪んでいた。
「……できない。君を、傷つけたくない……っ!」
彼は、まるで自分自身の心を切り裂いたかのような顔で、膝を突いた。
ギルバートは、足元に転がる自身の誇りであったはずの長剣を一瞥し、静かに目を伏せた。
「……分かった。俺の負けだ。その刃を下ろしてくれ」
どこまでも穏やかで、氷のように冷たい、けれど敗北を認めた男の声だった。
「衛兵さん、こっちだよ! 早く、姉様を助けてっ!!」
その時、開け放たれた玄関から幼い双子の弟たちの、必死に助けを求める叫び声が響いた。
事態を察した彼らが、夢中で表へ走り、衛兵を呼び寄せてくれたのだ。
直後、武装した衛兵たちが雪崩れ込んできた。
「ギルバート騎士団長! 第一級反逆罪の容疑で拘束する!」
数人の衛兵がギルバートを取り囲み、重い手枷をはめる。
だが、彼は抵抗するそぶりすら見えず、ただ静かにそれを受け入れた。
「エリス」
連行される直前、ギルバートは一度だけ振り返り、私に微笑みかけた。
「君の望み通り、この光の当たる場所からは身を引こう。……どうか、健やかに」
その笑みに潜む底知れぬ静寂に、私は全身の粟立つような恐怖を覚えた。
彼は決して、私を諦めたわけではない。
光の当たる場所では守りきれないと悟った彼の心が、より深く、昏い闇へと沈んでいくのを感じた。
◇ ◇ ◇
ギルバートが連れ去られ、衛兵たちが去った後の台所には、静寂だけが残された。
「ああ、エリス……レオン様……っ!」
父が転がるように駆け寄り、震える手で私たちの無事を確認する。
手から力が抜け、包丁が床に転がり落ちる。
張り詰められていた糸が切れ、私はそのままその場にへたり込んだ。
「……っ!!」
強い力で肩を引き寄せられた。
レオン様が、床に座り込んだ私を抱きすくめていた。
呪いを超越した反動か、彼の喉からはまだ微かに血の混じった喘鳴が漏れている。
「お前が、無事で最悪の気分だ!」
口から飛び出すのは、再び呪いに囚われた天邪鬼な言葉。
けれど、私の肩口に押し当てられた彼の顔からは、ボロボロと大粒の熱い涙が零れ落ちていた。
震える声で叫ぶ彼の心からは、一切の悪意が聞こえなかった。
ただ、私を失うかもしれなかったという圧倒的な恐怖と、無事であったことへの深い安堵だけが、温かな静寂となって私を包み込んでいる。
「……ごめんなさい、レオン様。……ありがとうございます」
私はそっと手を伸ばし、彼の背中に回した。
蜂蜜色の短髪が、私の指先をくすぐる。
先ほど彼が命を削って響かせた『愛している』という言葉だけは、今も私の胸の中で、消えることのない灯火となって輝き続けている。
この温かい静寂を、今度こそ絶対に手放してはいけない。
私は彼の腕の中で、静かにそう誓った。
◇ ◇ ◇
【ギルバート視点】
王宮の地下深く、冷たく湿った牢獄。
窓ひとつない石造りの独房の中で、ギルバートは冷たい床に座り込んでいた。
両手足には重い鉄の鎖が繋がれているが、彼の表情には焦りも絶望もなかった。
『光の当たる場所では、彼女を完全に守り抜くことはできない』
あの時、彼女が自身の喉元に刃を当てた瞬間、ギルバートの中で一つの結論が弾き出されていた。
法や倫理、騎士としての誓い。
そんな表の世界のルールに縛られている限り、第一王子や財務大臣の娘のような「悪意」から彼女を守ることは不可能なのだと。
「……ならば、俺が闇になればいい」
低く、甘い呟きが独房に響いた。
愛する彼女が望むのなら、表舞台から姿を消そう。
そして、「法の外」から、彼女に群がる害虫を歴史ごと焼き尽くす。
彼女の視界に入らない暗闇の中で、永遠に彼女の平穏を守り続ける「黒騎士」となればいい。
ギルバートは静かに立ち上がると、両腕に繋がれた鎖を軽く引き絞った。
メキッ、という鈍い音と共に、壁に埋め込まれていた強固な鉄の金具が、あっけなく根元から引き抜かれた。
王国最強と謳われる彼の力をもってすれば、こんな鎖など、最初から何の枷にもなっていなかったのだ。
「待っていてくれ、エリス」
分厚い鉄格子の扉を、素手で紙のようにねじ伏せる。
「君の敵は、俺がすべて排除する。……誰にも、邪魔はさせない」
無音の狂気を纏った氷の騎士団長は、彼を縛るにはあまりにも脆い牢獄を抜け出し、音もなく夜の闇へと消えていった。
死を覚悟して愛を叫んだレオン様の姿に、魂が震える思いです。
闇に消えたギルバートが、これからどのような牙を剥くのでしょうか。
一つの区切りまでお付き合いいただき、本当にありがとうございます。
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