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電界特捜 電現室-DENGENSHITSU- ―喪失戦線―  作者: 不治痛
case2 ハイ・ソサエティ
9/22

ハイ・ソサエティ/01

    インター・ヴァーチュア

    コトブキ 白金区画 料亭「翠月」

    ヴァーチュア時間 Cycle-34/21:20

    現実時間 2023年3月17日 午後10時40分

    志賀透 接続中 経過 現実1時間10分/仮想現実2時間20分


 障子の向こうに、月が出ていた。

 もちろん、本物ではない。この料亭が客のために吊るした月で、満ちも欠けもしない。


 三味線が鳴っている。芸者のアバターの白い指が、弦の上を正確に往復していた。


 床の間を背にした上座で、局長の能勢正臣が、上機嫌で杯を干した。


「いやぁ、こっちの酒は、いくら飲んでも次の日に残らんのがいい」


 座がどっと沸いた。

 志賀透は末席で、一拍遅れて笑った。


 入省六年目。今夜は局長の随行で、鞄を持ってきただけの身だ。

 ログインの機材も、今夜のために役所が用意したものだった。

 向こう側に入るのは、これで三度目になる。


(……場違いだよな、俺)


 畳の目が細かすぎる。椀から立つ湯気が、本物より本物らしい。

 そういうものの一つ一つに、志賀はいちいち気後れしていた。


 上座では、さっきから同じ話が回っていた。


「現場の時間の数え方の件、どうか、よしなに」


 請負の大手の渉外、鷺沼慶介が、徳利を傾けながら言う。

 今夜の接待の仕切り役だ。


「仮想(こっち)で十六時間働いても、現実(むこう)では八時間です。 現実(むこう)の時計で数えていただければ、それで、みんなが助かるんです」


「わかってる、わかってる。 四月には、ちゃんとなる」


 能勢は面倒くさそうに手を振った。

 志賀には、それが誰を助ける話なのか、よくわからなかった。

 わからないまま、局長の空いた杯に酒を注いだ。


 鷺沼が、座の真ん中まで膝を進めた。


「局長。 本日は、特別な余興をご用意しました」


 座の全員の手元に、小さな光が浮かんだ。

 白いカプセルの形をした、アイコンだった。


「出先の作業員が使っております、疲れ止めでございます。 もっとも、こちらは特別に調合したもので」


 鷺沼は、声を落とした。


「現実(むこう)の一時間で、仮想(こっち)では二時間効きます。 ……お疲れでしょう、局長」


 能勢が笑って、指先でアイコンに触れた。

 課長が、審議官が、それに倣う。

 志賀も、触れた。


 首の付け根が、じんわりと温かくなった。


 次の瞬間、世界の色が一段、明るくなった。

 月が近い。三味線の一音一音が、胸の奥で鳴る。


 隣の課長のつまらない冗談が、腹がよじれるほどおかしい。

 入省してから一度も感じたことのない、混じりけのない、しあわせだった。


(……ああ。 これか)


 何が「これ」なのか、自分でもわからなかった。

 わからなくても、よかった。


 能勢の笑い声が、ひときわ高くなった。

 高く、高く――止まらない。

 笑った顔のまま、能勢の輪郭が、端から砂のようにほどけはじめた。


 強制排出(イジェクト)――。


 頭のどこかでその言葉が浮かんだが、遠い国の言葉のように、意味を結ばなかった。


 課長がほどけた。

 その隣の審議官も、笑ったまま、ほどけた。

 三味線は鳴り続けている。


 月は、白いままだ。


 怖くはなかった。

 しあわせだったから。


 志賀の視界が、端から白く溶けていった。



    港区の高級ホテル 会員用ログイン・スイート

    東京都港区

    2023年3月17日 午後10時42分


 並んだシートの上で、体が跳ねた。


 一つ、また一つ。

 ヘッドギアをつけたままの能勢の胸が、下から突き上げられたように弓なりに反り、口の端から、黒っぽい血があふれた。

 ホテルの係員が、悲鳴を上げた。


 鷺沼慶介はヘッドギアを外したばかりの青い顔で、その光景を見ていた。

 自分だけは、アイコンに触れていない。


 接待の仕切り役は、酔わないのが仕事だ。


「救急車を!」


 駆け寄ろうとする係員を、鷺沼は片手で制した。

 背広の内ポケットから、携帯電話を取り出す。指は震えていたが、押す番号に迷いはなかった。


 救急の三桁ではない。


「……鷺沼です。 翠月の件で」


 短い間をおいて、鷺沼は言った。


「先に、上へ」


 電話を切ってから、ようやく係員にうなずいた。


「――救急を」


 部屋の隅のシートで、いちばん若い男だけが、まだ笑っているような顔で眠っていた。



電界特捜

電現室-DENGENSHITSU-

―喪失戦線―


ケース2 ハイ・ソサエティ



    イベント会場

    東京都江東区

    2023年3月18日 午前10時30分


 シャッターの音が、雨のように降っていた。


 広い展示場の壁際に、撮影の列が三重に折れ曲がってできている。

 その先頭で、華園夏菜子は黒い羽根を広げた。


 夜色のドレスは背中が腰の近くまで大きく開いている。

 胸元には、月をかたどった銀の飾り。

 目尻から頬にかけて、夜空の粉のようなラメ。

 手には、先端に三日月をあしらった魔法のステッキ。


 『きらめき☆ステラ・ハーツ』第二十四話から現れた、敵の新しい幹部――宵闇のリリス(リリスさま)。


 日曜の朝、女の子たちのための三十分に、ある日いきなり現れて、大きなお友達の心を根こそぎ持っていったお姉さんだ。


「リリス様、目線お願いします!」


「こっちもお願いしまーす!」


 華園はステッキを肩に担ぐように構え、顎を引いて、流し目を送った。


「――光の子たち。 夜は、まだ始まったばかりよ」


 列が、どよめいた。


 列の後ろの方で、男たちがひそひそと言い合っている。


「これが日曜の朝に流れてた意味が、いまだにわからん……」


「BBA結婚してくれ」


「おい、リリス様は二十七歳設定だぞ。 BBA言うな」


 華園は聞こえないふりをして、ちゃんと聞いていた。口の端が、勝手に上がる。


 徹夜で縫い上げた衣装だった。

 羽根の一枚一枚に針金を通し、ドレスの裾には、夜空に見えるよう細かいラメを散らした。


 二月の終わりから、仕事の合間を盗んで、少しずつ。

 その全部が、今、ちゃんと届いている。


 列の脇から、小さな女の子が、母親に背中を押されて出てきた。

 主人公の光の子の、手作りの衣装を着ている。


「……リリスさま、わるいひとなのに、きれい」


 華園はしゃがんで、女の子の目の高さに合わせた。


「ありがと。 光の子も、すっごく似合ってる」


 母親のスマートフォンに、二人で収まった。

 女の子は頬を真っ赤にして走っていった。


(……あー、楽しい)


 ここでは、ほとんど誰も、彼女の本当の名前を知らない。


 職業も、肩書きも知らない。

 知っているのは、界隈でそれなりに名の知れた一人のレイヤーと、夜色のドレスと、宵闇のリリスだけだ。

 それでよかった。こういうときがいちばん、自分でいられる。


 次のポーズのために、視線を列の奥へ流したとき――。


 場違いなものが、立っていた。


 紺のジャケット。短く刈った髪。背筋の伸びた立ち姿。

 ハート形の杖や、色とりどりの羽根や、猫耳に四方を囲まれて、その男の顔は、見たことがないほど引きつっていた。


 百田多聞だった。


(……は?)


 華園はステッキを下ろした。


「ごめんなさーい! 列、切りまーす!」


 列から悲鳴が上がり、それから拍手が起きた。

 華園は手を振りながら、ヒールで人波を縫って、まっすぐ百田の前まで歩いていった。


「なんでいるの」


「電話がつながらないので、来ました」


 百田は華園の顔だけを見ていた。

 首から下を、頑として見ないようにしているのがわかった。


「室長が呼んでます。 事件です」


「今日、休みなんだけど」


「事件です」


「……電源、切ってたのに。 なんでここがわかったの」


 百田は答えず、右手を上げた。

 まず、天井の隅の、黒い半球の監視カメラを指さす。

 それから、その指を、まっすぐ上へ向けた。


 華園は指の先を見上げた。

 展示場の鉄骨の天井。


 その向こうの、見えない空。


「……顔認証と、衛星?」


 百田の表情は、変わらなかった。


「プライバシーの侵害よ、それ」


「自分に言われても」


「じゃあ、誰に言えばいいのよ」


 百田の指は、もう下りていた。



    首都高速道路 湾岸線

    2023年3月18日 午前11時20分


 後部座席で、衣擦れの音がしていた。


 百田はハンドルを握ったまま、ルームミラーの角度を、指一本ぶんずらした。

 何も映らないように。


 ファスナーの下りる音。

 羽根を外す、乾いた音。

 メイク落としのシートを引き抜く音。


(……なして、俺が気ぃ遣わねばなんねぇのさ)


 百田は心の中で毒づいた。

 年下のキャリアのあられもない姿を見たような気がして、背中に寒いものが走った。

 役得などと微塵も思えない。


 むしろ、見てはいけないものを見た気分だ。


「……そりゃ、なんですか」


 前を見たまま、百田は聞いた。


「何って、リリス様よ」


「リリス」


「宵闇のリリス。 『きらめき☆ステラ・ハーツ』の。 知らない? 日曜の朝の」


「知りません」


「でしょうね」


 衣擦れの音に、早口が重なった。


「去年の夏に、テコ入れで出てきた敵の幹部なの。 子ども向けなのに、なぜかお姉さんで、なぜか露出が多くて、なぜか声が色っぽくて。 そしたら、大きなお友達が全員落ちた。 即売会じゃリリス様の本が島ごと埋まるし、グッズは即日完売。 放送は一月で終わったけど、界隈はまだリリス様の天下よ」


「大きなお友達って……?」


「大人のファンのこと」


 前の車のブレーキランプが、一斉に赤くなった。渋滞だった。


 車が止まった拍子に、百田の視線が、つい、助手席に投げ出された黒い羽根と夜色のドレスに落ちた。

 背中のところは、ほとんど布ではなかった。


 二十四のキャリアの警部補が、これを着て、あの列の真ん中で。


 口が、勝手に動いた。


「……いい歳して、うわぁ……なまらキツいべや……」


 突然、後頭部に、硬いものが当たった。


「グワァ!」


 助手席の足元に、先端に三日月のついたステッキが転がり落ちる。


「百田くん、今さ、うわキツって言ったろ」


「……言ってません」


「言った。 しかも訛ってた。 訛ってたら、わからないと思った?」


 後ろで、華園が身を乗り出す気配がした。


「こっちはアラブの隅っこの村の方言だって聞き分けんの。 日本語なら、北は北海道から、南は沖縄のおばあちゃんレベルのキツい訛りまで、全部わかる。 ――元外事、舐めんなよ」


 百田は前を向いた。耳の後ろが、じんじんした。


 しばらくして、後ろの気配が変わった。

 ミラーの隅に、いつものパンツスーツの肩が映る。ウィッグを外した黒髪を、うしろでひとつに束ねる手つき。


 膝の上のウィッグを、名残惜しそうに一度だけ撫でて、華園は短いため息をついた。


「で。 何があったの」


 さっきまでとは、別の声だった。


「ゆうべ、向こう側で、人がまとめて倒れました。 三人、亡くなっています」


「どこの誰」


「室長は、言いませんでした」


 華園は窓の外の、春先の白っぽい海を見た。


「――言えない誰か、ってことね」


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