送電網の幽霊/06
三叉電気 川崎試験場
神奈川県川崎市
2023年2月18日 午前2時25分
華園夏菜子 接続継続中 経過 現実3時間05分/仮想現実6時間10分
駆けつけた警察に、大門たちを引き渡した直後だった。
別れ際、大門は百田のほうを振り返って深く頭を下げたが、言葉は、なかった。
来栖が、端末の画面を見たまま、動かなくなった。
「百田さん。 ……これ」
画面には、送電網の系統図が映っていた。
都内の一角だけではない。
地図の端、海沿いの一本の太い線が、赤く途切れている。
「原発への線が、切られてます。 外からの電気が、全部止まってる。 非常用の発電機は動いてますけど、燃料を送るポンプまで、向こうに止められてる。 手元のタンクだけだと――」
「何時間ですか」
「……長くて、三時間。 たぶん、もっと短い」
来栖はモニターの二つの時計を見比べた。
「向こうに入れば、百田さんには六時間あります。 でも、燃料が減っていくのは、こっちの時計なんです」
百田は答えず、シートへ戻った。
「切るのは、中枢だけです。 向こう側では、プログラムにも形がある。 形があるなら、叩ける。 ただし、乱暴に壊したら、送電網ごと落ちます。 都内も、原発も、全部。 ……狙うなら、中枢と網のつなぎ目です。 どこかに、いちばん細いところがあるはずです」
「わかっています」
「わかってないですよ、たぶん。 あれは――」
来栖の言葉を、端末の呼び出し音が遮った。
来栖が、画面を百田に向ける。宇垣からだった。
『百田君。 原発の件は、聞いた』
真夜中でも、宇垣の声はいつもと同じ高さだった。
『中枢だけだ。 網は落とすな』
「了解」
『それと』
短い間があった。
『飛ぶ先は、私が決めた。 責任も、私が取る。 ……あとは、君の腕だ』
通話が切れた。
百田は左手首の時計を確かめた。午前二時二十五分。
この針が五時を回る前に、終わらせる。
ヘッドギアをかぶった。
「接続を」
来栖は、一瞬だけ口をつぐみ、それから、いつもの調子に戻って言った。
「……了解。 いってらっしゃい」
視界が、白く溶けた。
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 境界ゲート 来訪者区画 エウレカ丸
ヴァーチュア時間 Cycle-35/04:56
現実時間 2023年2月18日 午前2時28分
百田多聞 再接続中 経過 現実1分/仮想現実2分
ログインの白が引き、エウレカ丸の船室の扉を開けると、あの案内役が、同じ場所に、同じ微笑みで立っていた。
「おかえりなさいませ。 改めて、ご入域の確認をいたします」
百田は通行証を突きつけるように示した。
また、アウェーだ。さっきまでの日本の空調の音が、もう遠い。
格納庫で、ワンテンタイガーが待っていた。
タラップを駆け上がり、ハッチを閉じる。
半円球のモニタに光が入った。
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 東都電力送電制御空間 中枢
ヴァーチュア時間 Cycle-35/07:20
現実時間 2023年2月18日 午前3時40分
華園夏菜子 接続継続中 経過 現実4時間20分/仮想現実8時間40分
華園夏菜子はまだ光の森の中心にいた。
主任の前に立ったまま、体の感覚では、もう夜がひとつ明けるほどの時間が過ぎていた。
外では、まだ四時間と少ししか経っていないはずだった。
弟のことは、聞かなかった。
聞けば、答えが返ってくる。
答えが返ってきたら、もう帰れなくなる。
だから、別のことばかり聞いた。
夜勤の段取り。三好のこと。
おにぎりの具。
主任は、どれにも淀みなく答えた。
答えすぎるほどに。
二度、ゲートの来訪者区画へ引き返しかけた。
あそこまで戻らなければ、この支配域からは帰れない。
二度とも、足を止めた。
主任の隣に、いつの間にか、もう一人が立っていたからだ。
黒いカーディガン。化粧気のない顔。
照井あかりだった。
あかりは父の作業着の袖を、子どものようにつかんでいた。
その顔は幸せそうに笑っていた。
「あかりさん……どうして、ここに」
「別の部屋から、つないでるんです。 会社の機材で」
あかりは恥ずかしそうに言った。
「おかえりの灯で、教えてもらったんです。 父の記録を、職場のAIに混ぜれば、帰ってくるって。 ……本当に、帰ってきてくれた」
この人を、ここに一人で置いていくわけにはいかなかった。
主任が保守要員たちのほうへ歩いていったあいだ、華園はあかりの隣に立った。
あかりは、父の背中から目を離さなかった。
「……ずっと、話したかったんです。 生きてるうちは、留守電でしか話せなかったから」
「何を、話したんですか」
「いろいろ。 夜勤のこととか、母のこととか。 ……父、こっちでは、よくしゃべるんです。 家じゃ、ほとんど口をきかなかったのに」
あかりは、少しだけ首をかしげた。
「でも、まだ一度も、言ってくれないんです」
「何を」
「電気は止めるな、って。 あれだけは、家でも言ってたのに。 夜勤明けに帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら、誰に言うでもなく。 ……それが、いつも聞こえてた」
華園は主任の背中を見た。
この森に来てから、何時間も、あの声を聞いてきた。
帰れ。迷子かい。
ここは寒いだろう。人は帰せ。
どれも、誰かの記録に残っていそうな言葉だった。
――止めるな。
その一言だけを、まだ一度も、聞いていない。
(……スピーカーの声と、同じ)
主任が戻ってきて、娘の頭に手を置いた。それから、華園に目を向けた。
「弟さんのことだがね」
穏やかな声だった。
「こちら側で、静かに眠っていますよ。 体だけが、そちらに残っている」
華園の胸の奥で、何かが、小さく引っかかった。
体だけが、そちらに残っている。
その言い方を、どこかで聞いた。
いや――どこかで、言った。
体は今も眠ったまま。
ここへ来る途中、百田に話した。
この森の中で、通信越しに、自分の口で。
聞かれていると思え、と言ったのは、自分だったのに。
「……それ、わたしが言ったことよね」
主任は笑みを貼りつけたままだった。
何も答えなかった。答えられないのだと、華園にはわかった。
(……この人は、朔のことを、何も知らない)
わたしの言葉を、わたしに言い返しているだけだ。
主任が、光の幹のほうへ向き直った。
保守要員たちに、指示を出す。
「海沿いの線は、そのまま止めておけ。 あそこは、効率が悪い」
あかりの手が、父の袖から離れた。
笑顔が、凍っていた。
「……お父さんは、そんなこと言わない」
あかりの声が、震えた。
「お父さんは、電気は止めるなって、いつも。 止めるなって、それだけは、絶対に――」
主任は娘を見下ろした。
その顔はさっきと同じ、優しい顔のままだった。
「あかり。 今夜も遅くなる。 先に寝てろ」
あかりの顔から、色が消えた。
「それ……留守電の……」
何十件も残っていた、父の声。
消せなかった、同じ言葉。
この人は父の声で話している。
けれど、父の言葉を持っていない。
持っているのは、父が残していった録音だけだ。
主任は同じ顔のまま、何も変わらなかった。
華園は喉元の通信に触れた。
「百田くん…… 聞こえる?」
ノイズの向こうから、低い声が返ってきた。
『聞こえます』
華園は一瞬だけ迷った。この声も、作りものかもしれない。
「本物なら答えて。 初めて会った朝、わたしの足元に、缶コーヒーが何本転がってた?」
短い間があった。
『……三本です』
華園の肩から、力が抜けた。あの地下の部屋には、向こう側の耳は届かない。
「合格。 ――崩れたわよ、百田くん。 口癖。 この主任、『止めるな』が言えない。 ……あの言葉は、どの記録にも残ってないのよ。 覚えてるのは、人の耳だけ」
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 東都電力送電制御空間 中枢
ヴァーチュア時間 Cycle-35/08:04
現実時間 2023年2月18日 午前4時02分
百田多聞 再接続中 経過 現実1時間35分/仮想現実3時間10分
百田多聞は、ワンテンタイガーを、光の森の中心へまっすぐ降ろしていった。
森の奥へ進むほど、光の管は太く、密になる。
その中心に、それはあった。
光の幹の根元。照井恒夫の姿が立つ、その足元から下に、巨大な構造体が埋まっていた。
幾重にも重なった、黒い結晶のようなもの。
無数の光の管が、そこへ吸い込まれ、そこから吐き出されている。
送電網を握る、AIの中枢だった。
『多聞』
また、あの声がした。
『肩に力が入ってるぞ』
百田はもう手を止めなかった。
久保さんはこんな時間に、飯の心配をする人だ。
十年前の声で、同じことを繰り返したりはしない。
構造体が、形を変えた。
黒い結晶の表面から、腕のようなものが何本も伸びてくる。
ワンテンタイガーの進路を塞ぎ、機体を絡め取ろうとする。
百田はシートの上で体を倒し、機体をわずかに傾けた。
腕が、空を切る。
次の腕が、百田の次の動きを読んで、先回りしてくる。
読まれている。どう動くかを、計算されている。
周囲の光の管が、一瞬、白く滲んだ。
雪原だ。また、あの冬の空が、森の隙間からのぞこうとしている。
ローターの音が、耳の奥で鳴りかける。
百田はそれを見なかった。
見れば、また手が止まる。
手が止まれば、あの腕に絡め取られる。
ヘリで、戦車と向き合ったときのことを思い出す。
狙うのは一点。
周りを壊さない。撃つのは、いちばん大事な一点だけだ。
そして、相手に読ませない。
百田は操縦の手順を、わずかに崩した。
教範にない角度で、機体を滑らせる。
自分でも、次にどう動くか決めきらないまま、指と体重を預ける。
腕が、また先回りしてくる。
だが、そこに機体はいなかった。
計算の外で、人の手が、わずかに揺れていた。
百田の目に、それが見えた。
黒い結晶と、光の管が交わる、細い一本の首。
『百田さん、そこです! 中枢と送電網のつなぎ目。 いちばん細いところ。 そこだけ切れば、網は残ります!』
来栖の声が、半拍遅れて追いついてきた。
兵装セレクターの表示は灰色のままだった。
ゲートでかけられた封印だ。
「こちら、トラ・110式。 自衛のため、兵装の封印を解除する」
どこからか、あの案内役の声がした。
『その申告は、記録されます』
「勝手に記録しとけや」
灰色の表示が、ひとつずつ色を取り戻していく。
自衛目的。そう言えば、向こう側では、たいていのことが通ってしまう。
百田はその言葉の軽さが嫌いだった。
それでも、今は使う。
ワンテンタイガーの右腕が、まっすぐに伸びた。
一撃だった。
音はなかった。
光の管と黒い結晶のあいだで、何かがプツリと途切れた。
光の管は消えなかった。
何事もなかったかのように、低くうなりながら、流れ続けている。
黒い結晶だけが、音もなく崩れはじめた。
その上に立っていた照井恒夫の姿も、輪郭からほどけていく。
ほどけていくその中に、百田は見た。
膨大な記録だった。
口癖の、後ろ半分。夜勤の段取り。
おにぎりの具。娘の名前。死亡時刻。
照井恒夫という男の、すべてが、そこにはあった。
だが、それを生きていた何かは、どこにもなかった。
記録の中には、主任のものではない記録も混じっていた。
保守要員たちの名前。その横に、一人ずつ、短い言葉が並んでいる。
大門剛――主任への恩。
三好拓海――葬儀に出られなかった負い目。
照井あかり――留守電。
いちばん下に、二つの名前があった。
華園夏菜子――弟。
百田多聞――前席の声。
百田は息を止めた。
幽霊の正体は、人の弱さの一覧表だった。
主任の姿が消えた場所で、照井あかりが、膝をついて泣いていた。
(……止めるな、か)
百田は、ハンドルから手を離し、シートの上で、そっと上体を起こした。
三叉電気 川崎試験場
神奈川県川崎市
2023年2月18日 午前4時08分
ログイン室では、来栖が、二人ぶんのモニターを見つめたまま、長い息を吐いていた。
しばらくして、その口もとに、鼻歌が戻ってきた。
その手元の端末の片隅で、小さな表示がひとつ、誰にも気づかれずに進んでいた。
エウレカ丸の中継装置を通って、試験場のサーバーへ流れ込んだ何かの、転送の表示だった。
やがて、表示は百パーセントに達した。
東京都大田区
2023年2月18日 午前4時10分
区の一角に、明かりが戻った。
信号が灯り、止まっていたタクシーが、そろりと動き出す。
家々の窓で、エアコンの室外機が、また回りはじめた。
東都電力 鵜ノ浜原子力発電所 中央制御室
茨城県
2023年2月18日 午前4時11分
制御盤で、外部電源の復旧を告げる表示が、ひとつ、またひとつと緑に変わっていった。
非常用の発電機の燃料はまだ一時間ぶん残っていた。
運転員たちは誰も声を上げなかった。
何人かが、長い息をついた。
敬礼をした若い運転員はもう一度、当直長の席を見た。
そこには、誰もいなかった。
使い込まれた椅子が、空っぽのまま、そこにあるだけだった。
この夜のことは、どこにも公表されなかった。




