送電網の幽霊/04
インター・ヴァーチュア
コトブキ 三叉電気 格納庫
ヴァーチュア時間 Cycle-34/22:42
現実時間 2023年2月17日 午後11時21分
華園夏菜子 接続中 経過 現実1分/仮想現実2分
ログインの白が引くと、華園夏菜子は、瓦屋根を模した低い建物の並ぶ通りに立っていた。
コトブキ。日本の企業がひしめく、テリトリーだ。
通りの両側に、見慣れた社名の看板が並んでいる。
電機、重工、商社。
テリトリーの入口には、鳥居めいた赤い門が立っている。
ここでは、日本の会社の規則が法になる。
だから日本人は、なんとなく、ここを「国内」だと思っている。
三叉電気の格納庫の奥に、灰色の船が浮かんでいた。
デジタル空間船、エウレカ丸。
船腹に、三叉の社章が白く抜かれている。
大型艦ではないが、格納庫の天井に届きそうだった。
開いた船腹へ、ワンテンタイガーが、百田を乗せたまま歩いて入っていくのが見えた。
見上げるほどの、人型の機体だった。
色は、陸上自衛隊の車両と同じ、くすんだ濃緑。
両肩に、伏せた鉄帽のような大きな装甲が載っている。
そのわりに胴は細く、腰から下が長い。
爪先は鋭く尖り、踵が浮いている。獣が、爪先立ちで歩いているようだった。
額からは、刃のような角が一本、後ろへ流れている。
右の腕には、腕そのものより長い二連の砲身。
装甲と装甲の合わせ目から、黒ずんだ骨組みがのぞく。
その奥に、橙色が見えた。
一歩ごとに、緑の下で橙がちらちらと動く。
(……なるほど。 虎、ね)
外側は地味な一色でまとめて、動いたときにだけ差し色を見せる。
衣装を作る人間なら、誰でも一度はやりたくなる手だった。
昔見たアニメに出てきそうだ、と華園は思った。
オズニアックが世に放った設計図をもとに、いくつもの企業が競うように作りはじめている……。
インター・ヴァーチュアの中でのみ成立する、身体拡張プログラム、コード・フレームワーク。
そのひとつが、日本の会社の名前を背負って、ここに立っている。
正直に言えば、かなり好みだった。
格納庫の裏手、テリトリーの境の柵の向こうには、灰色の更地が、どこまでも広がっていた。
まだ、誰のものでもない土地だ。
華園が乗り込むと、ブリッジでは来栖が、操舵席の脇の端末に鼻歌まじりで何かを打ち込んでいた。
「行くわよ、百田くん」
『了解』
エウレカ丸がネクサス・リンクの「トンネル」に入ると、窓の外の景色が消えた。
機体も、人も、船の腹に収めたまま、光の筒の中を運ばれていく。
(……国境のない世界で、国境越えってわけね)
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 境界ゲート
ヴァーチュア時間 Cycle-34/23:50
現実時間 2023年2月17日 午後11時55分
華園夏菜子 接続中 経過 現実35分/仮想現実1時間10分
トンネルの出口に、白い壁がそびえていた。
継ぎ目のない白。窓のない検問所。頭上では、監視の目が音もなく回っている。
ヘリックス・グリッド社の支配域の、境界だった。
エウレカ丸が検問の桟橋に横づけされると、係員が舷門から乗り込んできた。
「ようこそ。 身分を証明するものを」
聞こえてくるのはきれいな日本語だった。
だが、係員の唇は、まるで別の言葉を形づくっていた。
向こう側では、言葉は聞く者の言葉に変わって耳に届く。
唇だけが、話す者の国に残る。
華園は警察手帳を示した。
「当支配域では、確認できない身分証です」
華園は手帳をしまい、もう一枚の札を出した。
三叉電気の「技術協力」の通行証だ。
「――失礼いたしました。 技術協力の皆様ですね」
係員の態度が、目に見えて変わった。
頭上のスピーカーが、入域の注意事項を淡々と繰り返している。
その声に、一瞬だけ、別の声が重なった。
かすれた、年配の男の声。
――人は、帰せ。
華園は思わず天井を仰いだ。
スピーカーは何事もなかったように続いている。
誰も、気づいた様子はなかった。
(……ここじゃ、国の紋章より、会社のロゴのほうが効くのよ)
外事にいた頃に、何度も味わった空気だった。
『兵装に、封印をかけられました』
通信から、百田の声がした。
船の格納庫で、ワンテンタイガーの武装が検められているらしい。
「向こうのルールよ。 おとなしくしてて」
『自衛の申告をすれば、外せますけどね』
ブリッジから、来栖が口を挟んだ。
『ただし、申告は全部、向こうの会社に記録されます。 あとで何を言われるかは、知りませんよ』
エウレカ丸は、ゲートの内側の来訪者区画に係留された。
「じゃ、僕はここで。 あとは川崎から見てます」
来栖はブリッジの奥の船室へ消えた。
華園が船を降りると、一人の男が待っていた。
「滞在中は、私がご案内いたします」
顔立ちの整いすぎた、若い男だった。
微笑みに、ひとつの曇りもない。
その唇だけは聞こえる日本語に、ぴたりと合っていた。
(……こいつ、人間じゃないわね)
「百田くん」
華園は喉元の通信に指を当てた。
「ここでは、何を言っても聞かれてると思って。 この回線も、向こうのものだから」
『了解』
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 東都電力送電制御空間
ヴァーチュア時間 Cycle-35/00:40
現実時間 2023年2月18日 午前0時20分
華園夏菜子 接続中 経過 現実1時間00分/仮想現実2時間00分
案内役は、華園を保守要員の作業区画まで連れてくると、微笑んで言った。
「ここから先へは、お進みにならないように」
案内役が背を向けた隙に、華園は保守要員の列にまぎれ込んだ。
そうして、華園夏菜子は、光の森の奥に立っていた。
足元から頭上まで、無数の光の管が走っている。
太いものは大樹の幹のように、細いものは蔓のように、絡み合い、枝分かれしながら、どこまでも続いていた。
ひとつひとつが、都内のどこかへ電気を運ぶ送電線の写し絵だった。
空気は冷たくもなく温かくもなく、ただ静かで、聞こえるのは、管の奥を流れていく電気の低いうなりだけだった。
ところどころで管が赤く脈打ち、そのたびに、どこか遠い街で誰かの部屋の明かりがまたたいているのだろう。
向こう側でつまずけば、こちら側で誰かが凍える。
華園は自分の手を見下ろした。
手も、顔も、自分のものだった。
向こう側では、見た目は変えられない。
変えられるのは、身につけるものだけだ。
だから華園は東都電力の作業着をまとっている。
保守要員にまぎれるには、それで足りるはずだった。
衣装で別人になるのは慣れている。
週末のイベント会場で、何度もやってきたことだ。
袖の折り方ひとつ、名札の傾きひとつで、人は誰かになれる。
『聞こえますか』
耳元で、百田の声がした。
「聞こえる。 どこにいるの」
『制御空間の外周です。 そちらからは見えません』
ワンテンタイガーは森の外を見張っている。
二人をつなぐのはこの声だけだった。
華園は光の管のあいだを歩きはじめた。
しばらく、どちらも口をきかなかった。
沈黙に耐えかねたのは意外にも百田のほうだった。
『……ひとつ、聞いても』
「なに」
『あなたはなぜ、電現室に?』
華園は少しだけ足を止めた。
答えなくてもよかった。
聞かれていると思え、と言ったのは、自分だった。
それでも――この静かな場所では、声に出してもいいと思えた。
「弟がね…… 朔っていうんだけど。 大学の研究室にいたの。 仮想に意識を映す研究」
「実験の途中で、戻ってこなくなった。 体は今も眠ったまま。 病院のベッドで、もう一年」
『…………』
「大学は、事故だって。 それ以上は何も教えてくれない。 調べようとしたら、上から止められた。 気がついたら、あの地下の部屋にいたわ」
華園は自嘲するように笑った。
「だから、わたしは幽霊を信じたいのかもね。 仮想のどこかに、まだあの子がいるって」
通信の向こうで、百田が短く息を吸う音がした。
それきり、言葉は来なかった。
華園には、それが、どんな慰めの言葉よりもましに思えた。
通信の向こうで、何かが、じっと聞いていた。
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 東都電力送電制御空間
ヴァーチュア時間 Cycle-35/02:00
現実時間 2023年2月18日 午前1時00分
華園夏菜子 接続中 経過 現実1時間40分/仮想現実3時間20分
森の奥へ進むにつれて、人の気配が増えていった。
コトブキを発ってから、華園の体の感覚では、もう三時間を超えていた。
作業着姿の保守要員たちが、光の管のあちこちで、黙々と手を動かしている。
東都電力の夜勤の者たちだ。
誰も、華園を気にとめなかった。皆、同じ方向を見ていた。
森の中心に、ひときわ太い光の幹がそびえていた。
その根元に、一人の男が立っていた。
使い込まれた作業着。
胸ポケットに、ボールペンが二本。
少し丸まった背中。
照井恒夫だった。
仏壇の写真と、同じ顔だった。
主任が、保守要員の一人に何か言う。
言われた者は、うなずいて持ち場へ戻っていく。
まるで、この場所では、何ひとつ変わっていないかのようだった。
主任が、こちらを向いた。華園と、目が合った。
主任は少し困ったように笑った。
その笑い方まで、写真と寸分違わなかった。
まるで、同じ一枚を、何度も見せられているように。
「迷子かい。 ここは寒いだろう」
華園はすぐには声が出なかった。
寒くはなかった。
だが、そう言われると、なぜか肌が粟立った。
声も、間の取り方も、目尻の皺の寄り方も、生きている人間のものだった。
録音でも、作りものでもない。少なくとも、そうは見えなかった。
「……照井、恒夫さんですか」
「そう呼ばれてたな」
主任は穏やかにうなずいた。
「あんたは、帰らなくていいのかい。 こっちに長くいると、帰り道を忘れちまうよ」
「あなたは、帰らないんですか」
「俺は、ここでいい。 ここなら、誰も帰りを待たせなくて済む」
主任は光の幹を見上げた。
「三好は…… 帰らなかったなぁ」
ぽつりと、主任は言った。
悲しんでいるようにも、ただ事実を読み上げているようにも聞こえた。
「帰れと言ったんだがね。 あいつは、帰らないほうを選んだ」
華園の背筋が、冷えた。
この人は、三好が死んだことを知っている。知っていて、こんなふうに穏やかに話している。
主任はそれから華園に目を戻した。その目が、ひどく優しかった。
「あんたの弟さんも、こちら側にいますよ」
華園の呼吸が、止まった。
(……朔)
新月の夜に生まれたから、朔。
姉の後ろばかりついて歩いて、大きくなってからは、姉の知らない難しい話ばかりするようになった。
最後に会った日、研究室の前で、照れくさそうに手を振っていた。
なぜ、と問い返しそうになる。
どこに、と。
会えるのか、と。
喉の奥まで、言葉がせり上がってきていた。
インター・ヴァーチュア
ヘリックス・グリッド社支配域 東都電力送電制御空間 外周
ヴァーチュア時間 Cycle-35/03:20
現実時間 2023年2月18日 午前1時40分
百田多聞 接続中 経過 現実2時間20分/仮想現実4時間40分
百田多聞はワンテンタイガーの操縦席で、光の森の外周を回っていた。
森の外は何もない灰色の空間だった。
上も下もない。ただ、遠くに、別の企業の支配域らしい光の塊が、いくつか浮かんでいる。
華園の話に、百田は一言も返せていない。
弟。眠ったまま、一年。
かける言葉が見つからなかった。
帰りを待つ人間がいる、ということを、百田はうまく想像できない。
身寄りはない。
待っている誰かがいるとすれば、それは、除隊して遠くの町で暮らす、昔の相棒の久保さんくらいのものだ。
年に何度か、思い出したように電話をよこす。飯は食ってるか、とだけ聞いて切る。
見つからない言葉の代わりに、百田は計器を順に確かめた。
封印された兵装の表示が、灰色のまま並んでいる。
異常はない。
そのはずだった。
灰色の空間が、じわりと色を変えはじめた。
計器は何ひとつ異常を示していない。
変わっているのは外の景色だけだった。
足元の灰色が白く、頭上の灰色が青く、少しずつ分かれていく。
白は、雪だった。
青は、冬の空だった。
見覚えがあった。
どこまでも平らな白い大地。
地平線まで遮るもののない、乾いた冬の青。
十勝平野だ。
帯広の、冬の空だった。
耳の奥で、低い音がよみがえる。
バタバタバタ、と空気を叩く、ローターの音。
そんなはずはない。
ここにヘリはない。この機体に、ローターはない。
なのに、ハンドルを握る手のひらに、あの振動が伝わってくる。
鼻の奥に、オイルと排気の匂いがする。
百田の呼吸が、浅くなった。
手のひらに、汗がにじむ。
そのとき、通信に、男の声が入った。
『多聞』
少しかすれた、低い声。何千回と、前席から聞いた声。
『肩に力が入ってるぞ』
スロットルを握る右手が、止まった。
久保さん。
久保達郎は除隊して、今は民間で働いているはずだ。
こんな場所に、いるはずがない。
いるはずがない人間の声が、ここで聞こえる。
それはつまり――。
(……なして、久保さんの声が)
死んだのか。
冬の空が、どこまでも青い。
ローターの音が、胸の奥で鳴り続けている。
『多聞』
懐かしい声が、もう一度言った。
『お前は、まだ飛べる』




