送電網の幽霊/03
東京都大田区
2023年2月16日 午前2時13分
この夜も、午前二時十三分に、街は暗くなった。
同じ道筋に、同じ明かりを残して。
夜勤の保守員がもう一人、強制排出で病院へ運ばれた。
命は取りとめたが、目を覚ますと、うわごとのように「主任に叱られた」と繰り返したという。
照井恒夫宅
東京都大田区
2023年2月16日 午後2時00分
照井恒夫の家は、古い住宅街の奥まった路地にあった。
板塀に囲まれた二階建ての木造家屋で、停電の夜に明かりが残っていた窓も、昼の光の中では、ただの古いガラス窓に戻っている。
玄関に出てきたのは、三十に手が届くかどうかという年頃の女で、化粧気のない顔に黒いカーディガンを羽織り、照井あかりと名乗った。
通された居間の奥に、真新しい仏壇があった。
写真の中で、照井恒夫が少し困ったように笑っている。
華園は制御センターのスピーカーから聞こえたかすれた声を思い出し……あの声の主は、こういう顔をしていたのか、と思った。
「父は……家にいない人でした」
茶を出しながら、あかりは言った。
「夜勤ばかりで。 運動会にも、卒業式にも来なかった。 でも、職場の若い人たちには、帰れ、帰れって。 自分は帰らないくせに」
あかりは仏壇の写真に目をやった。
「電気は止めるな。 人は帰せ。 ……それが口癖で。 止めるなと帰せが、いつも喧嘩してたんだと思います。 それで、最後は自分が帰れなくなった」
(……スピーカーの声は、後ろの半分しか言わなかった)
「留守電に、父の声が残ってるんです」
あかりは少しだけ笑った。
「今夜も遅くなる、先に寝てろって。 そればっかり、何十件も。 ……消せなくて」
「あかりさんは、どちらにお勤めですか」
「東都電力の関連会社です。 設備の保守の事務を」
「向こう側に入ることも?」
「……業務で、たまに。 会社から機材を貸してもらっています」
そのとき、座卓の上に伏せてあったあかりの端末が、短く震えた。
画面が一瞬だけ明るくなる。
通知の文字が、華園の位置からは読めた。
――おかえりの灯。新しい書き込みがあります。
あかりは慌てたように端末を裏返した。
華園は何も見なかったような顔で、茶をひと口飲んだ。
首都高速道路 湾岸線
2023年2月16日 午後3時30分
継ぎ目を拾うタイヤの音を聞きながら、助手席の華園が言った。
「やっぱり、照井さんは向こう側に残ってるのよ。 帰りたい場所を、ちゃんと覚えてる」
ハンドルを握ったまま、百田は答えた。
「誰かが、主任を騙っています。 内部の妨害工作です。 主任の習慣と口癖を知っていて、向こう側の制御空間に手が届く人間なら、できます」
「あかりさんを疑ってるの?」
「可能性の一つです」
華園は窓の外を流れる街を見ていた。信号も看板も、当たり前のように灯っていて、夜中の停電の気配は、もうどこにも残っていない。
「あの子の端末、見た?」
「いえ」
「おかえりの灯、っていう通知が来てた。 何かの集まりの名前ね」
百田はちらりと助手席を見た。
(……この女、見てないふりして、全部見てるべや)
「……信じたい人がいる限り、幽霊は出るのよ」
華園は誰に言うともなくつぶやいた。
百田はそれには答えなかったが、この女の推理が、ここまで一度も外れていないことだけは、認めていた。
東都電力 本社
東京都千代田区
2023年2月17日 午前10時00分
本社ビルの会議室には、華園と百田、それに来栖が先に通されていた。
約束の客は時間ちょうどに現れた。
葛城怜。
ヘリックス・グリッド社の、日本での窓口を務める男だ。
仕立てのいいスーツに、感情の読めない微笑み。
部屋の隅の椅子で、来栖が小さな鼻歌をなぞっていた。
東都電力の送電網を動かしている最適化のAIは、ヘリックス・グリッド社が納めたものだった。そのAIが置かれた向こう側の制御空間も、同社のものだという。
「お話は伺いました。 ですが、弊社の支配域への立ち入りは、お認めできません」
「支配域、ね」
華園が、苦い顔でつぶやいた。
隣の来栖が、百田のほうへ顔を寄せて、声を落とした。
「向こう側には、国境がないんですよ。 あるのは、企業が自分のものだと線を引いた土地だけ。 その中じゃ、会社の規則が法律の代わりです。 警察手帳も、あそこでは名刺と変わらない」
「人が――死んでいるのよ」
華園の声が硬くなる。
「承知しております。 東都電力様の安全機構が作動した、痛ましい事故と伺っております」
葛城の表情は少しも動かなかった。
(……事故)
華園は膝の上で拳を握った。
大学も、同じ言葉を使った。
それ以上は、何も教えてくれなかった。
華園の端末から、宇垣の声がした。
スピーカーにして、机の上に置いてある。
「葛城さん。 こちらは、国内の重要インフラの安全確保の観点からお願いしている」
「存じております。 ですが…… 弊社は外国企業でして」
「御社の支配域で動いているのは、この国の送電網だ。 この国の電気が止まれば、御社の顧客も困るでしょう」
葛城はほんの少しだけ間をおいた。
「――お気持ちは、本国に伝えます」
つまり、答えは否だ。
国が、自分の国の企業を守るという名目で、よその企業の土地に口を出す。
向こう側では、それがいちばん強い言い分で、同時に、いちばん通らない言い分でもあった。
来栖が、のんびりと立ち上がった。
「まあまあ、葛城さん。 同業のよしみってことで」
来栖は名刺入れから一枚を抜いた。
三叉電気、第二開発部、実証試験室、室長。
葛城の口もとが、一瞬だけ止まった。
「三叉電気さんとは、去年の件以来でしたね」
「ええ、ええ。 あの件では、うちもお世話になりました。 お互い、穴の探し合いは疲れますねぇ」
何の件なのか、二人とも口にしなかった。
葛城の笑みは、来栖の前でだけ、少し硬い。
十分後、葛城は「今回に限り、技術協力という形で」と言い残して、部屋を出ていった。
「……何をしたの」
華園が、来栖をにらんだ。
「何も。 ただの挨拶ですよ」
来栖はにこにこと笑っていた。
机の上の端末から、宇垣の声がした。
『来栖専門官』
「はい、室長」
『借りができたね』
「貸したつもりは、ないですよ」
来栖は名刺入れをポケットにしまった。
「向こう側じゃ、どこの会社も、よその会社の穴を探してるんです。 人じゃなくて、AIに探させて。 去年、うちのがあちらの穴を一つ見つけた。 ……見つけたまま、黙っている。 それだけの話です」
『黙っている値段は』
「今夜のぶんは、今夜の数字でいただきます。 うちの子が、あちらの庭で何を見るか」
短い沈黙があった。
『記録しておこう』
通話が切れた。
華園は、黒くなった端末の画面を見ていた。
国が頼んで開かなかった扉を、会社の名刺が一枚で開けた。
その鍵が何でできているのかを、室長は聞いて、止めなかった。
通行権は取れた。
ただし、正規の手続きではなかった。
三叉電気 川崎試験場
神奈川県川崎市
2023年2月17日 午後11時10分
試験場の奥のログイン室に、シート型のベッドが三つ並んでいた。
首に通す極細のカテーテルと、手首と足首のバンド、ゴーグル型のヘッドギアが、それぞれ三組。
「現場の制御センターから入るんじゃないのね」
「どこから入っても、向こうで出る場所は同じですから。 だったら、設備のそろった、うちのほうがいい」
来栖は三つ目のシートを、ぽんと叩いた。
「今回は、僕も行きます。 ログインは、コトブキのうちの格納庫から。 そこから先は、うちの船です」
「船?」
「エウレカ丸。 ワンテンタイガーも、整備の設備も、通信の中継も、まとめて積んでいける。 ヘリックス・グリッド社の支配域までは、ちょっとした海外出張ですよ」
「こっちの体は?」
「夜番の所員が見てます。 脈と呼吸と、脳の波形。 船を向こうにつないだら、僕だけ先にこっちへ戻ります。 中継の面倒を見られるのは、僕しかいないんで」
「何かあったら、引き上げてくれるの?」
「それが、できないんですよ」
来栖は悪びれずに言った。
「向こうからは、船まで戻ってもらうしかない。 あっちの支配域で、来訪者のポータルが働くのは、ゲートの来訪者区画だけなんです。 船のポータルも、そこにつないでいる間しか使えない。 こっちから無理に切ったら、強制排出よりひどいことになります」
「戻れなかったら?」
「それ、僕に言わせます?」
来栖は肩をすくめただけだった。
「ついでに言うと、技術協力の条件で、こっちの体がどこにあるかまで、向こうに届け出させられました」
「……体の住所まで、ね」
華園が、小さく鼻を鳴らした。
来栖はモニターの隅の二つの時計を指さした。
片方は現実の時刻、もう片方は、向こう側での経過を刻む時計だ。
「それと、もうひとつ。 向こうの時間は、こっちの倍の速さで進みます。 体感は、向こうのほうが本物です。 通信は中継装置で時差を吸収しますけど、こっちの声は向こうじゃ、いつも半拍遅れて届きます」
来栖は少しだけ声を落とした。
「あっちのAIも、僕らの倍の速さで物を覚えてます。 こっちで一晩考えてる間に、向こうは二晩ぶん学んでる」
来栖は、隣の百田をちらりと見た。
「だから、今の世の中、チンタラ、パッチ当てて穴ふさいで、なんてやってられないんですよ。 ふさぎ終わる前に、向こうは次の穴を見つけてる」
来栖は三つ目のシートの縁を、指先で軽く叩いた。
「……ということでね。 セキュリティも、時代に合わせて、ガツンとパンチの効いた感じになるんじゃないですかねぇ。 インター・ヴァーチュアじゃ、成立しちゃうんですよ。 大砲を使ったシステムセキュリティ、ってやつが」
百田は、ヘッドギアを手にしたまま言った。
「それは、こちらから撃つこともできる、ということですよね」
来栖の鼻歌が、止まった。
少しして、何事もなかったように戻ってきた。
「いやぁ。 守るための道具ですよ、うちの子は。 ……少なくとも、カタログには、そう書きます」
配線を確かめながら、来栖は続けた。
「それにしても、この国の電気も綱渡りですねぇ。 太陽だの風だのは、晴れて風が吹いてる日の話でしょう。 冬の夜中に明かりをつけてくれるのは、結局、あれですよ。 みんな、知ってて目をつぶってる」
あれ、が何を指すのか、来栖は言わなかった。
三人は並んでシートに体を預けた。
「怖い?」
隣のシートから、華園が聞いた。
「いえ」
「そう。 わたしは、ちょっと怖い」
華園は天井を見たまま言った。
「向こう側で何を見ても、それが本物かどうか、わたしたちには確かめようがないもの」
百田は、ヘッドギアの内側に目を落とした。
ヘッドギアをかぶる。
潜っている間、この体は、ここに置き去りになる。
何をされても、気づけない。
「接続、開始します」
所員の声とともに、百田の視界が白く溶けた。




