送電網の幽霊/02
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年2月15日 午前8時40分
電現室の壁が、一枚の地図に占領されていた。
都内のある区の地図だ。その一角が、赤いペンで乱暴に囲まれている。
ゆうべ、停電した範囲だった。
地図の前で、小柄な女が、コートも脱がずに腕を組んでいた。
足元には、空になった缶コーヒーが三本転がっている。
黒い髪をうしろでひとつに束ね、地味なパンツスーツ。そのくせ、組んだ腕の先で指に挟んだペンだけが、妙に凝った細工の金属の軸だった。
女が振り向いた。
童顔だった。目の下に、うっすらと隈がある。
夜通し、どこかを歩き回ってきた顔だ。
「あなたが百田くん?」
百田は一瞬、言葉に詰まった。くん、と呼ばれたのは、いつ以来だろう。
「陸上自衛隊、一等陸曹、百田多聞です」
「知ってる。 華園夏菜子。 公安部から来た警部補。 よろしくね、百田くん」
どう見ても八つは年下の女に、くん付けで呼ばれ、敬語で返している。
妙な構図だと思ったが、百田は顔に出さなかった。
「帯広の対戦車ヘリ。 部隊がなくなって、三叉電気のテスト要員。 ゆうべ、ファイルは読ませてもらった」
見張れと言われた相手に、先に読まれている。
「停電は四時間。 その間に、お年寄りが二人、低体温で病院に運ばれた。 一人はまだ意識が戻ってない」
華園は手のひらで地図を叩いた。
「そして同じ時刻、制御センターで保守員が一人死んだ。 三か月前に死んだ上司に、会ったって書き残して」
一拍おいて、華園は言った。
「幽霊よ」
「……幽霊?」
百田は思わず、鼻で笑った。
「向こう側に、幽霊ですか。 まるでSF漫画だ。 何か根拠でも?」
「まだない。 だから調べるの」
「幽霊に見えるなら、まず幽霊として調べる。 ありえないって切り捨てた瞬間に、見えるはずのものが見えなくなるから」
それから、少しだけ口の端を上げた。
「十分に発達した技術は、魔法と見分けがつかない。 ――あの男がそう言って、世界をひとつ増やしたのよ。 幽霊のひとりやふたり、出てきたって驚かない」
百田は返事をしなかった。
宇垣の命令が、頭の隅をよぎる。
(……この女の、何を見張れってのさ)
東都電力 湾岸制御センター
東京都江東区
2023年2月15日 午前11時00分
制御センターは湾岸の埋め立て地に建つ、窓の少ない建物だった。
夜勤の制御室には、リクライニング式のシートが十あまり並んでいる。
そのうちのひとつだけが、黄色いテープで囲われていた。
三好拓海が座っていたシートだ。遺体はもう運び出されている。床には、外れたヘッドギアの擦れた跡が残っていた。
百田はシートの横にしゃがみ込んだ。
肘掛けの革が、爪でえぐったように裂けている。
「死因は?」
華園が尋ねると、東都電力の安全管理の担当者が、手元の資料をめくった。
「心不全です。 インターフェイスの安全機構が作動した際の、ショックによるものと思われます」
「安全機構?」
「向こう側で、死んだのと同じ状態だと判定されると、インターフェイスが接続を強制的に切って、意識をこちらへ引き戻します。 強制排出と、私どもは呼んでいますが」
「それで人が死ぬの?」
「……まれに。 深く潜っていたダイバーを、急に水面へ引き上げるようなものですから。 持病のある方などは」
担当者の声が、わずかに小さくなった。
「その危険は、どこかに書いてありますか」
百田が口を挟んだ。
「機器の取扱説明書の、末尾のほうに。 ……メーカーの言い方では、仕様だそうです」
仕様。百田はその言葉を胸の内で繰り返した。
ヘリなら、そんな危険には赤い字で注意書きがつく。誰も読まない末尾ではなく、操縦席の、いちばん目につく場所に。
「三好さんは、向こうで、死ぬような目に遭ったってこと?」
華園が聞いた。
担当者はしばらく資料をめくってから、首を振った。
「記録上は、そう判定されています。 ですが…… ログには、何も残っていないんです。 襲われた形跡も、事故の形跡も」
華園は三好の最後の作業ログを端末に呼び出していた。
『おやじさん、ごめん』
それが、最後の一行だった。記録された時刻は午前二時十二分五十八秒。
制御室に残っていた保守要員たちに話を聞くと、誰もが同じことを言った。
少し怯えながら、それでいて誇らしげに。
「主任が、まだ仕切ってくれてるんです」
「三か月前に亡くなった、照井主任のことですか」
「向こう側に、いるんですよ。 みんな見てます。 声だって」
若い女の保守員が、目を伏せて付け加えた。
「主任、夜勤のたびに、おにぎり握ってきてくれたんです。 自分の分はいつも忘れて。 ……あの人、自分が帰らないくせに、私たちには帰れって」
そのときだった。
天井のスピーカーが、低くノイズを吐いた。
誰も、放送の操作盤には触れていない。
『――人は、帰せ』
年配の男の、かすれた声だった。
保守要員たちが、いっせいに背筋を伸ばした。
何人かは目を赤くしている。
百田はスピーカーを見上げたまま動けなかった。
確かに、この耳で聞いた。
録音を流したにしては、息継ぎの間が、生きている人間のものだった。
「照井さんの口癖よ」
華園が、低く言った。
「構内放送も、向こう側から動かしてるってことね。 ……こっちの世界に、手を伸ばしてきてる」
奥の扉が開き、大柄な男が入ってきた。
百田よりも頭ひとつ高い。作業着の袖から出た腕は、丸太のように太かった。胸の名札に、班長、大門剛とある。
「主任の邪魔をするな」
大門は華園の前に立ちはだかった。百田が、半歩だけ前に出る。
二人の視線が、正面からぶつかった。
大門の目は、何かを必死に守ろうとする者の目だった。
「あの人は、まだ俺たちを守ってくれてる。 帰ってくれ」
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年2月15日 午後11時30分
華園は地図の上にかがみ込んでいた。
停電の夜、明かりが消えなかった場所を、住民の証言や交番の記録、近所の防犯カメラの画像からひとつずつ拾い出し、確かめるたびに、地図に小さな点を打っていく。
「停電の範囲の誤差でしょう」
背後で、百田が言った。
「ノイズなら、ばらばらに散るはずよ」
華園はペンを止めなかった。
「えーと、つまりね。 この幽霊は、一か所に縛られてるタイプじゃないの。 歩いてるのよ。 ……幽霊ならね、帰りたい場所に灯りをともすはずなの」
点が増えていく。十、二十。
百田は、いつの間にか、隣で防犯カメラの画像を時刻順に並べていた。
華園は画像の束をひったくるように受け取った。
やがて華園は定規を当てて、点と点を結びはじめた。
一本の線が、地図の上に浮かび上がった。
古い一軒家。
変電所。
総合病院。
百田が、資料の束をめくった。
「一軒家は、照井主任の自宅です。 変電所は、主任が二十年以上担当していた。 病院は――」
「主任が、亡くなった場所」
華園が引き取った。
その指先が、病院の点の上で、少しだけ長く止まった。
百田はそれに気づいたが、何も聞かなかった。
百田はもう一枚の資料に目を走らせた。
停電が始まった時刻。午前二時十三分。
死亡診断書の時刻。午前二時十三分。
百田はその二枚を華園の前に並べた。
華園はしばらくそれを見つめ……それから、ふう、と肩の力を抜いた。
「ね。 帰りたかったのよ、この人」
「幽霊が、時刻まで守るんですか」
「律儀な人だったんでしょ。 おにぎりを握ってくるような」
華園は冗談めかして言ったが、目は笑っていなかった。
百田は地図を見下ろした。律儀なのは本当に死んだ男なのか。
それとも、死んだ男の律儀さを、誰かがなぞっているのか。
停電の範囲を決めているのは向こう側の制御空間だ。
構内放送を鳴らしたのも、向こう側からだ。
どちらも、幽霊でなくても、手の届く誰かがいればできる。
「内部の人間の仕業だとすれば、主任の習慣を知っている者です」
「そうね。 家族か、同僚か」
華園は地図の上の一軒家を、ペンの先で軽く叩いた。
「明日、ここへ行くわ。 照井さんには、娘さんが一人いるの」
百田は左手首の古い時計を見た。日付が変わろうとしている。
今夜も、あの時刻は来る。
壁の地図の上で、一本の線だけが、赤くも黒くもなく、ただ静かにそこにあった。




