フーディーニ/06
集合住宅の一室
東京都内
2023年7月30日 午前4時40分
東の空が、わずかに白みはじめていた。
古い集合住宅の外廊下に、私服の捜査員が六人、息を殺して並んでいた。
華園夏菜子はその後ろにいた。隣に百田がいる。
表札には、ありふれた名字が一つ。
住民の記録では、夫婦と子どもが一人。
夫婦は、どちらも向こう側が開かれて間もないころからそちらで働いていて、ほとんど家から出ないことになっていた。
管理人は、眠そうな顔で言った。
――ご両親は、ずっと向こうでお仕事だって。
――お子さんは礼儀正しくて、いい子ですよ。
ごみの日も、ちゃんと守るし。
捜索の令状は、夜のうちに取ってあった。
逮捕状はない。
中にいるのが誰であれ、この部屋で、手錠は出てこない。
捜査員の一人が、扉を叩いた。
「警察です。 開けてください」
返事はなかった。
鍵が開けられ、捜査員たちが中へ入った。
華園も続いた。
部屋は、きれいに片づいていた。
廊下に、靴が一足だけ。
小さな運動靴だ。
台所の流しは乾いていて、食器が一人分、水切りかごに伏せてある。
居間の壁に、子どもの描いた絵が一枚、画鋲で留めてあった。
三人の人間が、手をつないでいる。
奥の部屋の扉が、半分開いていた。
中は、暗かった。
大人用のリクライニング式のシートが二つ、並んでいる。親の仕事用の、ログインの機器だった。
ヘッドギアも、手首のバンドも、大人の寸法だ。
シートは二つとも、うっすらと埃をかぶっていた。
その前の床に、子どもが一人、座っていた。
水色のパジャマ。
膝の上に、ヘッドギアを一つ、抱えている。
大人用のものを、ベルトを何重にも締めて小さくしてあった。
まわりの床に、むき出しの基板と、ケーブルが散らばっていた。
子どもは、こちらを見た。
十歳か、十一歳か。
頬のまだ丸い、どこにでもいる子どもの顔だった。
その顔が、くしゃりと歪んだ。
「……だれ?」
声が、震えていた。
「お父さんとお母さんは、お仕事でいないの。 ……こわい。 こわいよ」
子どもは、ヘッドギアを抱きしめて、泣き出した。
しゃくり上げる声が、暗い部屋に響いた。
捜査員の一人が、足を止めた。
別の一人が、無線に手を伸ばした。
児童相談所への通告の段取りを、小声で確かめている。
華園の手も、止まっていた。
(……この子が?)
住民の記録では、十一歳。
法律は、この年の子どもを、罪に問わない。
捕まえることもできない。
目の前で泣いているのは、守られるべき側の子どもだった。
華園は、しゃがもうとした。
子どもの目の高さに、合わせようとした。
その横を、百田が通り過ぎた。
百田は、子どもの前に立った。
しゃがまなかった。
見下ろしたまま、言った。
「皮かぶるな、化け物が」
低い、乾いた声だった。
敬語でも、自衛官の口調でもない。
華園が、一度も聞いたことのない声だった。
子どもの泣き声が、止まった。
しゃくり上げていた肩が、すっと静かになる。
濡れた頬の上で、歪んでいた顔が、ほどけていく。
泣き顔が、消えた。
かわりに、子どもは笑った。
楽しそうに。心の底から、楽しそうに。
「――ばれちゃった」
子どもは、ヘッドギアを床に置いた。
頬の涙を、パジャマの袖で拭う。
拭った袖を見て、少し不思議そうに首をかしげた。
それから、百田を見上げた。
「おじさん、あのおっきい機械の人でしょ? 声でわかるよ。 通信、ぜんぶ聞いてたもん」
百田の顎の筋が、ぴくりと動いた。
「撃たなかったね」
子どもは、うれしそうに言った。
「ぼく、見てたよ。 おじさん、ぼくの顔を見て、止まった。 ……あれ、すっごくおもしろかった」
百田の右手が、ズボンの縫い目のところで、固く握られていた。
華園は、しゃがみかけた姿勢のまま、動けなかった。
窓の外で、夜が明けていた。
白い光が、埃をかぶった二つのシートを照らしていた。
2023年7月30日 午前6時00分
集合住宅の裏の駐車場に、朝の光が差しはじめていた。
あの子は、児童相談所の車で連れていかれた。
最後まで、楽しそうに窓の外を眺めていた。
百田は自分たちの車の脇に立って、どこも見ていなかった。
華園は自動販売機で缶コーヒーを二本買って、一本を百田に押しつけた。
自分は、車止めのブロックに腰を下ろした。
「最初から、わかってたの」
百田は缶を開けずに、手の中で回した。
「……最初の日からなんとなく。 確かじゃ、なかったですが」
「時刻と、手袋の指先と、それに、あの線ね……」
「はい」
華園は缶を開けた。
一口飲んで、それから言った。
「車の中で、笑って、ごめん」
「笑われるとは、思ってました」
百田の声は、いつもの平らな声に戻っていた。
「幽霊に見えるなら、まず幽霊として調べる。 ……わたしが、あなたに最初に言ったことなのにね」
華園は、さっきの声を思い出していた。
敬語でも、自衛官の口調でもない、低くて乾いた声。
「化け物、って言ったよね。 ……あの子、泣いてたのに」
「泣いてませんでした」
百田は、即座に言った。
「泣く顔を、作ってただけです。 目が、笑ってました」
華園は缶を膝の上に置いた。
「南スーダン」
百田は、缶を握り直した。
「経歴で見たわ。 電現室に来るとき。 ……関係、あるの」
百田は、しばらく答えなかった。
駐車場のフェンスの向こうで、新聞配達のバイクが走り過ぎていった。
「二〇一六年です」
百田は、缶を見たまま言った。
「宿営地の警備と、連絡の要員で派遣されてました。 ヘリには、乗ってません。 ……ある日、外の道に、検問ができてた。 大人の兵隊に混じって、子どもが立ってました。 自分の背丈くらいの小銃を抱えて」
百田は、一度だけ息を吐いた。
「ほとんどの子は、怯えた顔をしてました。 大人に持たされて、立たされてるだけの顔です。 ……でも、一人だけ、違うのがいた」
「違う」
「楽しそうだったんです。 通る車に、一台ずつ銃口を向けて。 こっちの車にも向けて。 ――笑ってました。 撃つのが、楽しみでしかたない顔で」
朝の光が、百田の横顔に当たっていた。
「あの顔は、一回見たら、忘れられねぇのさ」
北の訛りが、一言だけ混じった。
百田は、自分でもそれに気づいたようだった。口を閉じ、缶のふちを指でなぞった。
「あそこでは、撃つことは許されてませんでした。 ……きのうは……。 あっち側では許されてた。 それでも、指が止まった」
浄水場の、あの一拍。
華園も、通信越しに聞いていた。
逃げられた、と言った百田の声を。
「止まって、よかったのよ」
華園は言った。
「子どもの顔を、ためらわずに撃てる人と、わたしは組みたくない」
百田は返事のかわりに、ようやく缶を開けた。
「……あいつは、それを知ってて、笑ったんです」
ぬるくなったコーヒーを、百田は一息に飲んだ。
「あの頃の記録も、あとで、なかったことにされました。 現地で何を見たかは、どこにも残ってません」
華園は、空になりかけた自分の缶を見た。
(名前を捨てた子どもと、記録を消された兵隊)
どちらも、どこにも残っていない。
残っているのは、目の奥に焼きついた、あの顔だけだ。
東の空が、すっかり白くなっていた。
児童相談所
東京都内
2023年7月31日 午後2時00分
面談の部屋は、明るい色の壁紙だった。
小さな机に、クレヨンと画用紙。
棚には、ぬいぐるみと絵本。
子どもが、子どものまま話せるように作られた部屋だった。
その部屋の椅子の上で、子どもは、じっとしていなかった。
椅子の脚を、かかとで蹴る。
クレヨンの箱を開ける。
一本出して、すぐに戻す。
窓の外の鳥を目で追う。
机の向かいに座った華園の顔を見て、また窓を見る。
隣に、児童福祉司の女性が座っていた。
警察の調べには、立ち会うことになっていた。
「お父さんとお母さんのこと、聞いてもいいかな」
華園が聞くと、子どもはあっさりとうなずいた。
「いいよ。 処分したの」
児童福祉司が、息を詰めた。
「六歳のとき。 ふたりとも、ずっと向こうにいて、つまんなかったから。 ……あ、ねぇ、これなんの鳥?」
「……ハトかな」
「ハトかぁ。 ハトって、首、前後に動かすよね。 あれ、なんでだと思う? ぼく、向こうでハト作ったことあるんだよ。 首の動き、むずかしいの。 ――あ、それでね」
子どもは、話を戻した。
戻したことにも、気づいていないようだった。
「湖に、行こうって言ったの。 ふたりに。 ずっと、ずっと、毎日。 向こうにいるときに、耳のそばで」
子どもは、自分の耳を指でつついた。
「そしたら、ある日、ふたりで行って、入ってった。 ぼく、岸で見てたよ。 ――あれが、ぼくの最初の演目。 お客さんは、いなかったけど」
華園は手帳の上でペンを握りしめていた。
書く手が、震えなかった。
震えないのが、自分でも怖かった。
「そのあと、ぜんぶ捨てたの」
「ぜんぶ?」
「ふたりの名前と、ぼくの名前。 役所のと、学校のと、病院のと。 ぜんぶ、にせものの山の中に埋めた。 同じ名前の人が、何百人もいるようにしたの。 だから、もう、どれがほんとか、だれにもわかんない」
「学校は。 先生とか、面談とか」
「画面だよ。 お父さんの顔、作ったの。 いつも忙しそうに笑ってる顔。 先生、ぜんぜん気づかなかった」
「ごはんや、お金は」
「ごはんは、届くようにしたの。 お金は、お父さんたちの口座から。 家賃も、電気も、ぜんぶ自動。 お父さんたちのお仕事のお金も、まだ毎月入ってくるんだよ。 お父さんたちの代わりに、ぼくが向こうで働いてるから。 顔を出さなくていい、データの中のお仕事だけ」
子どもは、得意そうに言った。
テストでいい点を取った子どもと、同じ顔だった。
「花火の夜の演目は」
華園は、ペンを握り直した。
「どうして、水だったの」
「だって、みんな使うでしょ」
子どもは、当たり前のことのように言った。
「一回目と二回目はね、悪い人が一人ずつ。 みんな、やれ、やれって言って、喜んでた。 ……でも、それって、ずっと観客席にいるでしょ。 つまんないじゃん」
子どもは、椅子の上で足をばたつかせた。
「だから、今度は、みんなを舞台に上げてあげようと思ったの。 やれって言ってた人の蛇口から、毒が出たら……みんな、どんな顔するかなって」
子どもは、窓の外のハトを目で追った。
「見張りの人を減らした会社のことも、ちゃんと教えてあげたよ。 あれは、ほんとのこと。 ……あーあ。 見たかったなぁ、みんなの顔」
「じゃあ、あなたの名前は」
華園が聞いた。
子どもは、首をかしげた。
「どれのこと?」
本当に、わからないらしかった。
面談が終わったあと、廊下で、児童福祉司が華園を呼び止めた。
手にした書類を、胸に抱えるようにしていた。
「お医者さんの見立ては、これからなんですが」
児童福祉司は、言葉を選んだ。
「じっとしていられないことや、話があちこちに飛ぶことは……それ自体は、珍しいことじゃありません。 どこの教室にも、一人か二人はいます。 あの子の頭のよさも、たぶん、それと一緒にある」
少し、間があった。
「でも、それとは、別に」
児童福祉司は、そこで言い淀んだ。
「人の痛みに……感情の……その……乏しい傾向が……」
その先は、続かなかった。
「それと……」
児童福祉司は、書類を抱え直した。
「弁護士を名乗る方から、あの子のことで、もう問い合わせが来ています。 海外の事務所の方で。 ……どこで、あの子のことを知ったんでしょうね」
面談の部屋の扉の窓から、中が見えた。
子どもが、画用紙にクレヨンで何かを描いていた。
手品師の、シルクハットだった。
北関東の湖
2023年8月16日 午前10時00分
湖の水面は、真夏の光を照り返して、白く光っていた。
岸の一角に、青いシートで囲いが作られていた。
その中で、警察の潜水班が湖の底から引き上げたものが、二つの台の上に並べてある。
白骨だった。
大人の男と、大人の女。
水と泥に長く洗われて、骨は灰色がかった白になっていた。
子どもの話したとおりの場所だった。
岸から、二十歩ほど入ったあたり。
湖の底が、急に深くなるところ。
五年前の夏。
この岸で、大人の靴が二足、揃えて脱がれているのが見つかっていた。
遺書はなく、身元のわかるものも、何もなかった。
所轄の記録の端に、それだけが書き残されていた。
囲いの中で、白衣の女が、白骨の上にかがみ込んでいた。
監察医の早瀬律子だった。
管轄の外の仕事だ。だが、宇垣に頼まれて、来てくれていた。
「骨に、争った痕はありません」
早瀬は骨から目を離さずに言った。
「刃物の痕も、殴られた痕も。 縛られていた形跡もない。 ……二人とも、自分の足で、水の中に入っていったんでしょうね。 骨から言えるのは、そこまでです」
早瀬は、手袋を外した。
「誰に言われて入ったのかは、骨には残りませんから」
華園は二つの白骨を見ていた。
五年前の夏。
この岸で、六歳の子どもが、一人で水面を見ていた。
早瀬が、鞄から大きな封筒を出した。
「それと、頼まれていた、もう一つのほう」
封筒の中から、一枚のフィルムが出てきた。
早瀬はそれを、夏の空にかざした。
子どもの手の骨の、エックス線写真だった。
小さな指の骨が、白く透けている。
骨と骨のあいだに、まだ育ちきっていない、柔らかい隙間があった。
「手の骨の育ち方で、年はかなり正確にわかります。 記録のない子どもの年を測るときの、いつものやり方です」
早瀬はフィルムを下ろした。
「十歳から、十二歳。 ――十四歳には、届いていません」
乾いた口調だった。
死んだ者の骨と、生きている子どもの骨を、同じ声で読んだ。
湖を渡る風が、青いシートを鳴らした。
(罪に問えない年が、骨で決まった)
あの子は、名前を捨てた。
年も、捨てられるものなら、捨てていただろう。
華園は湖を見た。
白く光る水面の向こうで、岸辺の木々が、静かに揺れていた。
誰も見ていない、最初の舞台だった。




