フーディーニ/07
東京地方裁判所
東京都千代田区霞が関
2023年11月13日 午前10時00分
傍聴券の抽選に、三百人が並んだ。
席は、四十あまり。
華園夏菜子は電現室の名前で取った一席に座っていた。
法廷の空気は乾いていた。
被告人の席に、三上沙織が座っていた。
夏より、ひと回り痩せていた。
髪は、やはりきちんとまとめてある。
罪名は、殺人。
起訴状の朗読が、淡々と続いていた。
被告人は、本年七月二十二日午前零時ごろ、東京都内の局長公邸の書斎において――。
向こう側で聞いた声のことは、一行も書かれていなかった。
華園は傍聴席を見回した。
白い上着が、目についた。
一人ではなかった。
前の列に二人。
後ろの列に、三人。
袖が長く、胸の前で交差させて、背中で留める形の、白い上着。拘束衣を模した服だった。
夏のあいだに、街で見かけるようになった服だ。
あの動画の演目の名から、誰かが作って、売りはじめた。
白い上着の若者たちは、身じろぎもせず、被告人の背中を見ていた。
三上が、罪状について問われた。
「……私の手が、やりました」
三上は、それだけ言った。
白い上着の一人が、口の端を上げたのが見えた。
昼の休みに、華園は廊下の画面の前で足を止めた。
【映像】
アナウンサー男 「今年七月、東京都内で、相次いで二人が死亡した事件で、局長を殺害した罪に問われている元秘書の女の初公判が、きょう、東京地方裁判所で開かれました」
アナウンサー女 「この事件をめぐっては、事件を予告する動画を投稿したとみられる少年が、児童相談所に保護されています。 少年は十四歳未満のため、刑事責任は問われません」
【映像終了】
少年、としか、言えなかった。
かわりに、ネットが言っていた。
――天才ハッカーの正体は、どこそこの大学の学生。
――いや、外国の工作員。
――保護された少年は替え玉。本物は今も配信している。
顔写真つきで名指しされた大学生は、事件と何の関わりもなかった。
その大学生の家の前に、白い上着の若者が三人、立っていたという。
華園は画面に背を向けた。
法廷に戻る足が、重かった。
東京家庭裁判所
東京都千代田区霞が関
2023年11月13日 午後3時00分
家庭裁判所の廊下は、地方裁判所よりも静かだった。
ここでの手続きは、何一つ、表に出ない。
傍聴席もない。記者もいない。抽選の列もない。
宇垣慎は廊下の長椅子に座っていた。
膝の上に、閉じた手帳を置いている。
少年の審判の手続きが、この奥の部屋で進んでいた。
電現室は、事件の経緯を書面で出したきりだった。
呼ばれてはいない。
ただ、宇垣は、ここにいたかった。
廊下の向こうから、足音がした。
仕立てのいい灰色の背広の男だった。
四十代の半ば。眼鏡の奥の目が、穏やかに細められている。
男は宇垣の前で足を止め、名刺を差し出した。
「付添人を務めます、陳明遠と申します」
流暢な日本語だった。
名刺の事務所の住所は、シンガポールだった。
「日本の弁護士の資格も、持っております。 ご安心ください」
「……付添人を、頼まれたのですか」
「ええ。 あの子には、身寄りがありませんので」
陳は、それ以上を言わなかった。
誰に頼まれたのか、とは、宇垣も聞かなかった。
名刺の隅に、小さな印があった。
山の頂を、雲が巻いている図柄。
霊峰公司。
華僑の、名前を聞くことの少ない会社だった。
名前を聞くことが少ない会社ほど、宇垣の机の上では、ファイルが厚い。
陳は、宇垣に向き直った。
「あなたの報告書は、いつも興味深く拝読しています」
宇垣は会釈だけを返した。
陳は軽く頭を下げて、奥の部屋の扉へ歩いていった。
扉が開いた。
部屋の中に、あの子が座っていた。
職員にはさまれ、椅子の上で、つま先を揺らしている。
あの子が、陳を見た。
つま先の揺れが、止まった。
保護されてから、あの子は何度も笑った、と宇垣は聞いていた。
捜査員の困った顔を見て。
児童福祉司の言い淀みを見て。
百田の握った拳を見て。
だが、今の顔は、そのどれとも違った。
自分を見に来た観客を、初めて見つけた顔だった。
あの子は、小さく手を振った。
白い手袋は、していなかった。
扉が、閉まった。
宇垣は長いこと、閉じた扉を見ていた。
それから手帳を開き、万年筆で、一行だけ書いた。
――陳明遠。霊峰公司。
三叉電気 第二開発部 実証試験室
神奈川県川崎市
2023年11月15日 午前10時15分
来栖恭介は自分の席で、鼻歌まじりに、あの夜の記録を流していた。
浄水場の制御空間。
透明な管の森を埋めていく、金属のアリの群れ。
三つの出どころから湧き出し、何千、何万と、一匹ずつ別の動きをしながら、全体としては一つの生き物のように動く。
管を食い破り、制御を食い荒らす。
業界の言葉で言えば、ワーム――自分で増えて、自分で這い回る、虫のようなタチの悪いコードの群れだ。
画面の隅に、もう一つの窓を開いた。
ワンテンタイガーの、機体の記録だった。
脚の装甲に、アリがたかっている。
顎が噛む。白い傷が走る。
だが、傷は装甲の表面で止まっていた。
一匹も、中へは入れていない。
来栖は、操縦席の記録を重ねた。
百田の脳の波と、向こう側の時計を合わせる、同期の経路。
秘書の機械では、そこに誰かの声が割り込んでいた。
百田の線は、最後まで、一本も乱れていなかった。
「……入れなかったんですねぇ」
来栖は、うれしそうに言った。
CFは、人間の体を向こう側へ拡げるための、鎧のようなプログラムだ。
あの群れは、浄水場の制御を食い破った。
だが、この鎧は食い破れなかった。
中の人間の頭にも、届かなかった。
来栖は、次の記録を流した。
干渉光が群れを撃ち抜く。
群れは散る。
散ったアリは、数秒のあいだ形を失って、ただの粒として漂う。
その数秒のうちに、仮面の者たちの手のひらが触れた場所から、群れは崩れていった。
撃って、ほどき、書き換える。
「鎧で受けて、撃って散らして、ほどけたところを書き換える。 ……いやぁ、ちゃんと効くじゃないですか。 ほらね。 ガツンとパンチの効いたやつが、要るんですよ」
来栖は、記録の数字を一つずつ書き写していった。
装甲の傷の深さ。
散った群れが形を取り戻すまでの秒数。
書き換えが届いた範囲。
どれも、欲しかった数字だった。
来栖は報告書の下書きを開き、二つの見出しを立てた。
――対ワーム。
自分で増えて這い回る群れによる、装甲への食い込み。
表面で止まる。
機体の内側への侵入、なし。
干渉光での攻撃、群れを散らすのみで、数は減らせず。
ただし、散った直後の数秒は無防備。
書き換えと組めば、崩せる。
――対マルウェア。
同期の経路への、外からの割り込み。
なし。
操縦者の頭に置かれる声、届かず。
乗っている人間は、乗っているかぎり、頭の中へ直接は入られない。
ただし、目と耳から入るもの――偽の景色や、通信に紛れた声――は、防げない。二月の件がそうだった。
来栖は、二つ目の見出しの最後の一行を、指でなぞった。
「乗ってれば、頭の中までは守れる。 ……生身でログインしてる人間は、守れない」
秘書も、運転手も、浄水場の技師も、CFには乗っていなかった。
来栖は群れのいちばん細かいところまで、記録を拡大した。
一匹のアリの、脚の関節。
顎の、噛み合わせ。
誰も見ないような細部まで、手を抜かずに作り込んであった。
ただ、ところどころ、作りかけのまま、放り出されている。
飽きた場所と、夢中になった場所が、はっきりわかった。
これほどの群れを相手に、試せる機会はない。
どこの会社も、まだ、こんな攻撃的なコードを見たことがない。
「十一歳で、これ」
来栖は、画面のアリに向かって言った。
「群れを作れる子と、群れから人を守れる鎧。 ……これ、いくらになると思います?」
鼻歌が途切れた。
少しして、別の曲で戻ってきた。
防衛省 統合幕僚監部
東京都新宿区市谷本村町
2023年11月17日 午後3時00分
机の上にあったのは、写真ではなかった。
金属のアリの群れが、透明な管を埋めていく記録だった。
その群れの中を、濃緑の機体が一機、撃ちながら進んでいく。
「夏は、とうに過ぎましたが」
宇垣慎は、先に言った。
「わかっている」
草鹿は画面から目を離さなかった。
「皮肉なものだな。 こちら側では、人を降ろして、機械に置き換えている。 それが、向こう側では逆だ。 頭のない群れは、人の乗った一機を食い切れなかった。 乗っていた人間の頭にも、入れなかった」
「そう報告しました」
「君の報告より先に、数字で見たよ」
草鹿は記録を止めた。
「連隊の編成を始める。 拠点は、コトブキだ。 電戦特車連隊は、もう構想ではなくなる」
「コトブキは、国の土地ではありませんが」
「借りる。 会社からな」
草鹿は初めて、宇垣の顔を見た。
「百田は、早く返してもらいたい。 乗り方を教えられる人間が、ほかにいない。 ……だが、あれが出るたびに、数字が増える。 今は、そちらのほうが要る」
「では」
「当面、保留とする。 籍は動かさん。 実証を続けてくれ」
宇垣は、鞄を開けなかった。
今日は、出すものが何もなかった。
市ヶ谷の正門を出たところで、宇垣は手帳を開いた。
――国は、土地を借りて、部隊を置く。
借りた土地に置いたものが、いつまで国のものでいるか。
記録しておく。
東京湾 岸壁
東京都江東区
2023年11月20日 午前2時00分
陳明遠は、ハンドルを握っていた。
いつから握っていたのか、思い出せなかった。
フロントガラスの向こうに、夜の海が広がっている。
倉庫街の灯りが、黒い水面に細長く揺れていた。
後部座席に、あの子が座っていた。
施設への移送を待つあいだ、あの子は一時保護所に預けられていた。
一時保護所の職員は、家庭裁判所の決定書を見て、あの子を付添人に引き渡した。
決定書の判は、本物に見えた。
陳自身が、そう見えるように用意した――はずだった。
本社の指示は、単純だった。
値をつけろ。連れてこい。
審判のあと、面会の部屋で、陳はあの子に小さな端末を渡した。
本社が組んだ、首輪つきのログインの機械だ。
中で何をしても、本社の支配域から外へは出られない。
どれだけの値がつくのか、まずは檻の中で測る。
そういう手はずだった。
それから毎晩、陳は報告のために向こう側へ入った。
そのたびに、耳の奥で声がした。
女のような、男のような。
子どものようで、大人のような。
耳元で甘く囁かれているようで、心地よかった。
「陳さん」
後部座席から、あの子が言った。
ルームミラーの端で、あの子の膝が小刻みに揺れていた。
「陳さんの会社、ぼくのこと、飼えると思ったんでしょ」
陳は答えようとした。
声が、出なかった。
「首輪、ついてたね。 あれ、三日で外したよ。 つまんなかったから」
あの子は、窓の外の海を見た。
「ぼくね、飼い主はいらないの。 ――観客がいいの」
車が、岸壁の端で止まった。
陳は、自分が止めたのかどうかもわからなかった。
後ろの扉が開いて、閉まった。
あの子が、運転席の窓の外に立っていた。
白い手袋を、はめていた。
あの子は帽子を持ち上げるまねをして、一礼した。
舞台の上の手品師が、観客にするように。
「最後の演目。 ――水槽からの脱出」
陳の右足が、アクセルを踏み込んだ。
止めろ、と頭のどこかが叫んでいた。
足は、聞かなかった。
車が、岸壁を越えた。
水面にぶつかる衝撃。
黒い水が、フロントガラスを覆っていく。ドアは開かなかった。鍵をかけたのは、陳自身の指だった。
水が、胸まで上がってくる。
閉じていく視界の端で、岸壁の上の小さな影が、手を振っていた。
耳の奥の声が、楽しそうに言った。
――はい、拍手。
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年11月24日 午前10時30分
車は、夜が明けてから引き上げられた。
運転席に、陳明遠。
シートベルトは締められたまま。ドアの鍵は、内側からかけられていた。
後部座席には、誰もいなかった。
家庭裁判所は、そんな決定を出していなかった。
霊峰公司は、陳明遠が先月で退職している、とだけ答えた。
あの子の行方は、わからなかった。
岸壁の防犯カメラには、倉庫街の暗がりへ歩いていく小さな背中が残っていた。
顔認証は、三つ先のカメラで、別の子どもの名前を返した。
その次のカメラでは、また別の名前を。
あの部屋から押収した機材は、連れ出された夜のうちに、中身が空になっていた。
名前のない子どもは、記録の上で、何百人もの子どもに散っていた。
宇垣慎の報告書は、三日目に入っていた。
題は、「フーディーニ」。
向こう側で仕込み、こちら側で殺す手口。
手を下すのは、いつも標的の身近な者。
仕組んだ者には、手が届かない。
意識への暗示を、罪として問う法律がないこと。
劇場型の予告と、それを見る観客。
観客の一部が、支持者になっていくこと。
三つ目の演目では、その観客そのものが、標的に選ばれていたこと。
生命線を守ってきた、ハクティビストたちの掟。
その掟が、破られたこと。
掟を守る者と、破った者を支持する者とに、彼らが割れたこと。
仕組んだ者が、十四歳に満たない子どもであったこと。
その子に、名前がないこと。
その子に、国より先に値をつけた企業があったこと。
値をつけた者が、その子の最後の演目になったこと。
最後に、一文だけ。
――向こう側に最適化された怪物は、国の手にも、企業の手にも余る。
配布先の欄には、官邸と、関係省庁の名前が並んだ。
家庭裁判所の名は、なかった。
「バトルランナーでも観直しますか、室長」
来栖が、戸口から報告書の題をのぞき込んでいた。
「あれより先に、同じことを書いた男がいる」
宇垣は、目を上げなかった。
来栖は小さく笑って、戸口から消えた。
足音が遠ざかってから、宇垣は万年筆の蓋を外し、私見を一行だけ書き添えた。
――シェクリイの観客は、画面の向こうの死に熱狂した。
我々の最悪は、観客が、自分は観客席にいると信じていることである。
華園夏菜子宅
東京都杉並区
2023年12月1日 午後11時00分
縫いかけの外套が、机の上に広がっていた。
深い緑の布に、銀の糸で縁取りをした長い外套。
一針ずつ、手で縁を整えていく。
夏のあいだに型紙だけ引いて、ずっと手をつけていなかった。
端末が、短く震えた。
椿からだった。
――冬のイベント、出る……?
――冬、新作……? 何やるの……? ウヘヘ……
すぐに、もう一通。
――夏のは、表情が硬かった……。 列の三番目からだと、よく見えるの。
――あと、右の羽根の付け根、縫い目が甘かった。 図、描いて送ろうか?
華園は声を出して笑った。
夏から、ほんとに笑ったのはこれが初めてだったかもしれない。
夏の即売会には、約束どおり出た。
撮影の列の三番目で、椿はいつもの位置に立っていた。
華園は、うまく笑えなかった。
湖の骨が上がる、四日前のことだった。
――出る。 図は、いらない。
送信してから、少しだけ考えて、もう一行足した。
――ありがと、椿。
返事は、すぐに来た。
言葉ではなく、泣いている顔の絵文字が、画面いっぱいに並んでいた。
華園は端末を置こうとした。
画面の隅に、ニュースの見出しが一つ、流れてきた。
おすすめ、と書いてあった。
白い手袋の、小さな画像。
あの動画だった。
もとの動画は、とうに消されている。誰かが、また上げ直したものだった。
あの子の行方は、まだわからない。
再生数の数字が、華園の見ている前で、一つ、増えた。
華園は、その数字から目を上げた。
画面を消した。
スタンドの横の写真立てで、朔が照れくさそうに手を振っていた。
あの夜から、寝る前に一度だけ「おかえりの灯」を開くのが癖になった。
――姉さん、こっちは静かだよ。
あの一行のあと、弟の名前の書き込みは、一つも増えていない。
増えないことが、増えることより怖いときもある。
机の上の、縫いかけの外套を手に取った。
針に、糸を通した。
部屋の外の、どこかの部屋で。
誰かが、まだ、あの動画を見ていた。
インター・ヴァーチュア
所在不明
ヴァーチュア時間 Cycle-02/23:00
現実時間 2023年12月1日 午後11時30分
―― 接続中 経過 不明
真っ白な部屋だった。
床も、壁も、天井もない。
どこまでも白いだけの場所に、小さな影が一つ、あぐらをかいて浮かんでいた。
シルクハット。
燕尾服。白い手袋。
影のまわりに、窓がいくつも開いていた。
一つ目の窓では、白い手袋の動画が流れていた。
再生数の数字が、また一つ増えた。
影は、くすくす笑った。
二つ目の窓に、女の顔があった。
華園夏菜子。
警視庁、警部補。
その隣に、もう一枚。銀髪の騎士の衣装で、とびっきりの笑顔を浮かべた、同じ顔。
「おねえさん、こっちの顔のほうが好きだなぁ」
三つ目の窓では、浄水場の記録が流れていた。
大きな機械の照準の中で、子どもの顔が笑う。
照準は、一拍、止まる。
影は、その一拍を、何度も巻き戻した。
「おじさん、また止まるかなぁ」
四つ目の窓は、文字だった。
題は、「フーディーニ」。
最後の行に、万年筆で書き添えた一行。
――我々の最悪は、観客が、自分は観客席にいると信じていることである。
「わかってるじゃん」
影は、うれしそうに足をばたつかせた。
じっとしていられない、というふうに。
五つ目の窓には、薄紫の蝶の仮面。
六つ目の窓には、鼻歌まじりに記録を眺める、ワイシャツの袖をまくった男の背中。
影は窓から窓へ、目を飛ばした。
飛ばして、戻って、また飛ばした。
「電現室……」
その言葉を、口の中で転がすように言った。
「たのしかったなぁ。 ――ねぇ、つぎは、もっと大きい舞台にしよう。 お客さんも、もっといっぱい呼んで」
影は、指を鳴らした。
窓が、一つずつ閉じていく。
最後に残ったのは、二つ目の窓。華園の顔だった。
影は、その窓に向かって、小さく手を振った。
「また遊ぼうね、電現室」
白い手袋が、手を振った形のまま、止まった。
「――またね」
最後の窓が、閉じた。
白い部屋には、もう、誰もいなかった。
――――
ケース3 フーディーニ 終




