フーディーニ/02
喫茶店
東京都千代田区外神田
2023年7月23日 午後3時00分
電気街の裏通りに、その喫茶店はあった。
表の通りでは、メイド服の呼び込みが日傘の下で汗をぬぐっている。
店の中は、時間が止まったように暗かった。
焦げ茶色の木の壁。
赤いビロードの椅子。
古いスピーカーから、音の割れたクラシックが流れている。
華園夏菜子はいちばん奥の席で、アイスコーヒーの氷が溶けていくのを見ていた。
約束の時刻を、十五分過ぎている。
来ないかもしれない、と思った。
来なくても、文句は言えない。
華園は弟の朔が入院してから少しして、公安部外事四課からサイバー攻撃対策センターに希望異動した。
完全に私的な理由だった。
そこに、今年の初めまでいた。
公安では一般的だが、華園は、サイバー攻撃対策センター時代にも一人の協力者を使った。
名前も顔も明かさずに、向こう側の裏口を渡り歩くハッカーだった。
ハンドルネームは、ライラック。
ライラックの寄こした情報で、身代金ウイルスを貸し出す連中が、組織ごと挙げられた。
その中の一人が、ライラックの古い仲間だったと知ったのは、あとのことだ。
華園は、それきり連絡を絶った。
扉の鈴が鳴った。
入ってきたのは、若い女だった。
寝不足の目。袖の余った灰色のパーカー。
肩にかけた大きなトートバッグには、缶バッジがびっしり並んでいる。
前髪の一房だけが、薄紫に染めてあった。
女は店の中を見回し、華園を見つけると、まっすぐ歩いてきた。
向かいの椅子に腰を下ろす。
目が合った。
「ウヘヘヘっ……カナン様の新作、まだ? リリス様の次……ずっと待ってる……」
華園はテーブルに額をつけたくなった。
「……鈴ヶ森さん」
「椿でいいよ。 夏の即売会、もう三週間切ってるんだけど。 告知、まだ出てないよね。 新作、ある? ない? あるなら衣装の色だけでも――」
「仕事の話をしに来たの」
「知ってる。 だから先に聞いたの。 仕事の話のあとじゃ、聞きにくい…… ウヘヘ……」
鈴ヶ森椿は店員を呼び止めて、クリームソーダを頼んだ。
椿は、知っている。
公安の警部補と、界隈でそれなりに名の知れたレイヤーが、同じ人間だということを。
初めて会ったとき、華園は名前も所属も伏せていた。
だが椿は、華園の顔を三秒見ただけで言ったのだ。
――去年の冬の即売会、壁ぎわの撮影の列で、見た。
そして、コスネームの「カナン」を口にして、スマートフォンの画面を向けた。
銀髪の騎士の衣装で、とびっきりの笑顔を浮かべた華園が、そこにいた。
「ウヒっ。 推しだから……。 画像だけでご飯が食べれる。 ウヘヘ……」
推しの顔は、変装したくらいでは見間違えない。
それが、椿の言い分だと、華園は思うことにした……。
撮影の列では、椿はいつも同じ位置に立っている。
列の三番目。
差し入れは、毎回重い。
手縫いのお守りと、手書きの便箋が三枚。
便箋の三枚目には、たいてい衣装の縫い目の甘さが、図つきで指摘してある。
華園にとって、これほど怖い相手はいなかった。
仕事の顔より、趣味の顔を握られている。
(……公安の内規に、こういう場合の決まりはないけどさぁ)
クリームソーダが運ばれてきた。
椿は急に眉を下げて、アイスをスプーンでつつきながら、言った。
「で。 あたしを切った人が……なんの用?」
椿の目の下の黒いクマが、表情をより際立たせる。
華園は、すぐには答えられなかった。
「……あのときのことは」
「謝んないでいい……。 謝られたら、許さなきゃいけなくなる……」
椿はアイスを一口食べた。
「あたしも、わかってて渡したんだし。 あいつが何をやってたか、知ってたから。 ……ただ、そのあと連絡が来なくなったのは、ちょっと泣いた……。 三月の即売会でも、列の三番目から見てたのに、ずっと目をそらされてたし……」
華園はストローを指でつまんだまま、言葉を探した。
探しても、見つからなかった。
だから、言った。
「力を貸してほしいの」
「推しに頭下げられるの、地獄なんだけど……。 いや……ご褒美かな? グヘヘ……」
椿はスプーンを置いた。
そして、天井を仰いだ。
「――フーディーニでしょ……」
華園が手帳を開く前に、椿が言った。
声が、さっきより一段低い。
「知ってるの?」
「名前だけ……。 一人なのか、何人かで使い回してる看板なのか、誰も知らない。 でも、界隈じゃ、その話しかしてない」
椿はクリームソーダのグラスを、指で少しだけ遠ざけた。
「あたしたちにもね……掟がある……。 誰が決めたわけでもないけど、みんな守ってる」
椿は指を一本立てた。
「生命線には触らない…… 病院、電気、水、信号。 ……どんなに腐った会社でも、そこを止めたら、死ぬのは関係ない人だから…… 絶対に手を出さない」
もう一本。
「人の頭にも入らない、いじらない……。 やれるかどうかじゃなくて、やってはいけない…… 覗けても、覗かない。 書き換えられても、書き換えない」
椿は二本の指を、ぱたりと下ろした。
「フーディーニは両方やった。 ――誰かが、掟を破った……」
「あなたたちの、仲間?」
「わかんない……。 あたしたちは、互いの本当の名前も顔も知らないから……」
椿は少し考えて、言い直した。
「でも、あれは、あたしたちと同じやり方だよ。 それも、とてつもなく、凄腕のコードキャスターのやり方……」
華園は手帳に、その言葉を書きつけた。
「説明して。 一課の刑事に話すつもりで」
「えー。 ……じゃあ、一回だけ……」
椿はテーブルの上で、両手の指を組んだ。
「ふつうの人は、向こう側に入っても、自分の体の形で動くでしょ……。 歩いて、触って、乗り物を動かして。 あたしたちは、その下に入るの。 壁とか、扉とか、看板とか、そういう物の中身――データの中に、意識ごと潜る」
「潜って、どうするの」
「思い描くんだよ……。 ここに扉があったらいいな、って強く思うと、壁が扉になる……。 鍵が溶けろ、って思うと、溶ける……。 頭の中の絵が、そのまま形になる……。 だから、想像力の強いやつほど、強い」
「鍵は」
「持ってない…… 会社も国も、あたしたちには鍵を配らないし……そもそも、要らない」
椿はボソボソと、それでいて早口で話すので、口の中が渇いたのかクリームソーダを啜って、ひと息ついてからまた同じ調子で続けた。
「グレート・オズ……オズニアックが、説明書を全部公開してるもん……。 部品もそこらの電気屋で全部揃うんだ……。 知識さえあれば、インターフェイスは、本当は誰にでも作れるんだよ。 あたしたちは登録されてない機械で、ログも残さない……」
椿は組んだ指をほどいて、三本、立てた。
「あと、限界がある。 インター・ヴァーチュアでデータに潜るには、どんなにすごいやつでも、同時に処理できるのはだいたい三つまで……」
「なぜ?」
「人間の脳はシリコンじゃないもの……。 オーバークロックなんてやったら、脳味噌が沸騰するよ……。 でっ、それやって向こうで頭が焼き切れて、こっちに戻ってこられなくなったヤツも結構いるし……」
(……朔)
華園は、一瞬よぎった弟の顔を、思考の外へ追いやった。
「どうやっても……三つ」
「そう…… だから、ものすごい数の何かが一度に動いてたら、それは、どこかに何人かが組んで、それが群れを動かしてるってこと……」
椿は、自分の言葉に、少しだけ笑った。
「ウヘヘ……向こうじゃ、あたしたちは魔法使い……。 こっちじゃ、ただの引きこもりだけどね……」
華園は、ペンを置いた。
「十分に発達した技術は、魔法と見分けがつかない」
椿の目が、急に輝いた。
「出た。 それ、決め台詞だよね……」
「……誰の?」
「あなたの?」
「……どういうこと?」
「撮影のとき、ポーズを決める前に、いつも小声で言ってる……。 列の前の方の人は、みんな知ってるよ、エヘヘ……」
華園は手帳を閉じた。
顔が熱かった。冷房の効いた店の中で、そこだけが。
椿はクリームソーダの残りを、ストローで一気に吸い上げた。
「いいよ…… あたしも手伝うよ……。 ――掟を破ったやつは、あたしたちの手で見つけないといけない……」
グラスの底で、溶けかけた氷が鳴った。
「そのかわり。 夏の即売会、出てね。 いつもの場所で見ていい? グヘヘヘ……」
三叉電気 川崎試験場
神奈川県川崎市
2023年7月24日 午前10時00分
来栖恭介は鼻歌まじりに機材の山をかき分けていた。
「これが、秘書さんの機械です。 警察から、ようやく借りてきました」
作業台の上に、ゴーグル型のヘッドギアと、手首用のバンドが並べてあった。
局長の秘書、三上沙織が、毎日の業務で向こう側に入るのに使っていた一式だ。
百田多聞は来栖の後ろに立っていた。
「中身は、壊されてないんですか」
「壊されてませんよ。 壊す必要がないんです。 何も盗まれてないし、何も入れられてない。 ……ふつうに調べたら、まっさらです」
来栖はケーブルをつないで、画面に記録を流しはじめた。
「ただね。 こういう機械は、ログインしてる人の脳の波と、向こう側の時計を、ずっと合わせ続けてるんですよ。 同期の経路、って呼んでます。 波と時計がずれると、気持ち悪くなりますからね。 その合わせ方の記録が、ずーっと残る」
画面に、細い線が何本も走っていた。
ほとんどの線は、同じ高さで、同じ間隔で、穏やかに揺れている。
「七月二十一日の、午後。 秘書さんが、来週の日程を組み直してた時間です」
来栖は記録を送った。
ある一点で、線の一本が乱れた。
鼻歌が、止まった。
来栖は記録を戻し、もう一度、同じところを流した。
さらにもう一度。
「……ここ」
穏やかな線の中に、別の線が一本、割り込んでいた。
同期の経路に、外から何かが差し込まれている。
「波と時計を合わせる隙間に、誰かが、自分の波を乗せてます。 ちょうど、人の話し声みたいな形で」
「声、ですか」
「声です。 耳から入る声じゃなくて、頭の中に直接置かれる声。 本人には、自分が考えたことと、区別がつかないかもしれない」
来栖は画面に顔を寄せた。
「これ、人間がやってますよ」
「機械じゃないんですか」
「機械なら、もっと行儀がいい」
来栖の声から、軽さが消えていた。
「同じ形の波を、同じ間隔で、同じ強さで送る。 機械はそうします。 でも、これは違う」
百田は割り込んだ線を見た。
跳ねて、止まって、また跳ねる。
一つの波が終わる前に、次の波が始まっている。
強くなったかと思えば、ふいに途切れる。
途切れたあとで、思い出したように、また来る。
落ち着きのない線だった。
(……あの動画と、同じだべや)
白い手袋。一つの動きが終わる前に、もう次の動きが始まっている。
間がない。
待てない。
「来栖さん」
「はい」
「こういう線を書く人間に、心当たりは」
来栖はすぐには答えなかった。
画面の線を、指先でなぞった。
「心当たり、ねぇ」
来栖はもう、いつもの顔に戻っていた。
「こんな線を書く人がいるなら、ぜひ会ってみたいですよ。 ……いやぁ、ほんとに」
顎に手を当て、「ふーん」と唸り声を上げる。
「なんというか、実に自然に不自然をねじ込んでるというか……。 アレですよ、こんなことができるのはナントカと紙一重ってやつです。 こいつは、とんでもないウィザードだ」
言い終えると、鼻歌が、また始まった。
さっきとは、別の曲だった。
百田はしばらく、来栖の背中を見ていた。
それから、もう一度、画面の線に目をやった。
跳ねて、止まって、また跳ねる。
遊んでいる線だ、と百田は思った。




