フーディーニ/01
ワンルームマンション
東京都中野区
2023年7月21日 午後11時50分
冷房の風が、首筋に当たっていた。
外は、夜になっても三十度を下回らない。
窓を閉めきった六畳の部屋で、若者は布団に寝転がったまま、スマートフォンの画面を親指で弾いていた。
料理の動画。猫の動画。
誰かの失敗をまとめた動画。
明日も朝から、向こう側の物流倉庫で仕分けの仕事だ。
会社から借りた機材で、この部屋から入る。
眠る前の三十分だけが、自分の時間だった。
次に流れてきた一本で、指が止まった。
真っ白な画面だった。
その真ん中に、白い手袋だけが浮かんでいる。
手品師がはめる、あの薄い手袋だ。
手首から先しかない。
手袋が、指を鳴らした。
画面の奥から、手書きのような文字が浮かんでくる。
――今夜の演目。
――拘束衣からの脱出。
声がした。妙に高い、加工された声だった。
『みなさん、こんばんは。 今夜のお客さまは、この人です』
手袋が、一枚の写真をつまみ上げる。
灰色の背広の、五十代の男。
名前が添えられていた。
労働行政の局長、藤代一臣。
『この人は、四月に、えらい紙を一枚出しました。 向こうで十六時間はたらいても、こっちの時計で八時間ってことにする紙です』
手袋が、次々に紙をめくっていく。
会食の日付。
料亭の名前。
振り込みの記録。
黒く塗られた行の、塗り残し。
『それで、たくさんの人が、たくさんはたらいて、たくさん倒れました。 ――だから、今夜、この人は脱出します。 拘束衣から』
最後に、手袋が小さく手を振った。
『またね』
動画は、そこで終わった。
画面の下で、コメントが流れていた。
「マジ?」
「これガチ?」
「先週の『燃える箱』のやつ、マジで死んだらしいぞ」
「やれ」
「やれ」
若者は、鼻で笑った。
たちの悪い作り物だと思った。
だが、指は勝手に動いていた。
――やれ。
送信してから、少しだけ、胸がすっとした。
そのとき、冷房が止まった。
部屋の明かりが消える。
スマートフォンの画面だけが、闇の中に浮かんだ。
窓の外を見る。
向かいのマンションも、その向こうの通りも、信号も、一斉に暗くなっていた。
蒸し暑さが、すぐに戻ってくる。
若者は暗闇の中で、もう一度さっきの動画を開いた。
再生数が、また一つ増えた。
局長公邸
東京都内
2023年7月22日 午前0時10分
停電の書斎は、蒸し風呂のようだった。
三上沙織は局長の椅子の背後に立っていた。
いつからそこに立っていたのか、思い出せない。
耳の奥に、まだ声が残っている。
向こう側で、来週の日程を組み直していたときに聞いた声だ。
女のような、男のような……。
子どものようにも聞こえるが、話し方はまるで大人のようで、ずっと楽しそうだった。
何より、耳元で甘く囁かれているようで心地よかったのだけがやけに印象に残っている。
――帰っちゃだめだよ。
――今夜は、演目があるんだから。
気がつくと、三上の両手は、紺のネクタイを固く握りしめていた。
ネクタイの先は、椅子に座った藤代の首に回っている。
藤代は、もう動かなかった。
三上は自分の手を見下ろした。
震えていなかった。
それが、いちばん怖かった。
廊下の向こうで、誰かが懐中電灯をつけた。局長の妻の声が、夫の名前を呼んでいる。光の輪が、書斎の床を這ってくる。
三上は、逃げようとは思わなかった。
耳の奥の声が、楽しそうに言った。
――はい、拍手。
電界特捜
電現室-DENGENSHITSU-
―喪失戦線―
ケース3 フーディーニ
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年7月22日 午前10時00分
地下二階の部屋にも、外の暑さは降りてきていた。
古い配電盤の前で、扇風機が首を振っている。
「一件目は、先週の金曜日だ」
宇垣慎は手帳を開いたまま言った。
「請負の大手の役員、黒須隆之。 地下駐車場で、乗っていた車ごと燃えた。 扉を閉めて、火を放ったのは運転手の宮下浩。 その前の夕方に、動画が上がっていた。 演目の名は、燃える箱からの脱出」
華園夏菜子は壁の地図から振り向いた。
「二件目が、ゆうべ」
「局長の藤代一臣。 手を下したのは、秘書の三上沙織。 動画の演目は、拘束衣からの脱出」
宇垣はページをめくった。
「運転手も秘書も、取調べで同じことを言っている。 向こう側で、声を聞いた、と」
宇垣は続けた。
「黒須の車は燃え尽きて、隣の車にも火が移った。 駐車場の係員が一人、ひどい火傷を負っている。 ……動画は、どちらも数時間で消された。 だが、合わせて三百万回は見られている」
「三百万人が、人が死ぬのを、予告つきで見に来たってことですか?」
「見た者の大半は、作り物だと思っていたそうだ。 ……少なくとも、そう言っている」
「上げたのは」
「アカウントの名前は、毎回違う。 ただ、最後の画面に、いつも同じ署名が出る」
宇垣は手帳を華園の方へ向けた。
万年筆の几帳面な字で、一語だけ書いてあった。
――フーディーニ。
「ゆうべの停電は」
「都内の一区画が、三時間止まった。 送電の制御空間で、誰かが線を切っている。 ……熱中症で、年寄りが四人亡くなった。 部屋の中で」
扇風機の音だけが、しばらく続いた。
「警察は、ハクティビストの線で動いている。 だが、国の側にも死者が出た」
宇垣は万年筆を置いた。
「身内に被害が出て、やっと、上が我々を思い出したようだ」
華園は地図に目を戻した。
(黒須と、藤代)
春の、あの接待。笑ったまま死んでいった高官たちの席を仕切った、請負の大手。それに、四月一日の紙一枚。
あのとき、誰も裁けなかった者たちだ。
(――誰かが、わたしたちの代わりに裁いてる。それも、最悪のやり方で)
2023年7月22日 午後2時00分
百田多聞は自分の机で、二本の動画を繰り返し見ていた。
音は消してある。
白い手袋が、指を鳴らす。
紙をめくる。
写真をつまむ。
切り替えが速い。
一つの動きが終わる前に、もう次の動きが始まっている。
間がない。待てない。
百田は動画の下の、上がった時刻に目をやった。
一本目は、夕方の五時すぎ。
二本目は、夜の十一時半。
(……どっちも、妙な時間だべや)
画面の手袋が、小さく手を振る。
――またね。
百田の頭の奥で、乾いた土の匂いがした。
照りつける日差し。
赤い土の道。
小銃を抱えた、背の低い影。
土埃にまみれた顔の中で、目だけが白く光っていた。
こちらを見上げた目が、笑っていた。
百田は、画面を止めた。
もう一度、最初から再生する。
今度は、一コマずつ送る。
手袋が、写真をつまみ上げる瞬間。
指先が、ほんのわずかに余っていた。
中の手が、手袋より一回り小さいみたいに。
百田は机の上の紙に、二つの時刻を書きつけた。
五時すぎ。十一時半。
その横に、もう一行、書きかけて、やめた。
「何見てるの」
向かいの机から、華園が聞いた。
「……いえ」
百田は、画面から目を上げた。
手袋は、手を振った形のまま、白い画面の中で静止していた。




