ハイ・ソサエティ/07
灰谷修一宅
神奈川県横浜市鶴見区
2023年3月25日 午前0時28分
シートの上で、灰谷修一が、大きく息を吸った。
ヘッドギアの縁から、汗が一筋流れる。
灰谷は震える手でヘッドギアをむしり取り、身を起こした。
逃げ切った、という顔だった。
その顔が、凍った。
狭い部屋に、知らない人間が七人いた。
壁際に、神奈川県警の捜査員が六人。
シートのすぐ脇に、パンツスーツの若い女が一人、腕を組んで立っていた。
「おかえりなさい」
華園は言った。
「灰谷修一さんね。 不正指令電磁的記録作成の容疑で、逮捕状が出てます」
灰谷の目が、部屋の中を泳いだ。
機材の山。
壁の画面。
窓の遮光の布。どこにも、逃げ道はなかった。
向こう側からの逃げ道は――こちら側の、この部屋に通じていた。
「……あれは、薬じゃない」
灰谷はかすれた声で言った。
「法律の、どこにも書いてない。 何も入れてない。 あれは、ただのプログラムだ」
「知ってる」
華園は令状を灰谷の目の前に広げた。
「だから、ウイルスの罪で来たの」
灰谷は、令状の文字を見つめていた。それから、乾いた笑い声を一つ漏らした。
「……俺が作ったものは、いつも誰かの名前で売られた」
誰に言うともない声だった。
「大学でも、下請けでも、今の会社でも。 論文には教授の名前、機体には会社の名前、疲れ止めには商品の名前。 ……あれだけは、違った。 あれだけは、俺の書いたとおりに、人を変えた」
「人を、殺したのよ」
「しあわせにしたんだ」
灰谷は、まっすぐに華園を見た。
「あの人たちは、笑ってただろう」
華園は、答えなかった。
捜査員が、灰谷の両腕を取った。
灰谷は、抵抗しなかった。
押収は、夜明けまでかかった。
納品の記録は、すぐに見つかった。
灰谷は律儀な男だった。
いつ、どこへ、どれだけ。
全部、帳面のように残してあった。
送り先は、聞いたこともない会社の名前だった。
その会社の先にも、また別の会社がある。
さらにその先にも。
何重にも重ねられた会社の名前を、華園は一つずつたどっていった。
六つ目で、記録は途切れていた。
請負の大手の名前は、どこにもなかった。
翠月の白髪まじりの男の名前も、先生の名前もなかった。
ただ、途切れる直前の一行に、英字の社名の、頭の数文字だけが残っていた。
Graf――。
その先は、消されていた。
華園はその数文字を、長いこと見ていた。
三叉電気 第二開発部 実証試験室
神奈川県川崎市
2023年3月28日 午前10時15分
来栖恭介は実証試験室の自分の席で、報告書の最後の章を埋めていた。
対CF戦闘の、実証データ。
グラフトン重工のエンフィールドの性能。
元戦闘機乗りたちの編隊の癖。
それを、回転翼乗りの低い飛び方が崩していく記録。
企業の武装化の、実例。
欧州資本。
日本の操縦者。
日本の土地の、すぐ隣で。
そして、銀の線のプラグインで強めた操縦の、記録。
機体と体の境目が消える、その瞬間の揺れ方。
来栖は、そこだけを三度、巻き戻した。
「企業が、兵隊を持ちはじめた」
来栖は、画面の中の機体に向かってつぶやいた。
「……値札、どれくらいになりますかねぇ」
報告書の宛先は、三叉電気の、さらに上の会社だった。
送信のボタンを押す前に、来栖は、もう一つのファイルを開いた。
坂下の装置から抜き出した、あのプラグインの、いちばん古い層。
書き手も、書かれた年も違う、誰かのコード。
来栖はそのファイルを、報告書には添えなかった。
誰にも見つからない場所に、そっとしまった。
それから、送信のボタンを押した。
防衛省 統合幕僚監部
東京都新宿区市谷本村町
2023年3月29日 午後3時00分
机の上に、写真が四枚並んでいた。
灰色の土地に落ちた、角張った機体。四機とも、同じ型だった。
「数字は、きのう届いた。 今度も、君より一日早い」
草鹿は写真の一枚を、指で押さえた。
「乗っていた四人の名前も、わかった。 ……一人は、まだ目を覚まさん。 三年前まで、この国の空を飛んでいた連中だ。 国の金で育てた戦闘機乗りが、よその国の会社の機体に乗って、うちの実証機に落とされた。 ……笑えん話だよ」
「落としたのは、そちらが置き場に困っていた男です」
「だから、来てもらった」
草鹿は写真から指を離した。
「あれを、返してもらいたい。 乗り手が足りない。 引き抜かれる一方でね」
「返せば、また周りが困るのでは」
「困らせておけばいい、という声が出はじめた」
宇垣慎は、鞄から紙を一枚出して、写真の横に置いた。
「あの四人のうち三人は、薬ではない薬を入れて飛んでいました。 配ったのは、隊長です。 ……そちらの構想の乗り手に、同じものが配られないと、言い切れますか」
草鹿は、その紙を読まなかった。
「規制の話は、官邸でやってくれ」
「やっています。 ですから、それまでは、こちらでお預かりします」
短い沈黙のあと、草鹿は写真を一枚ずつ裏返した。
「……夏までだ」
エレベーターを待つあいだに、宇垣は手帳を開いた。
――貸したものを返せと言うのは、貸した側の勝手だ。
借りたものを守るのは、借りた側の仕事になる。
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年3月30日 午前10時30分
宇垣慎は、奥の机で万年筆を走らせていた。
報告書の題は、「モバイルクラック」。
業務用の疲れ止めの、改造。
体の中に何も残さない、薬ではない薬。
仮想の時計で効き、現実の体を壊す。
現行の法律では、薬として取り締まることができないこと。
製造の拠点は、出入り口のポータルを破壊して封鎖。
記録は押収、在庫のデータは消去。
製造者は逮捕。
販売の経路は、六つ目の会社で途切れた。
規制の必要。
それから、一文だけ。
――治安を請け負う企業が、自らの判断で武装し、それを自衛と称しはじめた。
配布先の欄には、官邸、関係省庁、主だった企業の名前が並んでいた。
「ロボコップでも観直しますか、室長」
いつの間にか、来栖が戸口にもたれていた。
「あれは、警察を会社が買う話だ。 ……もう、映画じゃない」
宇垣は、万年筆を止めずに言った。
来栖は「なるほど」とだけ言って、階段を上がっていった。
最後の行の下に、宇垣は一行ぶんの余白を残していた。そこに、私見を書き入れた。
――ハクスリーに倣えば、最悪の事態は、これが取り締まられないことではない。
配られることである。
2023年4月1日
【通達】
本年四月一日から、仮想空間における業務の労働時間は、現実の時間により算定するものとする。
【通達終了】
差出人の欄の局長名は、能勢正臣ではなかった。
配布先の一覧は、長かった。
報道は、ない。
同じ日、志賀透は、都内の病院から、地方の療養施設へ移された。
移った先の名前は、どの記録にも残っていない。
同じ日、宇垣の報告書は、どの机の上でも、まだ開かれていなかった。
物流倉庫
千葉県市川市
2023年4月14日 午前2時00分
倉庫の天井は高く、照明は半分しか点いていなかった。
壁際のシートの列の、端から三つ目。
坂下竜二が使っていたシートに、若い男が腰を下ろした。
先週、別の現場から回されてきたばかりの男だった。
坂下竜二は、市川の病院で、まだ目を覚ましていない。
男は首の付け根にケーブルをつなぎ、膝の上の装置の電源を入れた。
小さな画面の隅に、アイコンが一つ、浮かんだ。
白い、カプセルの形をしていた。
会社が入れた、新しい疲れ止め。前のより、効きがいいと評判だった。
男は、少しだけ迷った。
それから、指先で、それに触れた。
首の付け根が、じんわりと温かくなった。
世界の色が、一段、明るくなる。
疲れが、遠くへ引いていく。
「……これで、もう一晩いける」
男は目を閉じた。
体は、ここに置いたまま。
――――
ケース2 ハイ・ソサエティ 終




