ハイ・ソサエティ/05
物流倉庫
千葉県市川市
2023年3月24日 午前1時30分
三晩続けて、百田は夜の倉庫に通っていた。
休憩所の隅の長椅子が、百田の定位置になっていた。
誰も、何も聞いてこない。
夜勤の現場では、知らない顔が一人増えても、誰も気にしなかった。
壁際のシートの列の、端から三つ目。
坂下竜二が、首にケーブルをつないで横たわっている。
その体が、跳ねた。
一度。それから、もう一度。
弓なりに反った背中がシートに落ち、坂下の口の端から、泡の混じったものがあふれた。
百田は、もう走っていた。
「坂下さん!」
膝の上の装置の画面に、赤い文字が出ていた。
接続が、向こうから断たれている。強制排出だった。
百田は坂下の顎を上げ、気道を確かめ、横向きに寝かせた。
部隊で叩き込まれた手順を、体が勝手になぞっていた。
「救急車を!」
隣のシートの男が、目を開けた。
坂下を見た。それから、何も見なかったような顔で、また目を閉じた。
その隣も、その隣も、そうだった。
現場の主任が、帳面を抱えて駆けてきた。
「またか……」
主任は救急に電話をかけ終えると、坂下ではなく、壁の時計を見た。
「おい、誰か坂下の分の荷、回しとけ。 朝までに出す便がある」
百田は主任を見上げた。
「人が、倒れてるんですよ」
「わかってるよ」
主任は疲れた顔で言った。
「わかってるから、回すんだ。 代わりは、いくらでもいる。 ……荷の方は、待っちゃくれねぇんだよ」
サイレンが近づいてくる。
百田は坂下の膝から滑り落ちかけた装置を、受け止めた。
小さな画面の隅に、白いカプセルの形のアイコンが、まだ光っていた。
百田はそれを、ジャケットの内側にしまった。
誰も、見ていなかった。
三叉電気 川崎試験場
神奈川県川崎市
2023年3月24日 午前9時00分
来栖恭介は、坂下の装置を作業台の上に置いた瞬間から、鼻歌をやめていた。
「やっと、現物ですね」
ケーブルをつなぎ、画面に数字の列を流していく。
華園はその背中の後ろに立っていた。
百田は、徹夜明けの顔で壁にもたれている。
「中身は、出先の作業員向けの、疲れ止めの業務プラグインです。 機器が体の脈や脳の波を拾ってる経路に乗っかって、眠気と疲れを少しだけ散らす。 まともな会社が、まともに売ってる品物ですよ。 ……本来は」
「本来は」
「安全のための上限が、まるごと外してあります。 効き目を何倍にも強めて、ついでに、脳の気持ちいいところまで手を伸ばすように書き換えてある。 しかも、向こう側の時計で効くように組んであるんです。 売り文句にするなら、こっちの一時間で、向こうでは二時間、ってとこですかねぇ」
「体の中に、何も入っていないのに」
壁際から、百田が言った。
「なぜ、血管が破れるんです」
「前に言ったでしょう。 体は、脳が信じた通りに動くって」
来栖は自分のこめかみを指で叩いた。
「脳が、しあわせだと信じ込む。 しあわせなときの体を、全開で作れと心臓に命令を出し続ける。 向こうで二時間、休みなしに。 ……そりゃ、どこかが破れます」
来栖は画面の数字の列を指でなぞった。
「業務用プラグインの、クラック版ですね。 モバイル用の、クラック」
華園が、口の中で繰り返した。
「モバイル、クラック」
「お、いいですねぇ、それ。 呼びやすい」
来栖は笑った。
だが、その笑いは、いつもより短かった。
来栖は画面をさらに奥へ送った。新しいコードの下から、古い層が顔を出す。
書き手も、書かれた年も違う、別の誰かのコードだった。
来栖の指が、その層の上で動かなくなった。
来栖は何事もなかったように、その層を閉じた。
そして、一番上の新しい層に戻った。
「書いた人の癖が、出てますね」
「わかるの」
「わかりますよ。 変数の名前の付け方とか、同じ間違いを毎回同じ形で直すとことか。 字の癖と同じです」
来栖は別の窓に古い論文の一覧を呼び出した。
「この癖、昔、大学の研究室の論文で見た覚えがあるんですよねぇ。 ……ああ、これだ」
画面に、一人の名前が浮かんだ。
灰谷修一。
「大学の研究室にいて、それからCFの開発の下請けを何年か。 今は、業務用プラグインの会社の技術者。 ……全部、一本の線でつながってますねぇ」
来栖は、もう一つの窓を開いた。
「それと、このクラック、効き目を足すたびに、同じ場所に問い合わせてるんですよ。 更新の受け取り先です」
来栖は、地図の上の一点を指で叩いた。
コトブキの柵の外、灰色の更地の、ある座標。
「ここに、何かありますねぇ」
来栖は楽しそうに言った。
百田には、来栖がその論文を、探すまでもなく知っていたように見えた。
電地現治安予備室
東京都千代田区霞が関 合同庁舎 地下二階
2023年3月24日 午後3時00分
「罪名は、薬じゃない」
宇垣が、一枚の紙を机に置いた。
「不正指令電磁的記録作成。 いわゆる、ウイルス作成の罪だ。 人の意図に反して動くプログラムを、正当な理由なく作った。 ……今、この国の法律で、あれに手が届くのは、これしかない」
宇垣は令状の端をそろえた。
「使った者が、自分で望んで入れたものだ。 それが意図に反する、と言えるかどうか。 公判では、争われるだろうがね」
令状だった。灰谷修一の逮捕状と、横浜の住まいを捜索するための令状。
「坂下さんの装置は、倉庫の会社から任意で出させた。 ……そういうことにしてある」
百田は、背筋を伸ばしたまま聞いていた。
「更地の方は」
華園が聞いた。翠月の奥座敷で聞いた言葉は、戻ってすぐ宇垣に伝えてあった。
「令状は、いらない」
宇垣は万年筆の蓋を閉めた。
「どの国の法律も、まだ届いていない土地だ。 令状を出す役所も、それを咎める役所もない」
宇垣は、百田の方を見た。
「向こうで撃たれたら、撃ち返していい。 それを咎める者はいない。 ……ただ、捕まえる権限は、誰にもない」
「先生、のことは」
「華園君」
それだけで、話は終わった。
「同じ夜に、両方やる」
宇垣は言った。
「華園君は、横浜へ。 百田君は、更地へ」
壁の配電盤の前で、来栖が手を挙げた。
「僕は川崎から見てます。 ……百田さん、声は半拍遅れますからね。 向こうでは、ほとんど一人だと思ってください」
百田は短くうなずいた。
灰谷修一宅
神奈川県横浜市鶴見区
2023年3月25日 午前0時00分
集合住宅の四階の廊下に、神奈川県警の捜査員が六人、息をひそめていた。
華園は令状を胸の内ポケットで確かめた。
夜間でも執行できる旨の一行が、裁判官の印の横に書き添えてある。
日の出を待っていたら、この男は向こう側で全部を片づけてしまう。
捜査員の一人が、目でうなずく。
管理人から預かった鍵が、静かに回った。
「警察です。 捜索令状により、立ち入ります」
返事は、なかった。
部屋の中は、機材の山だった。
床を這うケーブル。壁一面の画面。
窓には、遮光の布が鋲で留めてある。
奥の部屋のシートに、男が一人、横たわっていた。
首にケーブル。手首と足首にバンド。
ゴーグル型のヘッドギア。
灰谷修一は、向こう側にいた。
「起こしますか」
捜査員の一人が、ヘッドギアに手を伸ばした。
「触らないで」
華園の声が、思ったより鋭く出た。
「無理に外したら、死ぬわよ。 強制排出より、もっとひどいことになる」
捜査員の手が止まる。
華園はシートの脇のモニターを見た。
二つの時計が並んで進んでいる。
現実の時刻と、向こう側の経過。
向こうの数字は、こちらの倍の速さで増えていく。
ここからは、何もできない。
この男が自分で戻ってくるのを、待つしかない。
華園は壁の画面の一つに目をやった。
灰色の土地を、上から見下ろした絵が映っていた。
インター・ヴァーチュア
コトブキ 三叉電気 格納庫 → 境界外の更地
ヴァーチュア時間 Cycle-49/00:00
現実時間 2023年3月25日 午前0時00分
百田多聞 接続中 経過 現実15分/仮想現実30分
格納庫の扉が開くと、すぐ目の前に柵があった。
柵の向こうは、灰色の更地だ。
ワンテンタイガーのシートに跨り、膝でタンクを挟む。
セパレートハンドルを握り、体を前に倒す。
右のグリップを開ける。
機体が、柵を越えた。
コトブキの瓦屋根の灯りが、背中の方へ遠ざかっていく。
前には、何もない。平らな灰色の土地が、地平線まで続いている。
しばらく飛ぶと、灰色の中に、低い構造物が見えてきた。
倉庫のような箱が数棟。
その真ん中で、ぼんやりとした光が明滅している。
ポータルの光だった。
誰のものでもない土地に、本来、ポータルはない。
誰かが、勝手に立てたのだ。
半円球のモニタの端で、何かが動いた。
構造物の陰から、機体が上がってくる。
一機。二機。三機。四機。
見慣れない機体だった。
角張った装甲の継ぎ目が粗い。
ワンテンタイガーより一回り小さく、そのぶん身が軽そうだった。駆動音が、乾いて甲高い。
通信に、丁寧な声が入った。
『こちらは、当該区域の警備を委託された者です。 貴機は、当社の資産に不法に侵入しています』
一拍おいて、声は続けた。
『当社は、これより自衛措置を取ります』
(……自衛、か)
先月、自分が使った言葉だった。
今度は、向こうが使っている。
来栖の声が、半拍遅れて届いた。
『……グラフトン重工の、エンフィールド。 欧州の、まだ表に出てない機体ですよ。 百田さん、四機とも――』
来栖の声を、別の声がさえぎった。
さっきの丁寧な声ではなかった。
知っている声だった。
『よう、回転翼』
四機の先頭の機体が、機首を――いや、頭を、こちらに向けた。
『空で会ったな』




