ハイ・ソサエティ/04
インター・ヴァーチュア
コトブキ 白金区画 料亭「翠月」 送迎の控えの間
ヴァーチュア時間 Cycle-44/18:00
現実時間 2023年3月22日 午後9時00分
百田多聞 接続中 経過 現実1時間10分/仮想現実2時間20分
控えの間は玄関の脇の板敷きの部屋だった。
客を乗せてきた送迎の運転手たちが、壁際の長椅子で時間をつぶしている。
百田も、黒い背広に白い手袋で、その端に座っていた。
運転手の役は、宇垣が手配した。
ワンテンタイガーは、コトブキの格納庫に置いてきてある。
部屋の反対側に、男が四人いた。
料亭の警備だと、すぐにわかった。
揃いの紺の背広。
だが、背広より先に、身のこなしが目に入る。
座っていても背筋が椅子の背に触れない。
部屋に入ってきた者を、四人が四人、同じ速さで目で拾う。
(……軍の出だな)
男たちは互いを短い呼び名で呼び合っていた。
「ボルト、交代は」
「二十二時。 ラムと組む」
「ジンジャー、また甘いもん食ってんのか」
百田はその呼び方に覚えがあった。
航空自衛隊の操縦者は、無線で呼び合うための呼び名を持つ。
陸のヘリ乗りにも似たものはあったが、ここまで日常に染みついてはいなかった。
四人のうち、いちばん年かさの男が、百田の方を見ていた。
四十前後。短く刈った髪に、白いものが混じっている。
目尻に、強い光の中で目を細め続けた者の皺があった。
男は立ち上がって、百田の前まで来た。
「さっきから、窓の外の電線ばかり見てるな」
百田は、自分の目がどこを見ていたのかに、言われて初めて気づいた。
料亭の門の前を、黒い電線が二本、低く渡っている。
仮想の街の、ただの飾りだ。
「低く飛ぶ連中の癖だ。 あれに引っかけたら、落ちるからな」
男は口の端だけで笑った。
「回転翼だな」
「……昔の話です」
「昔の話なのは、俺も同じだ」
男はそれだけ言って、元の椅子に戻っていった。
インター・ヴァーチュア
コトブキ 白金区画 料亭「翠月」 奥座敷
ヴァーチュア時間 Cycle-44/19:20
現実時間 2023年3月22日 午後9時40分
華園夏菜子 接続中 経過 現実1時間50分/仮想現実3時間40分
空いた銚子を下げるふりをして、華園は奥へ続く廊下に入った。
客の座敷が尽きたところに、もう一つ、小さな座敷がある。
仲居たちが「奥」と呼んで、近づかない部屋だった。
襖が、指一本ぶん開いていた。
中に、あの白髪まじりの男がいた。
一人で座卓に向かい、耳元の通信に話している。
「――次の納品、量を増やしてもらえますか。 雪の間のお客様が、ずいぶんお気に召したようで」
通信の相手の声は、聞こえない。
男の相づちだけが、間を置いて続く。
「ええ、ええ。 更地の方の在庫で、今週は足りますね。 補充は、週明けで」
華園は盆を持ったまま、襖の陰で息を止めていた。
(……更地)
コトブキは柵で囲まれている。
その柵の外には、まだ誰のものでもない、灰色の更地が広がっている。
先月の出張のとき、華園はそれを自分の目で見た。
どの会社の規則も、どの国の法律も、まだ届いていない土地だ。
「それと、例の件。 ……ええ、月の間のことは、もう上の方で片がついています。 先生は、何も心配なさらずに」
先生。
華園はその一語を頭に刻んだ。
男が、通信を切る気配がした。
華園は音を立てずに襖から離れ、空の銚子を盆の上で鳴らさないよう、指で押さえた。
喉元の通信に、指が伸びかける。
百田に知らせたい。今すぐに。
だが、華園は指を下ろした。
ここは、向こうの回線だ。
今、更地と口にすれば、それを聞いた何かが、更地を片づけてしまう。
(戻ってから。 ――戻ってからよ)
華園は仲居の顔に戻って、廊下を引き返した。
インター・ヴァーチュア
コトブキ 白金区画 料亭「翠月」 送迎の控えの間
ヴァーチュア時間 Cycle-44/20:20
現実時間 2023年3月22日 午後10時10分
百田多聞 接続中 経過 現実2時間20分/仮想現実4時間40分
警備の交代の時刻を過ぎても、あの男は控えの間に残っていた。
男は自分の茶を持って、百田の隣に腰を下ろした。
「鷲尾だ。 ……と言っても、ここじゃシーカーで通ってる」
「百田です」
「戦闘機に乗ってた。 千歳でな」
鷲尾は湯呑みの湯気を見ながら言った。
「部隊が減らされて、上がれる日が減って、気がついたら、地上で書類を回してた。 それなら、と思ってな。 今は、こっちで食ってる」
百田は、返事をしなかった。
帯広の部隊が無人機に置き換えられた日のことを、この男も、違う空で味わったのだと思った。
「ここの警備は、つなぎの仕事だ」
鷲尾は湯呑みを両手で包んだ。
「俺たちを雇ってるのは、日本の会社じゃない。 来月には、隊ごとヨーロッパに貸し出される。 向こうの会社が、人の乗る機体を試したがっててな。 乗れる人間が、まだ足りないんだと」
鷲尾は他人事のように言った。
「国の金で育てた戦闘機乗りが、よその国の会社の兵隊になる。 ……笑える話だろ」
百田は、湯呑みを置いた。
鷲尾が、湯呑みから目を上げずに続けた。
「そういえば、空自の古い仲間から、こんな話を聞いたな。 帯広で虎の子の次期主力――。 無人機のお披露目の席でのことだそうだ」
百田は自分の湯呑みを見ていた。
鷲尾が続けた。
「その無人機を撃墜して勝った…… そんな、空気の読めない回転翼乗りの一曹がいたそうだ……」
茶の表面に、天井の明かりが小さく揺れていた。
「当然、幕僚のメンツは丸潰れだ。 そいつは霞が関にあるっていう妙な部屋に飛ばされたんだとか……。 なあ、あんた知ってるか?」
「……噂ですよ」
「だろうな」
鷲尾は、それ以上聞かなかった。
無言で自分の端末を百田の端末に軽く当てた。
百田の端末の画面に、小さな光が浮かんだ。
白い、カプセルの形のアイコン。
倉庫で坂下が見せた疲れ止めの印と、形がよく似ていた。
似ているが、色が少し違う。
縁に、細い銀の線が入っている。
「俺たちのは、特別製だ」
鷲尾が、声を落とした。
「操縦が、もっとうまくなる。 機体と体の境目が、なくなる。 ……仮想の空なら、もう一度、飛べるぞ」
百田の指が、アイコンの上で止まった。
知っている感覚だった。
ワンテンタイガーで飛ぶとき、ほんの一瞬だけ、体と機体の境目が消えることがある。
体を倒した分だけ、機体が曲がる。
考えるより先に、空が手の中に入ってくる。
その一瞬が、ずっと続くとしたら。
耳の奥で、低い音が鳴りかけた。
バタバタバタ、と空気を叩く、ローターの音。
帯広の、冬の空。
――多聞、肩に力が入ってるぞ。
百田はアイコンを長く押さえて、画面の外へ払った。
白い光は小さな音を立てて消えた。
「自分の空は、自分で飛びます」
鷲尾はしばらく百田の横顔を見ていた。
それから、笑った。
今度は、目尻の皺まで動く笑い方だった。
「そうか」
鷲尾は茶を飲み干して立ち上がった。
「いつか、空で会うかもな。 回転翼」
港区の高級ホテル 会員用ログイン・スイート前
東京都港区
2023年3月23日 午前5時30分
夜明け前のホテルの廊下は絨毯が足音を全部吸い込んでいた。
華園が駆けつけたとき、廊下の突き当たりには、もう救急隊員がしゃがみ込んでいた。
病院から、志賀透が消えた。
知らせが来たのは、一時間前だった。
点滴の針を自分で抜いて、病衣の上にコートだけ羽織って、夜の街へ出ていったという。
見つかったのは、ここだった。
会員用のログイン・スイートの、扉の前。
志賀は扉の取っ手に片手をかけたまま、横向きに倒れていた。
病衣の裾から、細い脚がのぞいている。裸足だった。
「息は、あります」
救急隊員が、短く言った。
華園は志賀のそばに膝をついた。
志賀の唇が、動いていた。
「……もう、一度」
かすれた声だった。
「もう一度だけ、で、いいんです……」
志賀の指が、絨毯の上で、何かを押すように小さく動いた。
そこには、何もなかった。
背後で、エレベーターの扉が開いた。
振り向くと、あの官房の男が、息を切らせて立っていた。
いつもの丁寧な顔が、初めて崩れていた。
男は扉の取っ手にかかったままの志賀の手を見て、それから、華園を見た。
「……このことは」
「表に出ないことを、望まれてる。 でしょう」
華園は立ち上がった。
「でも、この人は、出たがってるわよ。 ――向こう側へ」




