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第4章:台風の目と、星への軌道

 夏祭りの翌朝、射豆大島の空気は、昨日までのカラリとした夏のそれとは全く違うものに変わっていた。

 開け放たれた縁側から入り込んでくる風は、生ぬるく、そして不気味なほど重く湿り気を帯びている。いつもなら朝から鼓膜を突き破る勢いで鳴いているアブラゼミやミンミンゼミの大合唱が、今朝はやけに少なく、どこか遠くの森の奥で遠慮がちにジリジリと鳴いているだけだった。鳥たちのさえずりも聞こえない。島中の生き物が、これからやってくる「何か」に怯えて息を潜めているかのようだった。

 代わりに耳に届くのは、ズゴオォォォン......という、腹の底を揺さぶるような低い海の地鳴りだ。港の方角から響いてくるその音は、波の音というよりも、巨大な岩が転がっているような重低音だった。

 僕は薄いタオルケットを跳ね除けて布団から起き上がると、すぐに縁側に出て空を見上げた。昨日までの突き抜けるような群青色の空は完全に姿を消し、代わりに、どんよりとした鉛色の厚い雲が、空全体を低く、重く覆い尽くしていた。風が吹くたびに、庭の防風林として植えられている椿の木々がザワザワと落ち着きなく葉を揺らしている。


「おはよう、悠真。今日は絶対に外に出ちゃダメよ」


 台所から顔を出した夏海が、いつもの明るく弾んだ声とは違う、少し緊張した面持ちで言った。彼女の顔には、島の子ども特有の、自然の脅威に対する本能的な警戒心が浮かんでいた。


「おはよう。なんか、すごく変な天気だね。空気が重いっていうか……海が怒ってるみたい」

「台風が来てるのよ。しかも、観測史上最大級のやつ。お父さんが朝からずっとテレビのニュースに釘付けになってるわ」


 居間に行くと、正雄おじさんが腕組みをして、眉間に深いシワを寄せながらテレビの気象情報を見ていた。画面には、日本列島をすっぽりと覆い隠すほどの巨大な渦巻きの雲が映し出されており、その中心のくっきりと開いた「台風の目」が、真っ直ぐにこの射豆大島の方角へ向かっていた。


『中心気圧は920ヘクトパスカル、最大瞬間風速は70メートルに達する見込みです。記録的な暴風雨となる恐れがあり、海岸付近や低地では高潮に、山間部では土砂災害に厳重な警戒が必要です。不要不急の外出は絶対に控え、安全な場所で……』


 アナウンサーの緊迫した声が響く。最大瞬間風速70メートルと言われても、東京の頑丈なマンション暮らしの僕にはピンとこなかった。だが、おじさんの険しい表情や、テレビ画面の右上で点滅し続ける真っ赤な「特別警報」の文字を見れば、それがただ事ではないことだけは痛いほど理解できた。

 ふと、東京にいるお母さんのことが頭をよぎった。東京もこの台風の進路に入っている。大きなお腹で、一人で大丈夫だろうか。お父さんはちゃんとそばにいてくれているだろうか。不安が胸の奥でチリチリと音を立てて広がる。


「お父さん、雨戸は全部閉めた方がいいわよね?」


 夏海が麦茶の入ったコップをテーブルに置きながら尋ねた。


「ああ、そうだな。南側の窓は特に念入りに閉めておけ。それと、納屋のトタン屋根もロープで縛っておかねぇと、この風じゃ飛んでいくかもしれん。停電に備えて、懐中電灯の電池とロウソクの場所も確認しておいてくれ」


 正雄おじさんは立ち上がり、首にタオルを巻いた。


「悠真、悪いが今日は家の中で大人しくしててくれよ。外はすぐそこまで危険が迫ってる。お前にもしものことがあったら、東京のお母さんに顔向けできねぇからな」

「うん、わかった。僕、何かお手伝いすることある?」

「いや、危ねぇから部屋にいてくれ。台風の備えは島で暮らす大人の仕事だ。お前は自分の身を守ることに専念しろ」


 正雄おじさんはそう言うと、釘と金槌の入った工具箱を持って、急ぎ足で庭へと出て行った。

 僕は自分の部屋に戻り、ふすまをしっかりと閉めた。

 部屋の中は、すでに雨戸が半分閉められているせいで、昼間なのに夕方のように薄暗かった。湿度が異常に高く、じっとしているだけでも首筋からじっとりと汗が滲んでくる。

 僕は押し入れの奥に隠しておいたリュックサックを引き寄せ、中からこれまで集めた宇宙船のパーツを一つずつ、慎重に畳の上に取り出した。

 鈍く光る銀色の冷却パイプ、三角形の姿勢制御ノズル、緑色のラインが走る精密な回路基板、そして昨日、四原山の窪地で見つけたメインエンジンのイグニッション・コア。どれも地球上の金属とは思えない、不思議な質感と重さを持っている。

 そして最後に、群青色に光る石――ポラリスを取り出した。


「ポラリス、パーツは全部揃ったよ。これで、本当に直るんだよね?」


 僕が小声で問いかけると、ポラリスの石がフワリと宙に浮かび上がり、青白い光を放ちながらゆっくりと回転し始めた。


『肯定。ユウマとナツミの多大なる尽力により、修復に必要なすべてのパーツが規定数に達しました。各パーツの損傷レベルも自己修復可能な許容範囲内に収まっています。これより、ステラ・ホープ号の自己修復シーケンスを開始します』


 ポラリスのホログラムが展開され、畳の上に並べられたパーツ全体を、細かいメッシュ状の青い光の網が包み込んだ。

 すると、まるで魔法のような光景が僕の目の前で繰り広げられた。

 バラバラだった金属のパーツたちが、まるで見えない磁力に引かれるようにカチャカチャと音を立てて動き出し、フワリと空中に浮かび上がったのだ。それらは立体パズルのピースが自動的に組み合わさるように、次々と空中で正確な位置へと収まっていく。

 青い光の火花がチカチカと飛び散り、金属同士がナノレベルで溶け合うような、キーンという微かな電子音が部屋に響き渡った。僕は息を呑み、瞬きすら忘れてその美しい修復プロセスに見入っていた。

およそ五分後。

 光がスッと収まると、そこには、図鑑で見た空飛ぶ円盤をそのまま小さくしたような、直径三十センチほどの美しい銀色の宇宙船が完成していた。表面は磨き上げられた鏡のように滑らかで、継ぎ目一つない完璧な流線型を描いている。船体の縁に沿って、青いライン状の光が静かに、まるで脈打つように点滅していた。


『自己診断プログラム完了。メインエンジン、スラスター、生命維持装置、通信モジュール、すべてオールグリーン。ステラ・ホープ号、飛行可能な状態に復旧しました』


 ポラリスの声が、いつもより少しだけ誇らしげに、そして嬉しそうに聞こえた。


「すごい……! 本当にUFOだ! かっこいい!」


 僕は目を輝かせ、完成したばかりの小さな宇宙船の滑らかな表面をそっと撫でた。ひんやりとした金属の感触の奥から、力強いエンジンの微振動が伝わってくる。それは、生き物の鼓動のようにも感じられた。


「これで、いつでも宇宙に帰れるんだね」

『はい。推進剤のチャージも完了しています。大気圏を離脱し、ワープ・ゲートのあるポイントまで到達するのに十分なエネルギーが確保されました』


 ポラリスの言葉に、僕は嬉しさと同時に、やっぱり少しだけ胸の奥がキュッと締め付けられるような、チクリと痛むのを感じた。


「そっか……。よかったね、ポラリス。これで迷子はおしまいだ」

『ユウマ。あなたの協力がなければ、私はこの星で朽ち果てていたでしょう。深く、深く感謝します』



 午前十時を回る頃、外の様子はさらに悪くなっていた。

 風はヒューヒューという音から、ゴオォォォという低い唸り声へと変わり、家全体が時折ミシミシと軋み始めた。大粒の雨が横殴りに降り出し、雨戸にバラバラバラッと機関銃のように打ち付けられている。


「悠真! ちょっとこっち来て!」


 居間から夏海の声がして行ってみると、玄関にずぶ濡れになったカッパ姿の太一が立っていた。足元の長靴は泥だらけで、雨水がポタポタと三和土に滴り落ちている。その後ろには、大きなスポーツバッグを持った太一のお母さんとお父さんの姿もあった。


「太一くん! どうしたの、こんな嵐の日に」

「おう悠真! いやー、すっげー風だぜ! まともにあるけねぇくらいだ。俺んち、海に近くて古いからさ、高波が来たらヤバいって親父が言って、避難してきたんだよ」


 太一は濡れた顔をタオルで拭きながら、なぜか少しワクワクしたような、楽しそうな顔をして笑った。彼にとって、この非日常の嵐すらも一種の冒険なのだろう。

 正雄おじさんが太一のお父さんと眉をひそめて話し込んでいる。


「いやぁ、正雄さん、急に家族総出で押しかけてしまって本当に申し訳ない。役所の避難所に行こうかと思ったんだが、あそこは体育館の屋根が古くて雨漏りするって話でね。この風じゃ道中の土砂崩れも怖いし……」

「水臭いこと言うな。うちの家は高台にあって、基礎と柱だけは無駄に頑丈にできてるからな。台風の時は島民はお互い様だ。さあ、遠慮しないで上がって暖まれ。おーい夏海、バスタオルと温かいお茶を出してやってくれ」


 太一の家族が客間に案内され、家の中は急に大人数になって賑やかになった。

 僕としては、こんな恐ろしい嵐の日に太一が一緒にいてくれるのは、心の底から心強かった。しかし同時に、非常に大きな問題が発生したことに気づいた。大人が家の中に増えたことで、ポラリスと宇宙船の存在を隠し通すのが極めて難しくなってしまったのだ。


「いやー、それにしてもすっげー台風だな! 悠真、外の様子見たか⁉ うちの前の自動販売

機、風で倒れてたぜ!」


 太一が濡れた服を着替えるなり、僕の部屋に転がり込んできた。


「悠真、暇だからトランプかオセロでもやろうぜ! ……って、うおっ⁉」


 太一が部屋に入って数歩進んだ瞬間、彼の声が裏返った。

 無理もない。僕はステラ・ホープ号を押し入れの奥に隠したつもりだったが、興奮してふすまを数センチ開けたままにしていたのだ。その隙間から、青白く光る銀色の円盤が丸見えになっていた。

 僕は急いで座布団や毛布を被せようとしたが、時すでに遅しだった。


「な、なんだあれ⁉ ゆ、悠真、お前、ラジコン持ってきたのか⁉ いや、なんか光ってるし……それに、なんか少し浮いてねぇか⁉」


 太一は目を皿のようにして、円盤を指差したまま固まっている。


「しーっ! 声が大きいよ! おじさんたちに聞こえちゃう!」


 僕は慌てて太一の口を両手で塞ぎ、背中で部屋のふすまをピシャリと閉めた。

 ちょうどその時、夏海が「太一、麦茶持ってきたわよ」とふすまを開けて入ってきて、僕と太一の怪しい態勢、そして押し入れの隙間から漏れる青い光を見て、全てを察して深く頭を抱えた。


「あーあ。見つかっちゃったわね、バカ悠真」

「夏海ちゃんも知ってんのか⁉ なんだよこれ、マジですげぇぞ! どこのおもちゃだ⁉」


 僕は夏海と顔を見合わせた。もう、これ以上太一にだけ隠し通すのは不可能だ。それに、彼も僕たちの秘密基地を作り、一緒にカブトムシを捕まえた「探検隊」の仲間じゃないか。彼なら絶対に裏切らない。


「太一くん、絶対に、絶対に大人の人には言わないって約束できる? 誰かに言ったら、これが奪われちゃうかもしれないんだ」

「あ、ああ。俺の口の堅さはトウシキの岩にはりつくアワビの殻より堅いぜ。絶対に約束する」


 太一が真剣な顔で、胸の前で十字を切るのを確認してから、僕は押し入れを開け放ち、ポラリスとステラ・ホープ号を太一に紹介した。

 ポラリスが円盤の上からフワリと宙に浮かび、いつものようにホログラムを展開して自己紹介を始めた。


『初めまして、地球の生命体「タイチ」。私は銀河系第3宙域・自律型惑星探査艦ステラ・ホープ号のAIコア、ポラリスです』

「うおおおおっ! すげぇ! 宇宙人! 本物の宇宙人だ! しゃ、しゃべったぁぁ!」


 太一は腰を抜かさんばかりに驚き、興奮のあまり畳の上をゴロゴロと転げ回った。


『生命体「タイチ」。あなたの極端な情動反応および大音量の音声は、私のマイクセンサーに過負荷をかけます。また、別室にいる大人に発見されるリスクが急上昇しています。ボリュームを下げてください』

「うおっ、怒られた! すげぇ! 俺、太一! 東京じゃなくてこの島の生まれだ! よろしくなポラリス!」


 太一はすっかりポラリスを気に入り、目をキラキラさせてホログラムの周りをぐるぐると回っていた。

 これで、僕たちの秘密の同盟は三人になった。外の嵐の恐ろしさを少しだけ忘れさせてくれるような、不思議で、ワクワクする、僕たちだけの時間が部屋の中に流れていた。



 午後二時。

 台風が射豆大島に最接近し、状況は一変した。もはや「ワクワクする」などと言っていられる状況ではなくなった。

 バキバキッ!という凄まじい轟音と共に、庭にあった太い柿の木の枝がへし折られ、雨戸に激突した。家全体が震度4の地震のように揺れ続け、障子の隙間から細かい雨水が霧のように室内に吹き込んでくる。


「キャッ!」


 夏海が短く悲鳴を上げ、僕と太一も思わず部屋の中心に身を寄せ合った。

 その直後、ふっと部屋の電気が消え、隣の部屋から聞こえていたテレビの気象速報の音声も途絶えた。

完全な停電だ。


「うわっ、真っ暗だ……!」


 太一が僕の腕を強く掴んだ。


「悠真、太一、動かないでね。お父さんが懐中電灯を持ってくるまで、その場でじっとしてて」


 夏海の声が暗闇の中で震えていた。外のゴオォォォという風の音は、もはや怪獣の咆哮か、ジェット機のエンジンのすぐそばにいるように聞こえた。自然の圧倒的な暴力の前に、人間が作った木造の家なんて、ダンボール箱のように簡単に吹き飛ばされてしまうのではないかという純粋な恐怖が僕を襲う。

 そんな漆黒の暗闇の中で、押し入れの中から青白い光がふわりと漏れ出し、部屋を優しく、幻想的に照らし出した。ポラリスだ。


『停電を確認。外部電力供給ネットワークが遮断されました。ユウマ、ナツミ、タイチ、私の発光機能で一時的な光源を提供します。パニックを起こさず、呼吸を整えてください』

「ありがとう、ポラリス。助かるよ……」


 青い光に照らされた太一と夏海のこわばった顔を見て、僕は少しだけホッとした。

 しかし、ポラリスの次の言葉が、僕たちの心に冷たい氷水を浴びせた。


『状況は極めて深刻です。現在、この島を覆っている低気圧の風速、および大気圏上層部までの乱気流の数値は、ステラ・ホープ号の飛行許容範囲を約400%超過しています』

「えっ……? それって、どういうこと?」

『簡潔に言えば、この暴風雨の中で離陸を強行すれば、機体は上空の乱気流に巻き込まれ、大気圏を抜ける前に完全に空中分解する確率が99.9%であるということです。つまり、現在の気象条件において、離陸は不可能です』

「そんな……! せっかく苦労してパーツを集めて、完全に直ったのに!」


 太一が拳を畳に叩きつけて声を荒げた。僕もショックで言葉を失った。宇宙船さえ直れば、ポラリスはいつでも安全に自分の星へ帰れると信じきっていたからだ。


「じゃあ、この台風が通り過ぎて、天気が回復するまでここで待てばいいんじゃないの?」


 夏海が冷静さを保とうとしながら尋ねた。


『それも不可能です。不時着時の落下衝撃により、私の内部予備バッテリーのセルは著しく劣化しています。現在のエネルギー残量では、このまま最小電力の待機状態を維持したとしても、明日の朝6時頃には完全に機能が停止します。一度コアの機能が停止すれば、システムの再起動は二度とできません』


 部屋に、重く冷たい沈黙が落ちた。

 外では風が狂ったように吹き荒れ、雨が雨戸を叩き壊さんばかりの勢いで打ち付け続けている。

 明日の朝にはバッテリーが切れて、死んでしまう。

 台風が過ぎるのを待つことはできない。

 飛べば乱気流で粉々に壊れる。

 それは、ポラリスにとっての「完全な死」の宣告を意味していた。


「そんな……何か方法はないの? ポラリスが助かる方法! 諦めたくないよ!」


 僕はポラリスの光る石を両手で包み込むようにして叫んだ。手のひらに伝わる鼓動が、心なしかさっきよりも弱々しく、不規則になっているような気がした。


『……一つだけ。たった一つだけ、生存確率が60%を超える軌道が存在します』


 ポラリスのホログラムが、巨大な渦巻き雲の立体映像を部屋の真ん中に映し出した。


『この巨大な低気圧の中心には、「台風の目」と呼ばれる無風地帯が存在します。気象衛星のデータ傍受と現在の進行速度の軌道計算から、今夜、午前二時十五分から約三十分間、この家の上空をその「目」が完全に通過します』

「台風の目……テレビで言ってたやつだ」

『はい。その目の中に入った瞬間、地上から上空成層圏までの大気の乱れは、奇跡的にほぼゼロになります。その三十分間のウインドウ(窓)を使って垂直に急上昇すれば、乱気流の壁を避けて、安全に宇宙空間へ脱出することが可能です』

「午前二時十五分……夜中だね。よし、その時間に外に出て、宇宙船を飛ばせばいいんだな!」


 太一がパッと顔を輝かせ、力強く言った。


『しかし、重大な問題があります。ステラ・ホープ号を安全に発進させるためには、周囲に障害物のない、開けた高台である必要があります。この家の庭は防風林が多く、離陸時のプラズマ排気が樹木に引火する危険性が極めて高いです。最低でも、ここから500メートル離れた「シハラ神社の境内」まで機体を運搬する必要があります』


 夏海が息を飲んだ。


「午前二時の、台風の真っ只中に外に出るってこと? そんなの、お父さんたちが絶対に許すわけないわ。それに、もし台風の目がずれたり、予想より早く終わったりしたら、私たちまで強風に吹き飛ばされて死んじゃうかもしれないのよ⁉」


 正論だった。大人しく家の中にいれば安全なのに、命の危険を冒してまで外に出る理由はない。

 でも。


「……僕が行くよ」


 僕の声は、自分でも驚くほどはっきりと、そして力強く、暗闇の部屋に響いた。


「悠真! ダメよ、危なすぎるって言ってるでしょ!」

「でも、このまま何もしなかったら、ポラリスが死んじゃう! 一緒にプールに潜って、一緒に山を登ってパーツを集めたんだ。最後まで、僕がポラリスを助けたい。お母さんにも約束したんだ、僕が一回り大きなお兄ちゃんになって帰るって。これが、僕がお兄ちゃんになるための、最後の試練なんだ!」


 僕の決意を聞いて、太一がニヤリと笑い、僕の肩をバンと叩いた。


「東京のヒョロヒョロだと思ってたけど、お前、すっげー男だな。……よし、俺も行くぜ! 探検隊の仲間を見捨てるわけにはいかねぇからな! 神社までの近道なら俺が一番よく知ってる」

「太一まで……! もう、あんたたちって本当に救いようのないバカなんだから!」


 夏海は頭を抱えた後、大きくため息をつき、そして僕たちの顔を順番に睨みつけた。


「……私も行くわよ。バカな弟たちを二人だけで外に出せるわけないでしょ。大人の目を盗んでこっそり抜け出す作戦、今から完璧に立てるわよ」


 風の唸り声が響く暗い部屋の中で、僕たち三人の顔は、ポラリスの青白い光に照らされながら、一つの命を救うための固い決意に満ちていた。



 夜が更けるにつれ、台風の勢力はさらに増し、家そのものが悲鳴を上げているようだった。

 大人たちは停電の中でロウソクの火を頼りに、乾パンや缶詰で簡単な夕食を済ませると、「今日はもう、何もできないから寝るしかないな。無事に朝を迎えられるよう祈ろう」と、それぞれの布団に入っていった。外の轟音のせいで、家の中の足音や物音はほとんどかき消されている。これは、夜中に家を抜け出そうとしている僕たちにとって、唯一の好都合だった。

 時計の針が午前一時を回り、一時半を過ぎた。

 僕たちは真っ暗な部屋で、僕のリュックにポラリスと修復されたステラ・ホープ号を厳重に詰め込み、靴下を履いて、いつでも飛び出せるように息を潜めていた。緊張で口の中が砂を噛んだようにカラカラに乾き、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく、早く鳴っている。


「ポラリス、あと何分?」


 僕が小声で尋ねると、頭の中に声が響いた。


『現在、午前二時十分。台風の目の境界線まで、あと5キロ……3キロ……』


 外の風の音は、もはや轟音という言葉では足りないほど、世界が破滅に向かっているような凄まじい破壊音だった。屋根瓦が剥がれて飛んでいく音、どこかでガラスがガシャーンと割れる音、太い木がへし折れるメキメキという音が絶え間なく聞こえる。

 本当に、この風が止む時なんて来るのだろうか。このまま家ごと吹き飛ばされてしまうのではないか。


『……1キロ。500メートル。……目に入ります』


 その瞬間だった。

 つい一秒前まで、世界をぶち壊すような勢いで吹き荒れていた暴風雨が、嘘のようにパタリと止んだのだ。

 ピタッ、という表現がこれほど似合う瞬間はなかった。雨戸を叩く雨音も、家を揺らす風の音も、一瞬にして完全に消え去り、幻だったかのように無音になった。

 代わりに、キーンという耳鳴りがするほどの、不気味で、そして圧倒的な「静寂」が射豆大島を包み込んだ。急激な気圧の変化のせいで、耳の奥がポンッと鳴った。


「……止んだ。本当に止んだわ」


 夏海が震える声で呟き、立ち上がった。


「今だ! 行くぞ!」


 太一の合図で、僕たちはそっとふすまを開け、抜き足差し足で土間へと向かった。大人たちの寝息は、静寂の中ではっきりと聞こえたが、誰も起きる気配はない。疲れ切って深く眠っているようだ。

 玄関のドアの鍵を開け、外へと押し開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 さっきまでの暴風雨が嘘のように、風ひとつ吹いていない。生ぬるく、少し湿った空気がゼリーのように停滞しているだけだ。

 懐中電灯の光で庭を照らすと、折れた太い木の枝や、どこから飛んできたのか分からないサビたトタン板、散乱した植木鉢など、自然の猛威の凄まじい爪痕がはっきりと残っていた。

 しかし、僕たちが一番驚き、息を呑んだのは、頭上の景色だった。


「うわあ……」


 僕たちは言葉を失い、空を見上げた。

 台風の目の中に入ったことで、分厚い雨雲がすっぽりと円形に抜け落ち、ぽっかりと開いた空の巨大な穴から、射豆大島の満天の星空が顔を出していたのだ。

 周囲を、稲妻が走る漆黒の分厚い雲の壁に囲まれた、円形の星空。それはまるで、宇宙へと続く巨大なトンネルか、あるいは神様が見下ろしている巨大な瞳のようだった。天の川が、くっきりと光の帯を描いている。


『ユウマ、感傷に浸っている時間はありません。台風の目の直径から計算すると、この静穏状態が維持されるのはあと二十八分です。急いでください』


 ポラリスの冷静な声で、僕は現実に引き戻された。


「わかってる! 走ろう!」


 僕たちはリュックを背負い直すと、折れた枝や瓦礫を慎重に、しかし全力で避けながら、シハラ神社へと続く暗い坂道を駆け上がった。

 道中、懐中電灯の光が照らし出す島の被害は酷かった。電柱が斜めに傾き、商店の看板が吹き飛び、太一の家の前では自動販売機が完全に倒れていた。これほどの嵐が、たった数十分後には、吹き返しの風となって再びこの島を襲うのだ。

 僕たちは息を切らし、足がもつれそうになりながらも、決して立ち止まることなく神社の長い石段を一気に駆け上がった。


「ハァ、ハァ……着いた! 境内だ!」


 太一が膝に手をついて荒い息を吐く。夏海も肩で息をしている。

 神社の境内は、比較的木々が少なく、夜空に向かってぽっかりと開けていた。ここなら宇宙船を発進させても、木に引火する危険はない。

 僕はリュックを地面に下ろし、中からステラ・ホープ号を取り出し、境内の真ん中にある、月明かりに照らされた平らな石の上にそっと置いた。

 銀色の流線型の機体が、周囲を囲む台風の目の星明かりを反射して、神々しいほど美しく輝いている。

機体の中心部がシュッという音と共にスライドして開き、僕はズボンのポケットからポラリスの石――AIコアを取り出した。じんわりとした温もりが、僕の震える手に伝わってくる。


「ポラリス、準備はいい?」

『はい。コアモジュールをセットしてください。発進シークエンスへ移行します』


 僕は深呼吸をし、震える両手でポラリスの石を包み込み、機体の中央のくぼみへとゆっくりとはめ込んだ。

 カチャッ、という小さな、しかし確かな音がして、石が機体と完全に一体化した。

 その瞬間、ステラ・ホープ号全体に青白い光の脈動が走り、ヴォォォン……という低くて力強い起動音が境内に響き渡った。機体がフワリと地上三十センチほどの高さまで浮き上がり、ジャイロスコープのように静かに回転を始める。


『メインシステム、オンライン。反重力ドライブ、出力安定。大気圏離脱軌道、計算完了。全システム、グリーン』


 ポラリスの声が、図鑑の中から聞こえていた時よりも、機体全体から響くような、よりクリアで、力強く、そして頼もしいものに変わっていた。



『ユウマ、ナツミ、タイチ。あなたたちのおかげで、私は再び空を飛ぶことができます。任務を再開することができます』


 空中に浮かぶ円盤から、ポラリスのホログラムが大きく投影された。地球儀のような光の輪が、静かに回転している。


「いよいよ、お別れだね」


 僕が言うと、どうしても声が少しだけ震えてしまった。鼻の奥がツンとして、視界がぼやける。

 たった数日間の付き合いだった。でも、ポラリスは僕にとって、この夏休みの最大の秘密であり、命がけのミッションを共に乗り越えた最高の相棒だった。彼がいなくなってしまうのは、自分の一部が切り取られて、遠い宇宙の果てに持っていかれてしまうように寂しかった。


『ユウマ。生命体の眼球から塩分を含んだ液体が分泌されています。心拍数も不安定です。悲しみによる流涙反応ですね』

「……うん。だって、もう二度と会えないんでしょ?」


 僕は手の甲で乱暴に涙を拭ったが、後から後から涙が溢れてきて止まらなかった。


『宇宙の広さと、私たちの移動速度を計算すれば、再会の確率は天文学的に低い数値……限りなくゼロに近いと言わざるを得ません。しかし、ユウマ。私はあなたのことを絶対に忘れません。地球の夏のうだるような暑さ、アブラゼミの鳴き声、冷たい湧き水の温度、プールの水の冷たさ、そして……あなたたちの、損得を考えない無償の温かい心』


 ポラリスのホログラムが、手を伸ばすような形にスッと変化し、僕の濡れた頬にそっと触れた。触感はないはずなのに、そこだけが不思議と、本当に温かい気がした。


『私のコアデータバンクが破壊されない限り、この美しく青い地球の思い出は、永遠に私のメモリの最深部に刻まれます。あなたは、立派に「お兄ちゃん」になる試練を乗り越えました。あなたのように勇敢で、他者を思いやる優しい心を持っていれば、これから先、どんな困難な未来も必ず切り拓けるはずです』

「……うん! 僕、絶対にいいお兄ちゃんになるよ。強いお兄ちゃんになる! ポラリスのことも、おじいちゃんになっても絶対忘れない!」


 僕が涙で顔をくしゃくしゃにしながら力強く頷くと、隣で夏海も鼻をすすりながら笑った。


「気をつけて帰りなさいよ。また宇宙の真ん中で迷子にならないでね。宇宙の交通ルールは知らないけどさ、ちゃんと前見て飛ぶのよ」

「おう! 次来る時は、もっとデカくてかっこいい宇宙船で来いよな! 俺がまた、とびっきりデカいカブトムシの捕まえ方教えてやるから!」


 太一も目を真っ赤にしながら、元気よく拳を夜空に突き上げた。


『感謝します。皆さんの未来に、星の導きがあらんことを。……さようなら、私の大切な友達』


 ピピピッ、という電子音と共に、ホログラムが収束し、ステラ・ホープ号の青い光が一層強く、眩しく輝き始めた。


『大気圏離脱シーケンス開始。マイナス10、9、8……』


 カウントダウンが境内に響き渡る。周囲の空気が静電気を帯びたようにビリビリと震え、プラズマの淡い熱気が僕たちの顔を撫でた。


『3、2、1……発進(イグニッション)


 キィィィィン!という鼓膜を突き抜けるような甲高い音が響いたかと思うと、ステラ・ホープ号は目にも留まらぬ猛烈な速さで、垂直に急上昇を開始した。

 それはまるで、重力という概念を完全に無視した、一筋の青い光の矢だった。

 光は、台風の目のぽっかりと開いた星空のトンネルの中を、周囲の黒雲の壁を避けるように真っ直ぐに突き進み、あっという間に星の海へと溶け込んでいく。


「いってらっしゃい、ポラリス……!」


 僕は夜空を見上げ、首が痛くなるまで、涙で視界が滲んでも、その光の行方を追い続けた。

 最後に、空のずっと高いところで、一つの星がピカッと強く、ウインクするように瞬いたような気がした。

 その美しい余韻に浸る間もなく、遠くからゴオォォォという不気味な轟音が、再びものすごい地鳴りと共に近づいてくるのが聞こえた。


「悠真、太一! 台風の目が終わるわ! 吹き返しの風が戻ってくる、急いで家に帰らないと!」


 夏海の鋭い叫び声で、僕たちは強烈に現実に引き戻された。

 頭上の星空が、ものすごいスピードで迫ってくる漆黒の雲に、端の方から見る見るうちに飲み込まれていく。

 僕たちは全速力で神社の石段を駆け下りた。家まであと半分というところで、パラパラと冷たく大粒の雨が降り出し、直後に、背中をハンマーでドンと殴られたような凄まじい突風が襲ってきた。


「うわあっ!」


 僕は風の力で前のめりに転びそうになったが、太一と夏海が両側から僕の腕をガシッと力強く掴んで支えてくれた。


「走れ! 止まるな! 飛ばされるぞ!」


 暴風雨が完全に勢いを取り戻し、行きよりもさらに激しい風が吹き荒れる中、僕たちは這々の体で、泥だらけになりながら家の玄関へと滑り込んだ。

 玄関のドアを重い風に逆らって内側から閉め、鍵をガチャリとかけた瞬間、外は再びこの世の終わりのような轟音と激しい雨に包まれた。本当に、あと数秒遅ければ吹き飛ばされていたかもしれない、ギリギリのタイミングだった。

 僕たちは暗い土間にへたり込み、肩で激しく息をしながら、顔を見合わせた。

 全身ずぶ濡れで、泥だらけで、ボロボロだ。


「……飛んだな。すっげー速かった」


 太一が息を切らしながら、ニッと白い歯を見せて笑った。


「うん。飛んだ。真っ直ぐ、迷わずに宇宙に」


 僕も、呼吸を整えながら笑い返した。

 外の嵐の恐ろしさも、家を揺らす風の音も、停電の暗闇も、不思議ともう何も怖くなかった。

 僕たちは今、この地球上の大人たちが誰も知らない、宇宙規模の秘密と奇跡を自分たちの手で成し遂げたのだ。

 胸の奥には、ポラリスがいなくなったぽっかりと穴が空いたような寂しさと、命がけの大きな使命をやり遂げたという、熱く誇らしい感情が混ざり合って渦巻いていた。

 それは間違いなく、僕がただ守られるだけの「子ども」から、一つ大人の階段を登り、誰かを守れる「お兄ちゃん」になった瞬間だった。

 雨戸を叩く激しい雨の音すらも、今の僕には、ポラリスが宇宙へ旅立ったことを祝福する拍手のように聞こえていた。

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