第5章:さよならの汽笛と、お兄ちゃんの顔
射豆大島を飲み込んだ記録的な大型台風が過ぎ去った翌朝。
僕は、木造の家全体を包み込むような、圧倒的なまばゆい光で目を覚ました。
閉め切られていた雨戸の隙間から、ナイフのように鋭く、そして神々しいほどの朝の光が真っ直ぐに差し込んでいる。外からは、昨夜のあのこの世の終わりのような轟音は完全に消え去り、代わりに、少し控えめな、けれど確かに生命力に満ちたアブラゼミの鳴き声が聞こえてきた。
ジリジリ、ジリジリ……。
「……朝だ」
僕は畳の上に身を起こし、隣で大の字になって爆睡している太一を跨いで、縁側の雨戸の戸袋へと向かった。
ガラガラッ、と重い雨戸を押し開ける。
「うわあ……!」
思わず声が漏れた。目の前に広がっていたのは、文字通り「洗いたて」の空と庭だった。
どんよりとした鉛色の雲は欠片も残っておらず、絵の具をひっくり返したような、どこまでも深く突き抜けるような群青色の空が広がっている。庭の木々は強風で葉を落とし、あちこちに太い枝が折れて散乱していたが、残された葉は雨水で綺麗に洗われ、朝日に照らされてキラキラとエメラルドのように輝いていた。
空気からは、ムワッとした夏の湿気が消え、代わりにオゾンと、青葉の瑞々しい匂いがした。
「悠真、起きたの? 昨日は本当にすごい風だったわね」
台所から、夏海がほうきとちりとりを持って顔を出した。
「うん。……すごい綺麗な空」
「台風一過っていうのよ。台風が通り過ぎた後は、空中のチリや埃が全部雨で洗い流されるから、一年で一番空が澄んで綺麗に見えるんだって」
夏海は縁側に出てきて、僕の隣で大きく深呼吸をした。
「おーい、お前たち! 起きてるなら庭の片付けを手伝ってくれー!」
庭の奥から、すでにランニングシャツ姿で折れた枝を片付けている正雄おじさんの声がした。
「はーい! 今行きまーす!」
僕たちは慌てて着替えを済ませ、目をこすりながら起きてきた太一と一緒に庭へ出た。
「いやぁ、昨日の夜中は本当に生きた心地がしなかったな。家が吹き飛ぶかと思ったぞ。お前ら、あの物音の中でよく朝まで一度も起きずにぐっすり眠れたな。子どもってのは大したもんだ」
正雄おじさんが、額の汗をタオルで拭いながらガハハと笑った。
僕と夏海と太一は、顔を見合わせた。
僕たちは、一番風が強かった真夜中に、あの一瞬の「台風の目」を突いて家を抜け出し、神社で宇宙船を打ち上げてきたのだ。大人たちは、僕たちがぐっすり眠っていたと信じて疑っていない。
「うん、僕たち、すごく疲れてたから……」
僕が誤魔化すように笑うと、太一も「おう! 俺のいびきで風の音なんて聞こえなかったぜ!」とおどけて見せ、夏海が太一の脇腹を軽く小突いた。
僕たち三人だけの、絶対に大人には言えない、宇宙規模の秘密。
見上げた突き抜けるような青空のずっとずっと向こう側を、今頃ポラリスは飛んでいるのだろうか。そう思うと、片付けの作業もなんだか誇らしく、誇らしい気分で落ち葉を集めることができた。
お昼前、庭の片付けが一段落し、縁側で冷たい麦茶を飲んで休憩していた時のことだった。
ジリリリリリリッ!
居間にある、黒くて古いダイヤル式の電話機が、けたたましい音を立てて鳴り響いた。
「おっ、俺が出る」
正雄おじさんがどっこいしょと立ち上がり、受話器を取った。
「はい、木村ですが……おお、義兄さん! ……えっ⁉ ほんとか⁉」
おじさんの声が急に一段と大きくなり、僕と夏海は顔を見合わせた。東京の、僕のお父さんからの電話だ。
「いやぁ、よかった! おめでとうございます! ええ、こっちは台風で少し木が折れたくらいで、みんな無事ですよ。悠真も元気にしてます。……はい、代わりますね」
正雄おじさんは、満面の、これ以上ないほど嬉しそうな笑顔でこちらを振り向き、受話器を僕に向かって差し出した。
「悠真! お父さんからだ。……いい知らせだぞ!」
僕はドキリと心臓を跳ねさせながら、縁側から駆け上がり、両手で重い黒電話の受話器を受け取った。
「もしもし、お父さん?」
『悠真か。元気にしてたか? 台風、怖かっただろう』
電話の向こうから聞こえるお父さんの声は、少し疲れているようだったけれど、どこか弾んでいて、そしてとても優しかった。
「うん、大丈夫だったよ。お父さん、あのね……」
『悠真。お母さんね、今朝、無事に赤ちゃんを産んでくれたよ。元気な、元気な女の子だ。悠真に、妹ができたんだよ』
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中で、何かが弾けたような気がした。
ずっと心配だった。大きなお腹で苦しそうにしていたお母さん。僕がいない間に、もし何かあったらどうしようと、夜布団の中で何度も不安になった。
でも、無事だった。お母さんも、赤ちゃんも。
「ほんとに……? お母さん、元気……?」
『ああ、元気だよ。すごく頑張ってくれた。赤ちゃんも、指をギュッと握るくらい元気いっぱいだ。悠真がおじさんの家で、一人でお利口に頑張ってくれてるから、お母さんも安心して頑張れたって言ってたぞ』
ポロッ、と。
目から、自分でも驚くほど大きな涙の粒がこぼれ落ちて、畳の上に小さな染みを作った。
「……っ、うん。よかったぁ……本当によかったぁ……」
僕は受話器を両手で握りしめたまま、声を上げて泣き出してしまった。
今まで我慢していた寂しさ、不安、そして、とてつもない安心感と喜びが、一気に涙となって溢れ出たのだ。
夏海が慌ててティッシュを持ってきて、僕の背中を優しくさすってくれた。正雄おじさんも目を細めてウンウンと頷いている。
『悠真、よく頑張ったな。もうすぐ夏休みも終わる。東京に帰ってきたら、一番に妹の顔を見てやってくれ。お前はもう、立派なお兄ちゃんだからな』
「うん! 僕、お兄ちゃんだもん! 早く会いたい!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭いながら、僕は力強く答えた。
受話器を置き、僕は改めて縁側に出て、どこまでも広がる青空を見上げた。
『あなたは、立派に「お兄ちゃん」になる試練を乗り越えました』
昨日の夜、宇宙へ旅立つ前にポラリスが言ってくれた言葉が、胸の中に温かく蘇ってくる。
「……やったよ、ポラリス」
僕は誰にも聞こえないような小さな声で、空に向かって呟いた。
僕はもう、ただお母さんに甘えるだけの子どもじゃない。小さな妹を守ってあげられる、強いお兄ちゃんになれたんだ。ポラリスとの冒険が、僕をそう変えてくれたのだ。
◆
妹が生まれたという知らせを受けてからの数日間は、まるで魔法にかけられたように、あっという間に過ぎていった。
射豆大島での夏休みは、いよいよ残りわずかとなっていた。
台風の爪痕も島の人たちの協力ですぐに片付き、僕たちは残された時間を惜しむように、毎日真っ黒になるまで遊び回った。
源さんの船に乗せてもらい、防波堤からでは釣れないような大きなカンパチの子供を釣った。太一と秘密基地をさらに改造して、立派な見張り台を作った。夏海に教えてもらいながら、庭で採れたスイカを井戸水でキンキンに冷やして、種を縁側から誰が一番遠くまで飛ばせるか競争した。
東京のマンションでは絶対に経験できない、眩しくて、泥臭くて、そして最高に楽しい日々。
でも、楽しい時間は必ず終わりを迎える。
八月三十一日。夏休みの最終日の夜。
僕は自分の部屋で、東京から持ってきた青いボストンバッグに荷物を詰めていた。
着替え、夏休みの宿題、そして、おじさんに買ってもらった島のお土産。バッグのジッパーを閉めようとした時、ふと、自分が穿いていた半ズボンのポケットの中に、硬い感触があるのに気がついた。
「なんだろう?」
手を入れて取り出してみると、それは大人の握り拳くらいの大きさの、ガラス玉のような丸い石だった。
「あ……」
僕は息を呑んだ。
色は深い群青色。表面はツルツルと滑らかで、地球の鉱物とは思えない不思議な質感。
間違いない。ポラリスのコアだ。
でも、おかしい。ポラリスは数日前、台風の目の中で宇宙船に組み込まれ、空の彼方へ飛んでいったはずだ。
僕は慌ててその石を両手で包み込んだ。
……光っていない。あの、ホログラムを展開した時の幻想的な青白い光も、電子音のようなノイズも、何も発していない。ただの、綺麗なガラスの塊のように見える。
しかし、ただ一つだけ違うことがあった。
ヒヤリとするはずのその石は、僕の手のひらの上で、まるで淹れたてのお茶が入った湯呑みのように、じんわりと、確かな温もりを放っていたのだ。
『私のコアデータバンクが破壊されない限り、この美しい地球の思い出は、永遠に私のメモリの最深部に刻まれます』
ポラリスのあの言葉がよみがえる。
そうか。これはきっと、ポラリスが僕に残してくれた「抜け殻」だ。
機体に組み込まれる直前、ポラリスは自分のコアの外殻の一部を切り離し、こっそりと僕のポケットの中に入れておいてくれたに違いない。光も声も失ってしまったけれど、この温もりは、間違いなくポラリスが地球にいたという証だった。
「ありがとう、ポラリス……。僕の、一生の宝物にするよ」
僕はその群青色の石を、誰にも見つからないように、ボストンバッグの奥底、一番大切にしているタオルの間にそっと忍ばせた。
窓の外からは、秋の虫たちの声が、夏の終わりを告げるように静かに、そして少し寂しげに響いていた。
◆
翌朝。九月一日。
抜けるような青空と、海からの爽やかな風が吹く射豆大島の岡田港には、東京へ帰る僕を見送るために、たくさんの人たちが集まってくれていた。
「悠真坊主! 東京に帰っても、俺が教えた釣りの極意を忘れるなよ! スーパーの切り身ばっかり食ってちゃダメだぞ!」
首に手ぬぐいを巻いた源さんが、僕の頭をガシガシと乱暴に撫でた。その手には、手先が器用な源さんが木を削って作ってくれた、見事なアジの木彫りのキーホルダーが握られていた。
「源さん、ありがとう! 絶対に忘れないよ!」
僕が木彫りのアジを受け取って深くお辞儀をすると、今度は太一がドカッと僕の背中を叩いた。
「いてっ!」
「悠真! お前、来年も絶対にこの島に来いよな! そしたら、今度こそ四原山の奥にいるっていう、伝説の七センチ越えのヒラタクワガタを一緒に捕まえに行くんだからな!」
太一の目は少し潤んでいたけれど、無理に笑って白い歯を見せていた。
「うん、約束する! 秘密基地も、もっとすごくしようね!」
僕と太一は、お互いの拳をゴツンとぶつけ合った。男同士の、絶対に破らない約束の儀式だ。
「悠真、お母さんによろしくな。妹の顔を見るのが楽しみだな」
正雄おじさんが、僕のボストンバッグを軽々と片手で持ち上げながら笑った。
「おじさん、一ヶ月間、本当にお世話になりました。毎日ご飯、すごく美味しかったです」
僕がきちんとお礼を言うと、おじさんは「はっはっは、立派な挨拶ができるようになったじゃないか」と目を細めた。
そして、最後に僕の目の前に立ったのは、夏海だった。
彼女は今日も、白いTシャツにデニムのショートパンツ、そして島に来た初日に僕を出迎えてくれた時と同じ、大きな麦わら帽子を被っていた。
「悠真」
夏海は僕の目の高さに合わせてしゃがみ込み、じっと僕の目を見つめた。
「……一ヶ月前、この港に一人で降り立った時は、不安で今にも泣き出しそうな顔をしてたのに。すっかりたくましい顔になっちゃって。なんだか、本当の弟が一人遠くに行っちゃうみたいで、ちょっと寂しいわ」
夏海の声は、少し震えていた。
「夏海ちゃん……」
「でも、あんたはもう立派な『お兄ちゃん』だもんね。東京に帰ったら、お母さんをしっかり助けて、妹を守ってあげるのよ」
夏海はそう言うと、自分が被っていた麦わら帽子を両手で外し、ポンと僕の頭の上に被せた。
少し大きめの帽子が、僕の目を半分ほど覆い隠す。帽子からは、夏海のお姉ちゃんらしい優しい石鹸の匂いと、島を駆け回った夏の匂いがした。
「これ、あげる。射豆大島の特別探検隊、名誉隊員の証よ。……また来年の夏も、一緒に探検しようね、悠真」
帽子を直そうと僕が顔を上げると、夏海の大きな瞳からは、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「うんっ……、ありがとう、お姉ちゃん……!」
僕はたまらず、夏海の胸に飛び込んでギュッと抱きついた。夏海も、僕の背中を優しくポンポンと叩いてくれた。
ボーーーーーッ!!!
出港を告げる、フェリーの巨大な汽笛が港中に響き渡った。
「ほら、悠真、船が出るぞ! 行きなさい!」
正雄おじさんに促され、僕は涙を拭いながらタラップを駆け上がった。
船の甲板に出て、手すりから身を乗り出す。
岸壁が少しずつ離れていく。太一が、源さんが、正雄おじさんが、そして夏海が、ちぎれんばかりに大きく手を振っているのが見えた。
「みんなー! ありがとー! また来るよーーっ!」
僕は、夏海にもらった麦わら帽子が風で飛ばされないように片手で押さえながら、もう片方の手を思い切り振って叫んだ。
海風が、僕の声を島の方へと運んでいく。
船がスピードを上げ、白い波しぶきを上げながら外洋へと出ていく。
緑に覆われた雄大な四原山の姿が、少しずつ小さくなっていく。あの山のどこかで、カブトムシを見つけ、湧き水を飲み、そして星空の下でポラリスを宇宙へ見送ったのだ。
全てが、夢のような、けれど絶対に忘れることのない、僕の血肉となった現実の思い出だ。
僕はズボンのポケットに手を入れた。
そこには、ボストンバッグからこっそりと移し替えておいた、あの群青色の石があった。
ギュッと握りしめると、石はやはり、生きているようにじんわりと温かかった。
「見ててね、ポラリス。僕、東京に帰ったら、世界で一番かっこいいお兄ちゃんになるから」
僕は海風に向かって、誰にも聞こえない声で誓った。
見上げる空は、あの日、台風の目の中で見た宇宙へと続く空と同じように、どこまでも高く、深く澄み切っていた。
僕の、特別で、少し不思議な夏休みは、こうして静かに終わりを告げたのだった。




