表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/6

第2章:防波堤の釣り人と、しゃべる図鑑

 島での二日目の朝は、遠くから聞こえる定期船のくぐもった汽笛の音で目が覚めた。「ボーッ」という腹の底に響くような低い音が、木造の古い家の柱を伝って僕の耳に届く。障子越しに差し込む朝日はすでに強く、今日も厳しい暑さになることを予感させていた。

 僕は布団の中で寝返りを打ちながら、真っ先にズボンのポケットを探った。昨日、四原山の

 深い森の奥、巨大なシダ植物の陰で見つけたあの不思議な「石」。

 ズボンを脱いで枕元に置いておいたはずなのに、寝ぼけてどこかにやってしまったのではないかと一瞬心臓が跳ねたが、指先はすぐにあの硬くて滑らかな感触を捉えた。

 布越しでもわかる、じんわりとしたマグカップのような温もり。ドクン、ドクンという微か

な鼓動。夢じゃなかったんだ。

 僕はそっと石を取り出し、手のひらに乗せてみた。深い群青色の半透明の石は、朝の光の中

でもその中心から淡い青白い光を蛍のように明滅させていた。見れば見るほど、地球上のもの

とは思えない。ガラス玉でも、ただの鉱石でもない。まるで、石自体が静かに呼吸をして、生

きているみたいだった。


「悠真、起きてるー? 朝ごはん食べるよー!」


 廊下の向こうから夏海の明るい声が聞こえ、僕はビクッと肩を揺らした。咄嗟に石をリュッ

クサックの奥深くに押し込み、タオルで隠す。誰にも見せてはいけない。この石は僕だけの絶

対の秘密だという直感が、僕の心を支配していた。


「今、行く!」


 パジャマからTシャツと半ズボンに着替え、居間へと向かう。食卓には、昨日の朝と同じよう

に、ふっくらと炊き上がった白いご飯と、大根の味噌汁、そして今日は甘辛い匂いを漂わせる

魚の煮付けが並んでいた。


「おはよう、悠真。よく眠れたか?」


 正雄おじさんが、すでにランニングシャツ姿で新聞を広げながら豪快に笑いかけてくる。


「うん、おはようございます。すごくよく寝ました」

「よしよし。島の子はよく食ってよく寝るのが一番の仕事だからな。ほれ、カレイの煮付け

だ。骨に気をつけて食えよ」


 甘辛いタレが染み込んだカレイの身は、箸を入れるとホロリと崩れ、口の中に入れるととろ

けるように柔らかかった。僕は無我夢中でご飯をかき込んだ。東京で食べるどんなご馳走より

も、この縁側から吹き込む潮風を感じながら食べる朝ごはんの方が、ずっと美味しく感じられ

た。


「ねえ悠真、今日は港の防波堤に行ってみない? 太一も誘ってさ」


 お茶碗を片付けながら、夏海が提案してきた。


「防波堤? なにするの?」

「釣りに決まってるでしょ。島の子の夏休みといえば、山でカブトムシか、海で釣りかのどっ

ちかよ。昨日は山だったから、今日は海。夕飯のおかずを自分たちで調達しに行くの」

「夕飯のおかずを、自分で……!」


 その言葉の響きに、僕は強く惹きつけられた。スーパーのパックに入った切り身しか知らな

い僕にとって、「自分で釣った魚を夕飯にする」というのは、テレビの中のサバイバル番組の

ような途方もない大冒険に思えたのだ。


「行く! 僕、釣りやってみたい!」

「よし、決まりね。お父さん、納屋からサビキ釣りの道具出しといて」

「おう、任せとけ。悠真、でっかいアジを釣ってこいよ!」


 朝食を終えると、僕と夏海は水筒にたっぷりの麦茶を氷ごと詰め込み、麦わら帽子を被って家を出た。リュックの中のあの石のことが少し気になったが、日中は大人しくしているようだったので、そのまま部屋に置いていくことにした。今はとにかく、目の前に広がる新しい冒険――「海釣り」のことで頭がいっぱいだった。



 家から港へ向かう道は、昨日登った山の道とは対照的に、どこまでも下り坂が続いていた。

 舗装された細いアスファルトの道は、すでに真夏の太陽に熱され、陽炎がゆらゆらと立ち上っている。道の両脇には、風除けのための高い石垣が積まれた古い家々が並び、庭先には色鮮やかなハイビスカスやブーゲンビリアが咲き乱れていた。

 坂を下るにつれて、セミの声に混じって、ザザーッという波の音が少しずつ大きくなってくる。そして、潮の匂いがむせ返るように濃くなった。


「あ、海だ……!」


 坂の最後のカーブを曲がった瞬間、目の前に視界いっぱいの海が広がった。

 群青色からエメラルドグリーンへとグラデーションを描く海面が、太陽の光を反射して何百万個ものダイヤモンドを撒き散らしたようにキラキラと輝いている。東京湾の灰色に濁った海とは違う、底の岩肌まで透けて見えそうなほど澄み切った海だった。


「綺麗でしょ。射豆大島の海は、黒潮が直接ぶつかるから特別に透明度が高いのよ」


 夏海が誇らしげに目を細めた。

 港には、数え切れないほどの白い漁船が係留されており、ロープが波に合わせてギシギシと音を立てていた。漁を終えたばかりの漁師たちが、大きなプラスチックの箱に氷を詰めたり、網の手入れをしたりしている。魚の生臭さと、船のエンジンの油の匂い、そして強烈な磯の香りが混ざり合った、港町特有の活気がそこにはあった。


「おーい! 夏海ちゃーん! 悠真ー!」


 防波堤の入り口付近で、クーラーボックスの上に座って足をぶらぶらさせている男の子が大きく手を振っていた。昨日と同じランニングシャツに半ズボン、後ろ被りの野球帽スタイルの太一だ。


「太一くん、おはよう!」


 僕が駆け寄ると、太一は「おっせーぞ!」と笑いながら僕の背中をバンと叩いた。


「潮が満ちてくる最高の時間を逃すところだったぜ。今日は大漁間違いなしだ」


 太一の横には、すでに何本かの釣り竿が立てかけられており、足元にはピンク色のドロドロとした何かが入ったバケツが置かれていた。強烈な生臭さが鼻をつく。


「うわっ……これ、なに? すごい匂い……」


 思わず鼻をつまむ僕を見て、太一はゲラゲラと笑った。


「アミエビだよ。サビキ釣りの撒き餌だ。この強烈な匂いがあるからこそ、魚たちが『なんだ

なんだ美味そうな匂いがするぞ!』って狂ったように集まってくるんだよ。釣りの基本中の基

本だぜ」

「こんな臭いのが餌なんだ……」

「おや、東京の坊主はアミエビの匂いにやられちまったかな」


 背後から、しゃがれた、けれどどこか温かみのある太い声がした。

 振り返ると、そこには麦わら帽子を深く被り、首にヨレヨレの手ぬぐいを巻いたおじいさんが立っていた。顔は長年潮風に晒されてきたせいで、古いマホガニーの木のように深く赤黒く日焼けし、目尻には無数の深い皺が刻まれている。着ている作業着にはあちこち塩が吹いていて、歩くたびに海の匂いがした。


げんさん、おはようございます」


 夏海と太一が元気よく挨拶する。


「おう、夏海ちゃんに太一坊主。それに、正雄のところに来てるっていう東京の甥っ子だな。俺は源蔵げんぞうだ。みんなからは源さんって呼ばれてる。よろしくな」


 源さんはそう言って、節くれだった大きな手を僕に差し出した。


「あ、木村悠真です。よろしくお願いします」


 僕がその手を握ると、石のように硬く、ザラザラとした感触がした。長年、冷たい海と重い網を相手にしてきた、本当の海の男の手だった。


「今日は坊主の釣りデビューだって太一から聞いてな。俺が直々にサビキ釣りの極意を教えてやろうと思って見に来たんだ。安心しな、俺の言う通りにすりゃ、クーラーボックスが入り切らないくらいアジが釣れるぞ」


 源さんはニカッと笑った。前歯が一本欠けていたが、その笑顔はとても力強くて頼もしかった。



 防波堤の先端近く、少し海にせり出した場所を陣取ると、源さんの「釣り教室」が始まった。


「いいか悠真。サビキ釣りってのはな、この小さなカゴにさっきの臭いアミエビを詰めて海に落とす。で、その下にはエビの形に似せた偽物の針(サビキ針)がいくつも付いてる。海の中でカゴを振って餌を撒き散らすと、魚は本物のエビと間違えて、この偽物の針にパクッと食らいつくって寸法だ。魚を騙すゲームみたいなもんだな」


 源さんは手慣れた手つきで、僕の釣り竿に仕掛けをセットしてくれた。竿の先から垂れ下がる糸には、キラキラと光る小さなピンク色の針が六つも並んで付いている。一番下には、餌を入れるためのプラスチックのカゴと、重りがついていた。


「さあ、このカゴにアミエビを八分目まで詰めてみろ。満杯にすると水中で上手く散らばらねぇからな」


 僕は専用の小さなスプーンを使い、顔をしかめながらピンク色のアミエビをカゴに詰め込んだ。手が少し汚れ、強烈な磯の匂いが指先に染み付く。最初は嫌だったけれど、不思議なことに数分もするとその匂いにも慣れてしまった。


「よし、上出来だ。そしたら竿を両手でしっかり持って、リールのこの金具ベールを起こす。そのまま仕掛けを海に落とすんだ。重りが海底に着いたら、糸がフワッとたるむ。そこが合図だ」


 言われた通りに金具を起こすと、シュルルルル……という小気味良い音を立てて、仕掛けが海底へと吸い込まれていった。透き通った海の中を、ピンク色のカゴがどんどん小さくなっていくのが見える。

 「トンッ」という微かな感触が竿を持つ手に伝わり、ピンと張っていた糸が少しだけたるんだ。


「着底したな。そしたらリールを二、三回巻いて、海底から少しだけ仕掛けを浮かせる。そして、竿を上にクイッとあおって、カゴの中の餌を撒くんだ」


 僕は緊張しながら竿をしゃくり上げた。海中深くで、アミエビのピンク色の煙がパッと広がるのが見えた。


「そのまま、ピタッと止めて待つ。魚が餌の匂いに気づいて寄ってくるのを待つんだ。……竿先をよーく見てろよ」


 源さんの言葉に、僕は息を止めて竿の先端、細くて柔らかいグラスファイバーの部分を凝視した。

太陽の光が海面に反射して眩しい。波の音がザザーッ、ザザーッと一定のリズムで響く。額から流れた汗が目に入って痛かったが、絶対に目を離してはいけないような気がして、瞬きも我慢した。

 十秒、二十秒……。何も起きない。


「ダメかな……」


 僕が弱音を吐きそうになった、まさにその瞬間だった。

 ピクッ。

 竿先が、何かに弾かれたように小さくお辞儀をした。


「あ……」

「まだだ。まだ合わせるな。完全に食い込むまで待て」


 源さんが鋭い声で制止する。僕の心臓が早鐘のように打ち始めた。

 ピクッ、ピクピクッ……。

 そして次の瞬間、竿先が海面に向かってググググッ!と激しく引き込まれた。手元に、まるで電気のようなブルブルとした力強い振動が直接伝わってくる。


「今だ! 巻け! リールを巻け!」

「うわあっ!」


 僕はパニックになりながら、無我夢中でリールのハンドルを回した。重い。さっき落とした時とは比べ物にならないくらい、確かな生命の重みと抵抗が糸の先にある。海の中に、見えない生き物がいて、僕の糸を必死に引っ張っている。そのダイレクトな感触に、全身の血が沸騰するような興奮を覚えた。


「竿を立てろ! 糸が緩むと逃げられるぞ!」


 太一が横から叫ぶ。僕は竿を胸の高さまで引き上げ、必死にリールを巻き続けた。

 やがて、海面の下からキラキラと銀色に光る魚体が上がってくるのが見えた。一つじゃない。二つ、三つ……!


「うおおっ! スリーカードだ!」


 太一が歓声を上げる。

 海面から抜き上げた仕掛けには、ピチピチと激しく跳ね回る、手のひらよりも大きなアジが三匹も掛かっていた。太陽の光を浴びて、その銀色の鱗が宝石のように輝いている。


「やった……! 釣れた! 僕が釣った!」


 僕は釣り竿を持ったまま、防波堤の上でピョンピョンと飛び跳ねた。


「はっはっは、お見事! 初めてで三匹掛けとは、悠真、お前さん釣り師の才能があるかもしれねぇな」


 源さんが顔の皺をさらに深くして笑い、タオルで魚を掴んで手際よく針から外してくれた。

 クーラーボックスの中で、三匹のアジがバタンバタンと力強い音を立てて跳ねる。


「これが、命の重さだ。スーパーでパックに入ってる切り身も、元はこうやって海の中で必死に生きてた命なんだぞ。釣ったからには、残さず綺麗に食べてやるのが、命に対する一番の礼儀ってもんさ」


 源さんの言葉は、僕の胸の奥にストンと落ちた。クーラーボックスの中で跳ねるアジを見つめながら、僕は自分が「生き物を殺して食べる」という、人間の営みの最も根源的な部分に、ほんの少しだけ触れたような気がした。少し怖くて、でも、とてつもなく誇らしい気持ちだった。



 その後も、僕たちは夢中になって糸を垂らし続けた。

 潮の動きが良い「時合い」だったらしく、仕掛けを落とせばすぐにウキが沈み、面白いようにアジや小サバが釣れた。時には、海底ギリギリを狙いすぎて、ゴツゴツとした岩のような赤い魚――カサゴを釣り上げることもあった。カサゴの背鰭には毒があるからと、源さんが慎重に針を外してくれた。

 お昼には、夏海が作ってきてくれたおにぎりを防波堤の陰で食べた。中身は島で採れた梅干しと、甘辛く煮た昆布。波の音を聞き、潮風に吹かれながら食べる塩むすびは、高級レストランのフルコースよりもずっと美味しく感じられた。


「ほら、太一。あんまり身を乗り出すと落ちるわよ」

「大丈夫だって! あそこに見えチヌがいるんだよ! 絶対に釣ってやる!」


 午後になると、刺すような日差しはさらに強さを増し、海面からの照り返しで顔が真っ赤に焼けていくのがわかった。麦わら帽子の中は汗でぐっしょりだったが、不快感よりも楽しさが勝っていた。


「よし、そろそろ潮止まりだ。今日のところはこの辺にしとくか」


 夕方四時を過ぎ、太陽が少しだけ西に傾き始めた頃、源さんがパンパンと手を叩いて終了を宣言した。

クーラーボックスの中を覗き込むと、氷水の中にたっぷりのアジとサバ、それに数匹のカサゴが入っていた。およそ三十匹はいるだろうか。三人で食べるには十分すぎる量だ。


「源さん、いろいろ教えてくれてありがとうございました!」


 僕が帽子を取って深くお辞儀をすると、源さんは「おう、またいつでも来な。今度は船に乗せて、もっとデカい魚を釣らせてやるからよ」と豪快に笑って、港の奥へと歩いていった。その背中は、長年の労働で少し丸まっていたけれど、大木のように力強く見えた。

 夕日に照らされ、オレンジ色に染まった帰り道を、僕たちはクーラーボックスを交代で持ちながら歩いた。行きよりもずっと重くなったクーラーボックスは、僕たちの「大冒険の戦利品」だった。

 家に帰ると、正雄おじさんが大げさに驚いて見せた。


「おおっ! こりゃあ大漁じゃないか! 悠真、よくやったな! 今夜はアジの刺身と、フライと、カサゴの煮付けで大宴会だ!」


 その日の夜ご飯は、言葉通り僕が釣った魚づくしのフルコースだった。

 さっきまで生きていた魚を、正雄おじさんが手慣れた包丁さばきでさばいていくのを見るのは、少しだけ胸が痛んだ。しかし、食卓に並べられたアジのフライを一口かじった瞬間、その痛みはどこかへ吹き飛んでしまった。

 サクッとした衣の中に、ふっくらとしてジューシーな白身が詰まっている。臭みなんて全くない。信じられないほど美味しかった。


「自分で釣った魚は美味いだろ?」


 正雄おじさんがビールを飲みながら笑う。


「はい! 今まで食べた魚の中で、一番美味しいです!」


 僕は口の周りにソースをつけながら、満面の笑みで答えた。命をいただき、自分の血肉に変える。その実感と感謝が、僕の中で新しく芽生えていた。島に来てまだ二日目なのに、僕は東京にいた頃の自分から、何段階もたくましく成長したような気がしていた。

 食事の後は、正雄おじさんが裏庭で沸かしてくれた薪風呂に入った。五右衛門風呂というらしく、底に木の板を敷いて入らないと火傷してしまうというスリル満点のお風呂だった。

 お湯から上がると、島の夜風が火照った体を優しく冷ましてくれた。庭では、リンリン、コロコロと秋の虫が少し気の早い鳴き声を響かせ始め、遠くからはザザーッという波の音が絶え間なく聞こえてくる。空を見上げると、東京では絶対に見えないような、無数の星が川のように空を横切っていた。天の川だ。


「……すごいな」


 僕は縁側に座り、冷たい麦茶を飲みながら、その圧倒的な星空に見惚れていた。宇宙の広さと、自分がその中のちっぽけな存在であることを肌で感じる。


「悠真、風邪ひくからそろそろ部屋に戻りなさいよ」


 夏海の声に促され、僕は「おやすみなさい」と言って自分の割り当てられた客間へと戻った。



 部屋の明かりを消し、布団の上にゴロンと横になる。

 開け放たれた窓からは、夜の海の匂いと、網戸越しに波の音が忍び込んでくる。目を閉じると、日中に見たキラキラ光る海面や、竿先が激しく引き込まれた瞬間の感覚が、まぶたの裏に鮮明に蘇ってきた。

 最高の二日目だった。太一という友達ができ、夏海という優しいお姉ちゃんがいて、源さんという海の師匠ができた。明日も、明後日も、こんな素晴らしい日々が続くのだと思うと、興奮でなかなか寝付けそうになかった。

 その時だった。

 リュックサックを置いている部屋の隅の方から、微かな光が漏れているのに気づいた。


「……あっ」


 僕は跳ね起き、リュックに駆け寄った。タオルをどけると、底に隠しておいたあの群青色の石が、朝よりもずっと強い光を放っていたのだ。

 青、水色、そしてかすかに紫色が混ざったような幻想的な光が、規則正しく明滅している。


『……ピピ……キドウ、カクニン……』


 昨日森の中で聞いたのと同じ、ラジオのノイズのような音が石から漏れていた。しかし、今回はもっとはっきりと人間の言葉の形を成している。

 僕は恐る恐る両手でその石をすくい上げた。

 石は、僕の手のひらの上でじんわりと熱を帯び、まるで心臓の鼓動のようにドクン、ドクンと激しく脈打っていた。


「熱っ……」


 僕が思わず手を離しそうになった瞬間。

 石は、僕の手のひらからふわりと浮き上がった。


「え……?」


 僕は自分の目を疑った。石は、重力というルールを完全に無視して、僕の目の高さでピタッと静止している。そして、石の表面に刻まれていた微細な幾何学模様が青白く光り輝き、そこから光の筋が上空へと放射された。

 放射された光は空中で交差し、複雑な形を作り上げていく。それは、テレビのSF映画で見たことがあるような、空中に浮かぶ立体映像――ホログラムだった。

 ホログラムは、幾つものリングが重なり合った地球儀のような形をしており、その中心で無数のデータのような光の粒が滝のように流れている。


『……言語パターンの解析を完了。現地知的生命体とのコミュニケーション・プロトコルを起動します』


 部屋の空気を直接震わせるような、無機質だけれどどこか少年のような、不思議な声が響いた。


「しゃ、喋った……!」


 僕は尻餅をつき、後ずさった。幽霊? いや、妖怪? なんだこれ。


『驚かせたなら謝罪します。私は、銀河系第3宙域・自律型惑星探査艦「ステラ・ホープ号」のメインAIコア、個体識別名称「ポラリス」です』

「ポ、ポラリス……? 銀河系……?」

『はい。私は地球の言語、文化、生態系を調査するために派遣された無人探査機の頭脳です。しかし、地球の大気圏へ突入する際、予期せぬ磁気嵐に巻き込まれ、推進システムに致命的なエラーが発生。この島……座標計算によると「イズオオシマ」というエリアの山中へ不時着しました』


 ポラリスと名乗ったその石(AIコア)は、淡々と、しかしどこか困惑したようなトーンで説明を続けた。


「不時着って……宇宙船が落ちたってこと?」

『肯定。衝撃により、ステラ・ホープ号の船体は大きく損傷し、修復に必要な重要パーツがこの島の中央部、半径5キロメートル圏内に飛散してしまいました。現在の私は、本体から切り離された単なるコアモジュールに過ぎず、自力で移動することも、船体を直すこともできません』


 ポラリスのホログラムがチカチカと点滅し、不時着時の軌道や、部品が飛び散ったらしい島の地図を空中に描き出した。それは、今日僕たちが見て回った射豆大島の形そのものだった。


『このままではエネルギーが枯渇し、私は二度と故郷の星へ帰ることができなくなります。それは、探査任務の完全な失敗を意味します』


 声のトーンに感情はないはずなのに、僕はなぜか、迷子になって泣きそうになっている小さな子供の姿をポラリスに重ねていた。僕自身、お母さんと離れてこの島に来たばかりで、不安でいっぱいだったからかもしれない。


「帰れなくなるの……? それは、可哀想だ」

『現地知的生命体――人間の子供よ。あなたの名前を教えてください』

「……悠真。木村、悠真だよ。小学三年生」

『ユウマ。生命体ユウマ、あなたに一つ、重大な要請があります』


 ポラリスのホログラムが僕の目の前までスッと近づき、青い光が僕の顔を照らした。


『私の代わりに、この島に散らばった宇宙船のパーツを探し集めてくれませんか。大人の人間に見つかれば、私は未知のテクノロジーとして軍や研究機関に回収され、解体されてしまう確率が99.8%です。だから、子供であるあなたにしか頼めないのです』



 宇宙船のパーツ探し。

 それは、昼間に体験した「海釣り」とはスケールが違う、本当の意味での大冒険の誘いだった。


「僕が……宇宙船の部品を?」


 僕はゴクリと唾を飲み込んだ。

 もし見つかったら怒られるかもしれない。危険な目に遭うかもしれない。でも、このままポラリスを見捨ててしまったら、彼は永遠にこの島でたった一人ぼっちになってしまう。

 お母さんが言っていた。「おじさんやお姉ちゃんの言うことをよく聞いて、一回り大きくなって帰ってくるのよ」と。

 困っている宇宙人(AIだけど)を助けることは、きっと「一回り大きくなる」ための試練なんだ。


「……わかった。僕、手伝うよ」


 僕が力強く頷くと、ポラリスの放つ青い光が、嬉しそうにパァッと明るさを増した。


『感謝します、ユウマ。あなたは私の恩人であり、地球で最初のパートナーです』

「パートナー……かっこいいな。でも、どうやって探せばいいの? 島は広いよ」

『問題ありません。私とパーツは微弱な量子通信でリンクしています。私がレーダーとなり、パーツの正確な位置をナビゲートします。ただし、私はこのままの姿では目立ちすぎます』


 ポラリスはそう言うと、ホログラムを収束させ、再びただの群青色の石に戻って僕の手のひらにコトンと落ちた。


『周囲に他者がいる場合、私はユウマの所持品に擬態し、テレパシーのような直接的な音声通信で指示を出します。通信機代わりになるものを何か持っていませんか?』


 僕は少し考えてから、リュックのポケットから一冊の分厚い本を取り出した。


「これならどう? お父さんが買ってくれた『原色日本昆虫図鑑』」

『スキャンします……。サイズ、重量ともに偽装に最適です。これより、私はこの図鑑のカバー内にドッキングし、外部からの干渉を遮断します』


 ポラリスの石は、図鑑の表紙の内側にピタリと張り付き、まるで最初からそこにあったプラスチックの飾りのように同化した。


『テスト。音声は聞こえますか、ユウマ』


今度は耳からではなく、頭の中に直接、ポラリスの澄んだ声が響いた。


「うわっ、すごい! 頭の中で声がする!」

『成功です。これなら誰にも気づかれずに会話が可能です。レーダーの反応によると、最初のパーツはここから西へ800メートル、古い木造建築物の床下に落ちているようです』


 西へ800メートルの木造建築物。それはおそらく、今日通り過ぎたあの小さな神社のことだ。


「神社だね。わかった、明日さっそく行ってみよう!」

『頼りにしています、ユウマ。……夜分遅くに睡眠を妨害して申し訳ありませんでした。明日の任務に備え、十分な休息をとることを推奨します。おやすみなさい』

「うん、おやすみ、ポラリス」


 図鑑を枕元に置き、僕は再び布団に潜り込んだ。

 心臓のドキドキが止まらない。

 昼間は麦わら帽子を被った普通の小学生。でも、裏の顔は、宇宙船の修理を手伝う極秘エージェント。

 波の音とセミの声が響く射豆大島の夜。僕の夏休みは、ただの「のんびりした田舎での休暇」から、「絶対に大人には秘密の、僕たちだけの大冒険」へと変わろうとしていた。

 天井の木目を眺めながら、僕は何度も心の中でガッツポーズをした。早く明日にならないかな。

 窓の外では、満天の星空が僕たちの秘密の契約を祝福するように、静かに、そして力強く瞬いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ