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第1章:麦わら帽子と、森の奥の落とし物

 島での最初の朝は、鼓膜を直接揺らすような、激しくも生命力に満ちた蝉時雨(せみしぐれ)で幕を開けた。

 ジリジリ、ワシワシという音の塊が、開け放たれた縁側の窓から遠慮なく入り込んでくる。

 東京のマンションの、分厚い防音ガラスとエアコンに守られた静かで均質な朝とは、何もかもが違っていた。

 僕は薄いタオルケットを跳ね除け、畳の上に身を起こした。足の裏に伝わる古いイ草の感触と、どこか懐かしい埃の匂いが、ここが遠く離れた「射豆大島」なのだという事実を改めて僕に突きつけてくる。天井を見上げると、太く立派な梁が剥き出しになっていて、この家が重ねてきた長い年月を物語っていた。


「悠真、おはよう。よく眠れた?」


 ふすまを開けて台所へ向かうと、エプロン姿の夏海が顔を出した。コンロの上では小鍋から白い湯気が立ち上り、焼き魚の香ばしい匂いと、少し焦げたような蚊取り線香の匂いが混ざり合って鼻をくすぐる。

 土間の残る古い台所には、朝日が斜めに差し込み、埃がキラキラと光の帯の中で踊っていた。


「おはよう。うん、すごくよく寝た。セミの声がすごくてびっくりしたけど」


 僕が目をこすりながら言うと、夏海はふふっと笑った。


「東京とは比べ物にならないでしょ。島の子はみんな、この声を目覚まし時計代わりにしてるんだから。最初はうるさくて起きちゃうかもしれないけど、三日もすればこれが子守唄みたいに聞こえてくるから不思議なものよ」


 居間に入ると、正雄おじさんがランニングシャツ姿で胡坐をかき、古ぼけた携帯ラジオに耳を傾けていた。テーブルの上には大きな麦茶のピッチャーが置かれている。ガラスの表面にはびっしりと水滴がつき、見ているだけで喉が鳴った。ラジオのスピーカーからは、実況アナウンサーの興奮した声と、カチカチという車輪の音が混ざり合って響いていた。


『最終コーナーを回った! 外から一気に仕掛ける、見事なスパートだ!』


「おおっ、いけ、そこだ! 踏み込め!」


 正雄おじさんは太い膝をバンバンと叩いて歓声を上げた。自転車競技、競輪の中継だ。おじさんは昔からこれが大の楽しみらしい。浅黒く日焼けした腕には、太い血管が浮き出ている。


「お父さん、朝から大声出さないでよ。今日は午前中、裏の納屋の断捨離を手伝ってくれるって約束したじゃない」


 夏海がお味噌汁の鍋をお玉でかき混ぜながら、呆れたように言った。


「わかってる、わかってる。このレースが終わったらな。古い本とかガラクタを一気に処分して、風通しを良くしてやるからよ。悠真も、怪我しないように気をつけて遊ぶんだぞ」


 朝食の食卓には、こんがりと焼けたアジの干物、大根おろし、ふっくらと湯気を立てる白いご飯、そして豆腐と島で採れたばかりの生ワカメの味噌汁が並んだ。小鉢には冷奴と、甘辛く煮付けられた謎の小魚の佃煮もある。どれもシンプルな料理なのに、海風のせいなのか、それとも島の空気のせいなのか、信じられないくらい美味しく感じた。特にワカメは肉厚でコリコリとした歯ごたえがあり、磯の香りが口いっぱいに広がる。僕はあっという間にお茶碗を空にし、おかわりをもらった。



 朝食後、約束通り正雄おじさんと夏海による納屋の片付けが始まった。裏庭にある納屋は、昔は漁の道具を入れるために使われていたらしいが、今はすっかり物置になっていた。

 僕も手伝おうとボロボロの段ボール箱を持ち上げようとしたが、「悠真はまだ来たばかりで疲れてるんだから、今日は遊んでおいで」と夏海に止められた。

 それでも少しだけ中を覗かせてもらうと、埃をかぶった木箱や、錆びた農具、それに昔誰かが使っていたらしい竹製の釣り竿や、ガラス玉でできた古い浮き球などがゴロゴロと転がっていた。まるでタイムカプセルを開けたような匂いがした。

 納屋の外壁には、古いけれどとても頑丈な、網目が完全に固定された金属製の換気口(ベントキャップ)が取り付けられていた。潮風に吹かれても錆びず、台風のような強風でも絶対に外れない造りになっている。細かいメッシュが虫やネズミの侵入をしっかり防ぐためのものだと、以前お父さんが図鑑で教えてくれたのを思い出した。島の人たちは、こうして厳しい自然と共存するための工夫を家のあちこちに凝らして暮らしているのだ。


「よし、それじゃあ今日は島の案内をしてあげる」


 片付けを一段落させた夏海が、顔の汗を首に巻いたタオルで拭いながら、玄関から二本の虫捕り網と緑色のプラスチック製虫かごを持ってきた。


「僕の分もあるの?」

「もちろん。島の子にとって、虫捕り網は冒険者の剣みたいなものだからね。これを持たずに外を歩くなんてあり得ないよ」


 夏海から網を受け取ると、長年使い込まれた木の柄のザラザラとした感触が手のひらに伝わってきた。ところどころ黒ずんでいて、歴代の持ち主たちの汗が染み込んでいるのがわかる。僕は急に自分が特別な探検隊の一員になったような気がして、思わず胸を張った。


「さあ、出発しようか。水筒は持った?」

「うん!」


 麦わら帽子を深くかぶった夏海を先頭に、僕たちは家の裏手から続く細い坂道を登っていった。



 舗装されていない土の道は、歩くたびにカサカサと乾いた音を立てた。道の両脇には背丈ほどもあるススキやシダが鬱蒼と茂り、その間をアゲハ蝶やモンシロチョウがひらひらと舞っている。時折、草むらからトカゲがカサッと音を立てて逃げていくのを見て、僕はその度にビクッと肩を揺らした。

 見上げれば、雲ひとつない群青色の青空がどこまでも広がっていた。太陽の光は肌をジリジリと焦がすように強く、数分歩いただけで首筋から汗がツーッと流れ落ちた。時折吹き抜ける、少し塩の匂いがする海風だけが、唯一の救いだ。

 坂の途中で、腰の曲がったおばあさんとすれ違った。手押し車を押しながら、ゆっくりと歩いている。


「おはようございます、キヨおばあちゃん」


 夏海が元気よく挨拶すると、おばあさんは顔の皺をくしゃくしゃにして笑った。


「おや、夏海ちゃん。そっちの可愛い子は、東京から来たっていう親戚の坊やかい?」

「はい、木村悠真です。よろしくお願いします」


 僕が帽子を取って頭を下げると、キヨおばあちゃんは「えらいねえ」と目を細め、手押し車のカゴからハッカ飴を二つ取り出して僕の手に握らせてくれた。


「島は暑いからね、熱中症には気をつけるんだよ」

「ありがとうございます!」


 島の人はみんな、こうして家族みたいに声を掛け合うんだなと、僕は不思議な温かさを感じながらハッカ飴を口に放り込んだ。スーッとした甘さが口の中に広がった。


「あ、夏海ちゃーん!」


 さらに坂を登り、苔むした狛犬が鎮座する小さな神社の境内が見えてきたところで、僕たちを呼ぶ声がした。

 見ると、ランニングシャツに半ズボン姿の男の子が、神社の冷たい石段に座ってソーダ味のアイスキャンディーをかじっていた。肌は正雄おじさんと同じくらい真っ黒に日焼けしていて、両膝には名誉の負傷と言わんばかりに大きな絆創膏が貼ってある。頭には野球帽を後ろ向きに被っていた。


太一(たいち)、おはよ。朝からアイスなんて食べてるとお腹壊すよ」

「へーきへーき。俺の胃袋は鉄でできてるからな。あ、こいつが昨日言ってた東京の親戚?」


 太一と呼ばれた男の子は、アイスの棒をゴミ箱にポイと放り投げると、石段をピョンと飛び降りて僕の顔をジロジロと覗き込んだ。好奇心に満ちた、ビー玉のようにキラキラした瞳だった。


「木村悠真です。小学三年生です」


 少し緊張しながら、持っていた虫捕り網を杖のようについて挨拶すると、太一はニカッと白い歯を見せて笑った。


「俺は太一!  同じ三年生だ。なんだよ、東京の奴だからもっと色白でヒョロヒョロしてるかと思ったけど、案外普通だな。よろしくな、悠真!」


 ポン、と遠慮のない強さで肩を叩かれ、僕は少しホッとした。太一は無造作に境内のご神木に立てかけてあった自分の虫捕り網を手に取った。彼の網はあちこち破れていて、白いタコ糸で不格好に縫い合わされていた。使い込まれた「歴戦の武器」という感じがして、少しかっこよく見えた。


「夏海ちゃん、悠真に島の『ホンモノ』、見せてやっていい?」

「ホンモノって……あそこに行く気? 危ないからあんまり森の奥には行っちゃダメって言ってるでしょ。この前もマムシが出たって駐在さんが言ってたわよ」


 夏海は呆れたようにため息をつき、腰に手を当ててお姉ちゃん風を吹かせた。

 しかし太一は「大丈夫だって! 俺がちゃんと用心棒になるし、秘密のルートを通るから安全だ」と僕の腕をぐいと引いた。


「悠真、ついてこい! 東京のコンクリートジャングルじゃ絶対に見られない、すっげー秘密基地と、最高のカブトムシスポットを案内してやるよ」


 太一の背中からは、圧倒的なまでの「夏休みの主役」のオーラが漂っていた。僕は夏海を振り返った。彼女は「もう、仕方ないわね。お昼には必ず戻るのよ」と苦笑いしながら、頷いてくれた。



 太一に連れられてやってきたのは、島の中央にそびえる四原山(しはらやま)のふもとに広がる、深い森の入り口だった。神社の裏手から細い獣道が続いている。


「ここから先は、大人はあんまり入ってこないんだ。俺たちだけの縄張りみたいなもんだな」


 太一が先頭を歩き、僕、そして少し心配そうな夏海が後ろに続く。一歩森の中へ足を踏み入れると、さっきまでの強烈な日差しが嘘のように遮られ、ひんやりとした、少し湿気を帯びた空気が肌を包んだ。

 頭上は鬱蒼と茂る広葉樹の葉に完全に覆い尽くされており、ところどころから木漏れ日が、まるで舞台のスポットライトのように光の柱となって真っ直ぐに差し込んでいる。

 土の匂いは一段と濃くなり、足元はふかふかとした腐葉土の絨毯に変わった。スニーカーで踏みしめるたびに、ギュッ、ギュッと柔らかい音がする。シダ植物が足元に群生し、まるで恐竜がいた時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。


「しっ……静かにしろ」


 突然、太一が足を止め、低い声で囁いた。彼に倣って僕も息を殺す。


「見ろよ、悠真。あそこのクヌギの木だ」


 太一が指差した先、ひときわ太いクヌギの木の幹の、少しえぐれたようになっている部分に、黒光りする大きな塊がいくつか張り付いていた。周囲には、ツンとするような甘酸っぱい樹液の匂いが漂っている。スズメバチが数匹、危険な羽音を立てて飛び回っているのが見えた。


「うわっ……すごい……!」


 思わず声が漏れそうになるのを、僕は両手で口を押さえて必死に堪えた。

 そこには、図鑑でしか見たことのないような立派な角を持ったカブトムシと、ノコギリのような顎を持つミヤマクワガタが、樹液を巡って小競り合いをしていた。


「しかもデカいぞ。島の虫は自然の栄養満点だからな、デパートで売ってるようなひ弱なやつらとは格が違うんだ」


 東京のホームセンターの隅で、小さなプラスチックケースに入れられておがくずに埋もれていた虫しか見たことがなかった僕は、自然の中で力強く生きるその姿に圧倒された。


「よし、悠真。お前が捕まえてみろ」

「えっ、僕が? でも、スズメバチがいるよ」

「あいつらは刺激しなけりゃ刺してこない。そーっと網を被せて、下からすくい上げるんだ。ビビるなよ」


 僕はごくりと唾を飲み込み、網を両手でしっかりと握り直した。抜き足差し足でクヌギの木に近づく。心臓がドクン、ドクンと早鐘を打っている。額から冷や汗が流れ落ちて目に入りそうになったが、瞬きするのも惜しかった。

 あと一歩。網を振り上げる。カブトムシがこちらの気配に気づき、威嚇するように前足を上げ、翅を少し広げた瞬間——


「えいっ!」


 僕は思い切り網を被せ、幹に沿って下へ滑らせた。網の中で、ガサガサッ、ブーン!という力強い羽音が響く。


「やった!  捕まえた!」

「おっしゃ! ナイスだ悠真! やればできるじゃねーか!」


 太一が自分のことのように大喜びし、背中をバンバン叩いてきた。虫かごに移したカブトムシは、ケースにぶつかってカンカンと音を立てるほど元気が良かった。黒光りする硬い装甲と、立派な角。僕は、自分が一歩だけ本物の「探検家」に近づいたような誇らしい気持ちになった。

 さらに森の奥へ獣道を進むこと十分。急な斜面を木の根につかまりながら登りきり、木々が少し開け、斜面が平らになった場所に、それはあった。

 古い車の廃タイヤ、どこからか拾ってきたような色褪せた木の板、青いブルーシート、そして錆びたトタン屋根の切れ端を複雑に組み合わせて作られた、不格好だけれど立派な小屋。


「どうだ! 俺たち島の子が三ヶ月かけて作った『秘密基地・第一号』だぜ!」


 太一が自慢げに両手を広げる。


「すごい……! 本当に秘密基地だ。テレビや漫画で見るやつみたいだ」


 僕は目を輝かせて小屋に近づいた。入り口には南京錠の代わりに太いロープが巻かれており、太一が手慣れた手つきでそれを解く。

 中に入ると、外の熱気が嘘のように涼しかった。秘密基地の中には、ボロボロになった昔の漫画雑誌、空き瓶に詰められた色とりどりのビー玉やメンコ、お菓子の空き箱で作ったロボット、それに電池の切れた古いラジカセなどが所狭しと並べられている。壁には島の地図が貼られ、赤いマジックでバツ印がいくつか書き込まれていた。

 まるで、誰にも見つからない宝箱の中身をひっくり返したような、少年だけの完璧な空間だった。太一がクーラーボックスから常温のラムネを取り出し、僕に渡してくれた。ビー玉を押し込んで飲むと、炭酸の刺激が喉を心地よく刺激した。



「夏海ちゃんはここで待ってて。俺、悠真に基地の裏にある『龍の涙』を見せてくるから」

「龍の涙? 何それ」


 「ただの湧き水よ」夏海がタイヤを重ねた椅子に腰掛け、麦わら帽子で顔をあおぎながら笑った。


「あまり遠くに行かないでよ。お昼の素麺が伸びちゃうからね」

「わかってるって! ほら、行くぞ悠真」


 僕と太一は秘密基地の裏手から、さらに奥へと続く細い獣道を進んだ。斜面は少しきつくなり、木の根が階段のようになっている場所をよじ登る。シダ植物が背丈を超えるほどに成長しており、まるで緑のトンネルのようだった。


「こっちこっち。ここの水、すっげー冷たくて美味しいんだ。島で一番美味い水だぜ」


 太一の言葉通り、崖の岩肌から澄み切った水がこんこんと湧き出している場所があった。岩の下には小さな水たまりができ、そこから細い小川となって森の下へと流れている。


「昔、この島が火山の噴火でできたとき、怒った龍が流した涙が固まってこの泉になったんだって、ばあちゃんが言ってた。だから龍の涙って呼んでるんだ」

「へえ……龍の涙」

「手ですくって飲んでみろよ」


 言われた通り、両手でお椀を作って湧き水をすくい、一口飲んでみる。


「冷たっ……! でも、すっごく美味しい!」


 冷蔵庫で冷やした水よりもずっと冷たくて、ほんのりと甘みを感じる。歩き回って火照っていた体が、内側から一気に冷やされていくのがわかった。


「だろ? ここは俺たちのオアシスなんだ」


 太一も豪快に水を飲み、顔を洗って「プハーッ!」と息を吐いた。水しぶきが太陽の光に反射してキラキラと光った。


「よし、戻ろうぜ。夏海ちゃんが怒り出す前に」


 太一が来た道を振り返り、ズボンの尻を払いながら歩き出した。

 僕も後を追おうとした、その時だった。

 ふと、道端に群生する巨大なシダ植物の陰に、何か違和感を覚えた。

 立ち止まり、目を凝らす。

 薄暗いシダの葉の奥深く、苔むした岩の隙間で、何かが淡く、青い光を放っているように見えたのだ。木漏れ日の反射ではない。それ自体が発光しているような、不思議な光だった。


「太一くん、ちょっと待って」

「ん? どうした? また珍しい虫か?」


 僕は太一の声を背中に聞きながら、吸い寄せられるようにシダ植物の茂みへと近づいていった。湿った土と腐葉土の匂いの中に、かすかに、焦げた金属のような匂いが混ざっている気がした。

 しゃがみ込んで、顔よりも大きなシダの葉をそっと手で掻き分ける。そこにあったのは、大人の握り拳くらいの大きさの、不思議な「石」だった。

 表面は川原の小石のように丸く磨き上げられているが、ガラスのように滑らかで、全体が半透明の深い群青色をしている。そして、その中心部分から、まるで蛍の光が明滅するように、淡い青白い光がふわり、ふわりと一定のリズムで漏れ出していた。


「なんだこれ……大きなガラス玉? それともビー玉のお化け?」


 恐る恐る手を伸ばし、その石に触れてみる。

 ヒヤリとしているかと思いきや、石はまるでお湯の入ったマグカップのように、じんわりと温かかった。そして、指先を通じて、ドクン、ドクンと、微かな鼓動のような振動が伝わってくる。まるで、石自体が生きているみたいだ。


『……ピー、ガガッ……ピピ……キドウ……カクニン……』


 突然、耳の奥で、ラジオのチューニングがずれたような小さな電子音が聞こえた気がした。

 人間の言葉のようにも聞こえたが、ノイズがひどくてよく聞き取れない。


「うわっ!」


 僕は驚いて手を引っ込めたが、石はそのまま静かに青い光を放ち続けている。ただの石じゃない。こんなもの、図鑑でもテレビでも、理科の授業でも絶対に見たことがない。


「おーい悠真! 何してんだよ、早く来いよ! 素麺食いっぱぐれるぞ!」


 少し先から太一が僕を急かす声がした。

 僕は咄嗟に、その青い石を両手で掬い上げた。ずっしりとした重みがあった。そのまま、穿いていた半ズボンの大きなポケットの奥深くに押し込んだ。

 なぜだか分からないけれど、これは大人や太一に見せてはいけない、自分だけの「絶対の秘密」にしなければいけないような気がしたのだ。誰かに見せたら、取り上げられて、二度と戻ってこないかもしれないという強い直感があった。

 ズボンのポケット越しに、石の柔らかな温もりが太ももに伝わってくる。


「今、行く!」


 立ち上がり、太一の元へ駆け出しながら、僕は何度もポケットの上からその膨らみを確かめた。

森の木漏れ日の中、遠くで鳴くヒグラシの声が、なぜか少しだけよそよそしく聞こえた。島に来てまだ数時間。僕ののんびりとした夏休みに、東京では絶対にあり得ない「何か」が紛れ込んだ瞬間だった。



 その日の昼ごはんは、氷水に浮かべた冷たい素麺と、庭で採れたばかりのミョウガやネギの薬味だった。たっぷりの氷と一緒にガラスの鉢に盛られた素麺は涼しげで、夏海が作ってくれた甘めのめんつゆとよく合って、僕は三束も平らげてしまった。

 午後は太一と夏海と一緒に港の防波堤へ行き、海を泳ぐ小魚の群れを眺めたり、カニを捕まえたりして過ごした。太陽の光が海面に反射して眩しく、潮風がベタベタと肌にまとわりついたが、それすらも心地よかった。

 島での生活は刺激的で楽しいことばかりのはずなのに、僕はどこか上の空だった。カニを捕まえている時も、堤防でアイスを食べている時も、ポケットの中の温かい石の存在が気になって、気になって、仕方がなかったからだ。歩くたびに太ももに当たるその重みが、僕にしかわからない秘密の暗号のように感じられた。

 夕方になり、空が鮮やかな茜色から深い群青色へとグラデーションを描き始める頃、僕たちはそれぞれの家へと帰った。

 夜になれば、自分の部屋で一人になれる。そうすれば、布団の中でこの不思議な落とし物の正体を、誰にも邪魔されずにゆっくり確かめることができる。

 早く、夜にならないかな。

 僕は縁側に座り、西の空に一番星が瞬き始めるのを見つめながら、ポケットの中の秘密の石を、ズボンの上からそっと撫でた。ドクン、という微かな鼓動が、僕の心臓の音と重なったような気がした。島での特別な夏休みは、まだ始まったばかりだった。

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