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プロローグ:大きなお腹と、青い海への切符

「それじゃあ、いってきます」


 僕、木村悠真きむらゆうまは、玄関の三和土三和土(たたき)でスニーカーの紐をきゅっと結び、振り返った。

 リビングのソファには、いつものように大きなお腹を大切そうに抱えたお母さんが座っている。予定日は八月の終わり。もうすぐ、僕にお妹ちゃんか弟ができる。


「悠真、体に気をつけるのよ。おじさんやお姉ちゃんの言うことをよく聞いて、迷惑をかけないようにね」


 お母さんは少し苦しそうに、限界まで大きくなったお腹をさすりながら、でも優しい笑顔を浮かべて言った。

 僕はそのお腹に近づき、そっと手のひらを当てた。手のひらを通じて、どくん、どくんと小さくて力強い命の足音が聞こえるような気がした。


「うん、わかってる。僕、もう小学三年生だし、お兄ちゃんになるんだから大丈夫だよ」


 強がってみせたけれど、本当は胸の奥が少しだけチクリと痛かった。

 生まれてから九年間、ずっとお母さんと離れて暮らしたことなんて一日もなかったからだ。

 でも、お医者さんから「お母さんは出産まで入院するか、家で絶対に安静にしていなければいけない」と言われたとき、僕は自分から「夏休みの間、島のおじさんの家に行く」と言い出した。

 お兄ちゃんになるための、最初の試練だと思ったからだ。


「いってらっしゃい、悠真。一回り大きくなって帰ってくるのを待ってるね」


 お母さんの言葉に、僕は元気よく頷いた。

 お父さんが僕の肩をぽんと叩き、荷物が詰まった大きな青いボストンバッグを持ち上げた。

 外に出ると、東京のむっとするようなアスファルトの熱気が僕たちを包み込んだ。セミの声が、高層ビルの間に木霊して、まるで僕の出発を急かすようにジリジリと鳴り響いていた。



 東京港・竹柴客船ターミナルは、夏休みを利用して旅に出る人々でごった返していた。

 大きなリュックを背負った大学生のグループや、浮き輪を持った家族連れ。

 その中で、僕は一人で大きなボストンバッグを抱えて立っていた。お父さんは仕事があるため、船の乗船口までしか見送りに来られない。


「悠真、これが乗船券だ。ポケットにしっかりしまっておきなさい。島に着いたら、正雄おじさんが必ず港で待ってくれているからね」


 お父さんから手渡されたのは、射豆大島いずおおしま行きの大型客船の切符だった。そこには、僕の名前と、まだ見ぬ未知の島への航路が記されていた。

 改札が始まり、人の波がゆっくりと動き出す。


「じゃあね、お父さん。お母さんのこと、よろしくね」

「ああ、任せろ。悠真も、正雄おじさんの家でしっかりお手伝いするんだぞ」


 お父さんと固い握手を交わし、僕はタラップを登って船に乗り込んだ。

 船内は思ったよりもずっと広くて、まるで行く先々が迷路のようだった。

 自分の座席を確認し、荷物を置くと、僕はすぐに最上階の展望デッキへと駆け上がった。

 汽笛が、お腹の底に響くような大音量で「ボーッ」と鳴り響いた。ゆっくりと船が岸壁から離れていく。

 デッキの手すりにつかまりながら、僕は小さくなっていくお父さんの姿を探した。お父さんは大きく手を振っていた。僕も千切れるほどに手を振り返した。

 船がスピードを上げると、レインボーブリッジが頭上を通り過ぎ、やがてお台場の観覧車や東京タワー、そして無数の高層ビルが、夏の霞の中に溶けるように小さくなっていった。

 東京湾を出ると、船の揺れが少し大きくなった。それと同時に、風の匂いが変わった。排気ガスとアスファルトの匂いから、どこか塩辛くて、どこまでも深い、本当の海の匂いだ。

 僕は大きく息を吸い込んだ。胸がいっぱいに膨らむ。不安はまだ消えていなかったけれど、それ以上に、これから始まる長い夏休みへの小さなワクワクが、僕の心の中で静かに芽生え始めていた。



 船旅は数時間に及んだ。最初は珍しかった海の景色も、やがて見渡す限りの水平線だけになり、僕は客室の椅子でいつの間にか眠ってしまっていた。


「まもなく、射豆大島、射豆大島に到着いたします」


 船内のアナウンサーの声で目が覚めた。

 慌てて窓の外を見ると、そこには東京では決して見ることのできない、圧倒的な大自然の光景が広がっていた。

 島の大部分が、深い、吸い込まれそうなほどの濃い緑に覆われている。そして島の中央には、天を突くように雄大な山がそびえ立っていた。あれが、事前にお父さんから聞いていた「四原山しはらやま」なのだろうか。山頂からは、うっすらと白い湯気のような煙が立ち上っているように見えた。

 船が港の岸壁にゆっくりと近づき、ロープが投げられる。タラップが架けられ、乗客たちが一斉に降り始めた。僕はボストンバッグを両手でしっかりと握り締め、人の波に続いて島の地面に足を下ろした。


「うわっ……」


 思わず声が出た。

 一歩足を踏み入れた瞬間、僕を包み込んだのは、東京のそれとは全く違う、むせ返るような夏の空気だった。太陽の光が痛いくらいに強烈で、アスファルトではなく、土と、草と、そして潮の匂いが強烈に混ざり合った風が吹き抜けていく。

 そして何よりも、耳をつんざくようなセミの声。まるですべての木々に何千匹ものセミが止まっているかのように、島全体がジージーと激しく鳴いていた。


「おーい! 悠真かー!」


 人混みの向こうから、割れんばかりの大声が響いた。声のする方を見ると、麦わら帽子をかぶり、日に焼けて真っ黒になった体格のいいおじさんが、ちぎれんばかりに手を振っていた。お母さんの弟の、正雄まさおおじさんだ。

 そして、そのおじさんの隣には、一人の女の子が立っていた。

 彼女は、白いTシャツにデニムのショートパンツを穿き、おじさんと同じようなストローハットをかぶっていた。すっと通った鼻筋と、少し意志の強そうな大きな瞳。中学一年生になるという、僕の従姉妹の「夏海なつみ」ちゃんだった。

 僕がトコトコと歩み寄ると、正雄おじさんは僕の頭を大きな手でがしがしと撫で回した。


「よく一人で来たな! 偉いぞ悠真。お姉ちゃんになるお母さんのためにも、この島でたくましくなって帰るんだぞ!」

「うん、おじさん、よろしくお願いします」


 僕がぺこりと頭を下げると、正雄おじさんはガハハと豪快に笑った。

 隣にいた夏海ちゃんは、少しはにかんだような表情を浮かべ、僕の目の高さまでしゃがみ込んでくれた。


「遠いところ、お疲れ様。悠真くん、荷物重いでしょ? 一つ持ってあげる」


 そう言って、僕の手から小さな手提げ袋をひょいと受け取ってくれた。彼女の腕は、健康的で綺麗な小麦色に焼けていた。


「ありがとう、夏海ちゃん」

「ふふ、夏海でいいよ。この島には、東京にない面白いものがたくさんあるからね。明日から、秘密の場所にいっぱい連れて行ってあげる。よろしくね、悠真」


 夏海はそう言って、ひまわりが咲いたような眩しい笑顔を見せた。

 港の向こうには、青い空と、どこまでも続く入道雲、そしてキラキラと輝く射豆大島の海が広がっている。

 僕の、一生忘れることのない、特別で少し不思議な夏休みが、今、ここから始まろうとしていた。

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