第9話 「七海の声が変わった日」
十二月に入った。
街が変わる季節だ。
イルミネーションが灯り始め、駅前のスピーカーからクリスマスの音楽が流れ始める。
人の流れが少し速くなる。
年末に向かって、世の中全体がどこか前のめりになっていく。
翔太にはその「前のめり」が、カーテンの向こうから伝わってくる。
街の音が少し違う。
遠くから聞こえてくる音楽の断片。
夜が早くなった分、人の気配が夕方に集中する。
この季節が、翔太は昔から少し苦手だった。
在職中、十二月は一番忙しかった。
年度末に向けての数字のプレッシャー、忘年会の段取り、クライアントへの挨拶回り。
忙しいことを「充実」と呼ぶ感覚が、当時の翔太にはあった。
今思うと、充実ではなく消耗だったかもしれない。
でも消耗を充実と呼んでいた。
そうしないと、立っていられなかった。
引きこもってからの十二月は、去年が最初だった。
あの十二月は、ひどかった。
街の「前のめり」と自分の「停止」の落差が、あれほどはっきりした季節はなかった。
世界が動いている音が、部屋の中まで入ってきた。
翔太は布団にくるまって、スマホの電源も切っていた時期があった。
今年は、少し違う。
完全に違うわけじゃない。
街のイルミネーションを見に行く気力はないし、年末の空気が心地いいとも思わない。
でも去年ほど、落差に押しつぶされる感じはない。
それが七海のおかげなのか、自分が変わってきているのか、翔太には判断できなかった。
その夜も、通話した。
最初は普通の話だった。
七海が「今日の昼、弁当を買いに行ったら唐揚げが売り切れてて悲しかった」と言って、翔太が「唐揚げはなくなるのが早い」と言って、七海が「分かる、なんで唐揚げだけそんな競争率高いの」と言った。
笑える話をしていた。
でも翔太は気づいていた。
七海の声が、いつもと少し違う。
明るいことを言っているのに、声の奥に何か重いものがある。
無理に明るくしている、とまでは言えない。
でも、いつもより声が疲れている。
長い時間働いた後の声じゃなく、何か別の疲れ。
「七海、今日何かあった?」と翔太は聞いた。
少し間があった。
「なんで?」と七海が言った。
声が、わずかに揺れた。
「声が、いつもと違う気がして」
また間があった。
今度は少し長い間。
「……お母さんから電話があって」と七海は言った。
翔太は黙って聞いた。
「お父さんの状態が、少し悪くなったって。脳梗塞の後遺症で、前からリハビリしてたんだけど。最近、飲み込みがうまくできなくなってきてるって」
「嚥下障害か」と翔太は言った。
「そう。誤嚥性肺炎のリスクが出てきたって、お医者さんに言われたって」
「大変だな」と翔太は言った。
「うん」と七海は言った。
また間が落ちた。
翔太は何か言わなければ、と思った。
でも何を言えばいいか分からなかった。
「大丈夫」と言うのは嘘だ。
大丈夫かどうか、翔太には分からない。
「頑張って」と言うのも違う。
七海はもう十分頑張っている。
「お母さん、一人でやってるんだっけ」と翔太は言った。
「うん。施設に入れられれば一番いいんだけど、費用がね」
「そうか」
「お母さん、なんか声が細くなってた」と七海は言った。
「電話のたびに、少しずつ細くなってる気がする」
翔太は七海の声を聞いた。
七海の声も、今夜は少し細い。
「帰ってほしいって、言われた?」と翔太は聞いた。
「まだ、直接は言われてない」と七海は言った。
「でも、言われる前に分かる。お母さんが何を考えてるか、大体分かるから」
「七海がいなきゃいけない、みたいな感じ?」
「私しかいないから。兄弟いないし」
翔太は少し黙った。
七海が「帰る」ということになれば、どうなるのか。
東京を離れる。
仕事を辞める。
それだけじゃなく——この通話も、減るか、なくなるか。
翔太は一瞬そこまで考えて、すぐに引っ込めた。
今そんなことを考えるのは、違う。
「どうしようと思ってる?」と翔太は聞いた。
「まだ分からない」と七海は言った。
「分からないまま、考えてる」
「そっか」
「翔太くんはどう思う?」
翔太は、その問いに少し詰まった。
どう思う。
何を、どう思えばいいのか。
七海が帰るべきかどうか、翔太には判断できない。
すべきことと、したいことと、できることが、七海の中でどう絡まっているか、翔太には見えない。
「俺には、分からないな」と翔太は言った。
「七海の家のことだから」
電話の向こうで、七海が少し息を吐いた。
「……そうだよね」と七海は言った。
その「そうだよね」に、翔太は何かを感じた。
落胆、ではなかった。
でも、何かを期待していたのかもしれない言葉だった。
「ごめん、何か言えればよかったんだけど」と翔太は言った。
「ううん、いいよ」と七海は言った。
「聞いてもらえただけで、十分」
その言葉は、穏やかだった。
穏やかだったが、翔太には少し引っかかった。
聞いてもらえただけで十分、という言葉の裏に、何かがある気がした。
もう少し何かを求めていたけれど、それを引っ込めた時の言葉に、聞こえた。
「……七海」と翔太は言った。
「うん?」
「今日は、少しつらいんじゃないか」
また間があった。
今度の間は、さっきより長かった。
「……うん」と七海は言った。
声が、少し揺れた。
「そっか」と翔太は言った。
それ以上、何も言えなかった。
言えなかったが、何かを言わなくてもいい気がした。
ただ電話の向こうにいること。
その場所にいること。
それしか今の翔太にはできなかった。
しばらく、静かな時間が続いた。
七海が鼻をすする音がした。
泣いているわけじゃない。
でも、泣く一歩手前の、そういう音。
「翔太くん」と七海が言った。
「うん」
「ありがとう」
「何もしてないけど」
「いてくれてるじゃない」と七海は言った。
翔太はその言葉を聞いた。
いてくれてる。
電話の向こうに、ただいること。
それが七海には、何かになっている。
翔太はそれを、少し不思議に思いながら、でも否定しなかった。
「いるよ」と翔太は言った。
「うん」と七海は言った。
また少し沈黙があって、それから七海が「そろそろ寝ようかな」と言った。
「うん」
「おやすみ、翔太くん」
「おやすみ」
電話が切れた。
翔太は部屋の暗さの中に座っていた。
外では、どこかのお店のクリスマス音楽が風に乗って聞こえてくる。
遠くて、かすかで、でも確かに聞こえてくる。
翔太は日記を開いた。
七海の声が、今夜は違った。
お父さんの状態が悪くなっているらしい。
帰ってほしいと言われる日が近いかもしれない。
俺には何もできなかった。
「分からない」と言った。
それしか言えなかった。
書いて、少し止まった。
七海が「いてくれてるじゃない」と言った。
俺はただ電話の向こうにいただけだ。
それが何かになっているとしたら、俺には少し、重い。
——重いとはどういう意味か、まだ言葉にできない。
閉じた。
十二月の夜は、深くて静かだった。
街の音楽が、また少し聞こえて、また遠ざかった。
翔太は電気を消して、布団に入った。
七海が今夜ちゃんと眠れるといい、と思った。
それから、その「思った」の意味を、少しだけ考えた。
心配しているのか。
それとも、心配することで自分が何者かになろうとしているのか。
分からなかった。
ただ、眠れるといい、と思った。
それは本当のことだった。




