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第8話 「このままでいい、と思った夜」

 十一月の中旬、木枯らしが吹いた。

 木の葉が一気に落ちて、街路樹が骨だけになる季節。

 空は高くて青いが、その青は夏のものと違う。

 突き抜けるような青ではなく、薄くて、遠い青。

 翔太の部屋から見えるわずかな空も、その色になっていた。


 コンビニに行った日から、翔太の生活が少しだけ変わった。

 変わった、というほどではないかもしれない。

 でも、何かのリズムができた。

 二日に一度くらい、夜に外に出る。

 コンビニか、その近くを少し歩くか。

 それだけ。

 劇的なことは何もない。

 ただ、靴箱を開けることへの抵抗が、少し薄れた。


 昼間に起きていることが、増えた。

 完全に昼夜が逆転しているわけではなくなった。

 朝の十時か十一時には目が覚めて、午後に眠くなることもあるが、そこで少し我慢すると夜にちゃんと眠れる。

 そういうリズムが、うっすらと戻ってきた。


 悦子が気づいていないわけがなかった。

 ある朝、翔太が台所に来ると、悦子がまだいた。

 パートに出る前の時間。

 悦子は朝食を食べていて、翔太が来ると少し顔を上げた。

「早いね」と悦子は言った。

 いつもの悦子なら「そう」で終わるところだった。

 でも「早いね」と言った。

 翔太は「まあ」と答えて、冷蔵庫を開けた。


「朝ごはん、あるよ」と悦子が言った。

「昨日の残りだけど」

「いい」と翔太は言って、パンを取り出した。

 二人で、同じテーブルで朝食を食べた。

 テレビはついていなかった。

 静かだったが、以前の沈黙とは少し質が違った気がした。

 以前の沈黙は「言えないことが多すぎる」沈黙だった。

 今朝の沈黙は、もう少し軽い。

 言わなくてもいいことを、言わないでいる沈黙。


「最近、外に出てるの?」と悦子が聞いた。

 翔太は少し驚いた。

 悦子から先に聞いてくることは、あまりなかった。

「ちょっとだけ」と翔太は答えた。

「そう」と悦子は言った。

 それから少し間があって、「よかった」と言った。


 よかった。

 その二文字が、翔太には少し意外だった。

 悦子が「よかった」と言うのを聞いた記憶が、あまりない。

 感情を言葉にしない人だから。

 でも今朝は、言った。

 翔太は「まあ、コンビニだけど」と言った。

「それで十分だよ」と悦子は言った。


 それから二人ともパンを食べて、悦子がパートに出ていった。

 玄関で「行ってきます」と言った。

 翔太は「うん」と返した。

 ドアが閉まってから、翔太はしばらくテーブルの前に座っていた。

「それで十分だよ」という言葉が、頭に残っていた。


 悦子がそういうことを言う人だとは、思っていなかった。

 いや、思っていなかったというより、そういう言葉を翔太に向けることがなかった。

 翔太の記憶の中で、悦子は何かを「十分だ」と言う人じゃなかった。

 十分かどうか、というより、そもそも評価を言葉にする人じゃなかった。

 少し、変わってきているのかもしれない。

 翔太は、その変化の理由を考えた。

 俺が少し変わったから、悦子も変わってきているのか。

 それとも、悦子はずっとそういう言葉を持っていたけれど、言えなかっただけなのか。

 分からなかった。

 でも、どちらでもよかった。


 その夜、七海と通話した。

 話しながら、翔太は部屋を見回した。

 積み上げていた本を、少し片付けていた。

 全部じゃない。

 でも、足の踏み場がなくなっていた床の本を、段ボール一箱分だけ整理した。

 すっきりした、というほどではないが、少し広くなった。

「声、変わったね」と七海が言った。

「そう?」

「うん。なんか、落ち着いてる感じ」

「そうかな」と翔太は言って、少し考えた。

「最近、昼間に起きてることが多くなったから、それかも」

「それ、すごいことだよ」

「大したことじゃないけど」

「大したことだよ」と七海は言った。

 穏やかだが、確かな声で。

「翔太くんにとって大したことじゃなくても、外から見たら大したことだから。そこは受け取っていいと思う」


 翔太は少し黙った。

 受け取る、という言い方が、翔太には新鮮だった。

「気にするな」でも「謙遜するな」でもなく、「受け取っていい」という言い方。

「受け取る」と翔太は言った。

「うん」と七海は笑った。


 話は続いた。七海の職場の話。

 電話口で理不尽なことを言ってくる客の話。

 翔太が「それはひどいな」と言うと、七海が「でもそういう人ほど最後に謝ってくることある」と言った。

 翔太が「なんで?」と言うと、七海が「自分でも分かってるんだと思う。言いすぎたって」と言った。

「人に優しいな」と翔太は言った。

「優しいんじゃなくて、慣れてるだけだよ」と七海は言った。

 その言い方が、少し寂しそうに聞こえた。

 翔太はそれを聞いて、七海のことを聞いてみようかと思った。

 七海の仕事の話や日常の話は聞くけれど、七海自身のことはあまり聞いたことがない。

 聞いていいのか分からなかった。


「七海は、今の仕事、好き?」と翔太は聞いた。

 電話の向こうで、七海が少し間を置いた。

「好きかどうかは、よく分からない」と七海は言った。

「向いてる気はするけど」

「向いてるのに好きかどうか分からない、か」

「そういうことって、あるじゃない。得意だからやってるけど、それが本当にやりたいことかどうかは別、みたいな」


 翔太は少し考えた。

「俺の営業も、そうだったかもしれない」と翔太は言った。

「向いてないとは思ってなかった。でも好きだったかと言われると、分からない」

「そっか」

「評価されることが、好きだったのかもな」と翔太は言った。

 口に出してから、少し驚いた。

 日記には書いたことがあるが、誰かに話したのは初めてだった。

 七海はすぐには答えなかった。

 少し考えるような間があって、「それ、正直だね」と言った。

「そうかな」

「うん。普通は言わないよ、それ」

「言ったほうがよかったのかな、もっと早く」

「誰に?」と七海が聞いた。

 翔太は答えに詰まった。

 上司に、かもしれない。

 同僚に、かもしれない。

 あるいは——誰にでもなく、ただ自分に、かもしれない。

「分からない」と翔太は言った。

「分からなくてもいいと思う」と七海は言った。

「今、翔太くんが分かってるんだから」


 翔太はその言葉を聞いて、少し目を閉じた。

 今、分かっている。

 それで十分だ、という気がした。

 通話を切った後、翔太は布団に仰向けになった。

 天井を見た。

 この部屋に来て、何度この天井を見たか数えられない。

 シミの形はもう全部知っている。

 羽を広げた鳥も、雲みたいな形も、全部知っている。

 でも今夜は、天井が少しだけ近く見えた。

 距離が縮まったというより、自分が少しだけ上に来た感じ。


 日記を開いた。

 最近、昼間に起きている。

 外に出ている。

 七海と話している。

 このままでいい、と思った。

 この部屋で、画面の向こうに七海がいれば、それで十分かもしれない。

 初めて、消えたいと思わなかった日が続いている。

 書いて、少し止まった。

 ——これは前進なのか、それとも新しい形の停止なのか、俺には分からない。

 分からないまま、今夜は眠る。

 閉じた。


 外では木枯らしが続いていた。

 窓が、わずかに鳴っている。

 翔太はその音を聞きながら、目を閉じた。

 今夜は、眠れる気がした。

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