第7話 「コンビニまでの五十メートル」
十一月に入ると、日暮れが急に早くなった。
午後四時を過ぎると、空の端から橙色が滲み始める。
五時には暗い。
夏の名残が完全に消えて、冬が足音を立てずに近づいてくる季節。
翔太の部屋のカーテンに差し込む光の線は、さらに角度を落として、もう床に届くかどうかというところまで来ていた。
七海との通話が、習慣になっていた。
毎晩ではない。
でも二日に一度、あるいは三日に一度、どちらかが「電話していい?」と聞く。
たいていは七海から聞いてくることが多かったが、翔太から聞くこともあった。
最初に比べると、翔太から聞く回数が少しずつ増えていた。
それが何を意味するのか、翔太は深く考えないようにしていた。
考えると、怖くなる。
依存している、という言葉が頭をよぎることがある。
七海との通話が「ない日」の夜の、部屋の静かさが、以前より少し重く感じられる。
それが何なのか——欲しいものが欲しい、という健全な感情なのか、それとも別の何かなのか、翔太には判断できない。
だから考えないようにしていた。
ある夜の通話で、七海が聞いた。
「最近、外に出たりしてる?」
翔太は少し黙った。
「してない」
「そっか」七海は責める声ではなかった。
「怖い?」
「怖い、とは違う気がするんだけど」と翔太は言った。
「なんか、出る理由がない感じ」
「理由がないと出られないタイプ?」
「どうだろう。前は普通に出てたから、タイプとかじゃなかったと思うけど」
「前と今で、何が違うんだろうね」
翔太は少し考えた。
「前は、出ることが普通だった。今は、出ないことが普通になった。それだけかもしれない」
「じゃあ、また出ることが普通になれば?」
「そうなるといいけど」
「なるよ、たぶん」
「たぶん、か」
「うん」七海は笑った。
「断言したら嘘になるから」
前にも同じことを言われた気がした。
断言しない人だ、この人は、と翔太は思う。
いつも「たぶん」と言う。
その「たぶん」が、翔太には妙に誠実に聞こえる。
「一個だけ聞いていい?」と七海が言った。
「何」
「翔太くん、今、靴ってある?」
翔太は少し笑った。
「あるよ。玄関に」
「新しいやつ?」
「いや、履いてないから汚れてないだけで、古いやつ」
「じゃあ、今度外に出る時、その靴で出てみてよ。新しい靴を買いに行く必要ない。あるやつで十分だから」
「何の話?」
「準備しすぎると出られないから」と七海は言った。
「靴は玄関にある。それだけで十分だよ」
翔太はその言葉を聞いて、玄関のほうを見た。
部屋から玄関は見えない。
でも、靴があることは分かっている。
紺色のスニーカー。
いつ買ったか忘れた。
たぶん在職中に買ったやつだ。
「考えてみる」と翔太は言った。
「うん」と七海は言った。
それ以上は言わなかった。
電話を切った後、翔太はしばらく布団の上に座っていた。
靴は玄関にある。
外に出る理由は、べつにない。
でも、理由がなければ出られない、という理屈も、よく考えると変だ。
人間はいつも理由があって外に出るわけじゃない。
気が向いたから散歩する、空気が吸いたいから出る、そういう理由のない外出が、以前は普通にあった。
翔太は立ち上がった。
特に考えたわけじゃない。
体が動いた。
靴箱の前に立った。
引き戸を開けると、紺色のスニーカーが並んでいた。
埃はかぶっていない。
本当に、履いていないだけで、まだ新しい。
翔太はそれを見て、一呼吸置いた。
ドアノブに手をかけた。
冷たかった。
十一月の夜の、金属の冷たさ。
ドアを開けた。
外の空気が、顔に来た。
冷たくて、少し湿っていて、遠くでどこかの夕食の匂いがする。
醤油と、油の混ざった匂い。
誰かの家の、普通の夜ごはんの匂い。
翔太はその匂いを嗅いで、少し目を細めた。
外は暗かった。
街灯が一つ、電線の下で光っている。
道路に車が一台通り過ぎた。
何でもない夜の光景。
でも翔太には、それが少しだけ眩しかった。
部屋に戻った。
玄関のドアを閉めた。
靴は脱いだままだった。
十分後、また玄関に行った。
靴を履いた。
かかとを踏まずに、ちゃんと手で持って、足を入れた。
少し硬かった。
ドアを開けた。
今度は、外に出た。
アパートの廊下を歩いた。
階段を降りた。
道路に出た。
外の空気が、全身に来た。
翔太は少し足を止めた。
空を見上げた。
雲が流れていた。
月が出ていた。
十一月の月は白くて、輪郭がはっきりしている。
夏の月より、くっきりしている。
コンビニは、アパートから五十メートルほど先にある。
以前は何も考えずに行っていた場所。
今は、五十メートルが途方もなく感じることがある。
翔太は歩き始めた。
ゆっくりと。急ぐ理由もない。
自動ドアが開いた。
蛍光灯の明かりが、外より何倍も明るかった。
目が慣れるまで少し時間がかかった。
店員が「いらっしゃいませ」と言った。
翔太は軽く頷いた。
缶コーヒーのコーナーに行って、HOTの缶を一本取った。
レジに行った。
「二十三時まで十パーセント引きになってます」と店員が言った。
若い男の店員で、翔太より年下に見えた。
「あ、そうですか」と翔太は言った。
精算して、外に出た。
缶コーヒーは温かかった。
手に持っているだけで、少し体温が戻る気がした。
アパートに戻って、部屋に入った。
靴を脱いで、電気をつけた。
翔太はスマホを取り出した。
七海に報告しようと思った。
文字を打ち始めた。
「出た」
送信した。
少し間があって、七海から返ってきた。
「え、今?」
「今」
「どこ行ったの」
「コンビニ」
「何買ったの」
「缶コーヒー」
「えらい」
翔太はその一言を見た。
えらい。
子供に言う言葉だ、と思った。
大人がコンビニに行って「えらい」と言われるのは、普通じゃない。
でも今の翔太には、普通じゃない。
だから「えらい」で合っている。
その一言を、翔太は思ったより長く見つめた。
「缶コーヒー、まだ温かい」
と打った。
「よかった。飲みながら寝てね」
「飲みながらは寝られない」
「じゃあ飲んでから寝てね」
翔太はそれを読んで、小さく笑った。
缶コーヒーを一口飲んだ。
甘くて、少し苦い。
コンビニの缶コーヒーの、いつもの味。
でも今夜は、少しだけ違う味がした。
外に出た夜の味、と翔太は思った。
日記を開いた。
今日、外に出た。コンビニまで。
缶コーヒーを買った。
それだけ。
靴を久しぶりに履いた。
少し硬かった。
月が出ていた。
書いて、閉じた。
悦子の部屋の電気がまだついていた。
ドアの隙間から、光が漏れている。
翔太は少し考えてから、ドアをノックした。
「何?」と悦子の声がした。
「いや、別に」と翔太は言った。
「電気ついてたから」
少し間があって、ドアが開いた。
悦子がパジャマ姿で立っていた。
眼鏡をかけていた。
本を読んでいたらしい。
「何かあった?」と悦子は言った。
「ちょっとコンビニ行ってきた」と翔太は言った。
悦子は一瞬、表情が動いた。
驚いた、というより、何かを確認したような顔。
でもすぐに元に戻った。
「そう」と悦子は言った。
それだけだった。
でも翔太は気づいた。
「そう」の前の、あの一瞬の表情に。
いつもと少し、違った。
「じゃあ、おやすみ」と翔太は言った。
「おやすみ」と悦子は言った。
ドアが閉まった。
翔太は自分の部屋に戻って、布団に入った。
缶コーヒーを飲み終えた。
外では風が出てきていた。
十一月の風が、アパートの壁を叩いている。
翔太はその音を聞きながら、目を閉じた。
靴の硬さが、まだ足の甲に残っている気がした。




